元谷 今日はご登場いただきありがとうございます。二〇一〇年、佐波さんの論文が第三回「真の近現代史観」懸賞論文の最優秀藤誠志賞を受賞してからのお付き合いですね。ワインの会や勝兵塾にも参加してもらっていましたが、ビッグトークは今回が初めてです。
佐波 よろしくお願いいたします。
元谷 佐波さんは、日本文化チャンネル桜のキャスター、モデルなど多方面で活躍しています。一方懸賞論文でも書いたように、先の大戦の戦没者の遺骨収集活動も続けてきたそうですね。佐波さんのような若い人がどうして遺骨収集活動に参加しようと思ったのか、そのきっかけをまずお聞きしたいのですが。
佐波 遺骨収集活動に参加したのは、今から十二年前の二〇〇一年のことでした。当時私は短期大学の最終学年で、何かボランティアをしようと気軽な気持ちで靖国神社の清掃奉仕に参加しました。落ち葉掃きなどをしたあと、偶然日本の兵士の遺書を目にする機会がありました。
元谷 靖国神社には、数多くの戦没者の方の遺書が納められています。
佐波 はい。その時も友人がそう教えてくれました。ですが戦争について何も知らなかった私は、なぜ神社に遺書があるのか大変不思議に思いました。
元谷 どうして不思議に思ったのですか?
佐波 学校で学んだ歴史では、日本軍の兵士はアジアの人々を虐殺した加害者だと教えられていました。普通遺書を残すのは被害者側なのにと不思議に思いました。加害者で殺人者側である日本軍兵士が遺書を残している理由が分からなかったのです。今思えば大変恥ずかしい話です。ですが同じく活動に参加していた多くの学生も同じ疑問を持っていました。思えば私たちの世代は戦争について大方そのように教わっていました。
元谷 そのことがきっかけで、いろいろと調べるようになったのですか?
佐波 はい。その遺書は最後に「自分の命はここで尽きるけれども、日本の子供やこれから生まれてくる孫たちのために戦います」と綴られていました。戦争とは私が習ってきたような一方的な加害行為ではなく、守るべきものがあって戦うものではないかと初めて思いました。また大東亜戦争では日本人の兵士が二百四十万人も国内外の戦場で戦死し、その半数の方のご遺骨が未だ戦地に残されていることを知りました。大変驚き、胸が痛みました。
元谷 確かにその数は今の感覚からすれば、膨大なものに感じられるでしょう。
佐波 はい。大変驚きました。その遺書に書かれていた「これから生まれてくる孫たち」というのは、正に今こうして生きている私達のことなのだと実感しました。学校教育では戦争とは遠い過去のことで、当時の軍国主義下の悪い日本人と今の平和憲法の下の正しい日本人とは全く異なると教えられていたのですが、これは間違いなのではないかと思いました。あの戦争で兵士が守って下さったことが今の私達の命に繋がっているのだと思うと感謝の気持ちが溢れてきました。その感謝の気持ちとして、せめて異国の地に取り残されたご遺骨を故郷日本にお連れしてさしあげたいなと思いました。
元谷 最初に行ったのはどちらだったのですか?
佐波 ミャンマーの、インパール作戦の敗走ルートと呼ばれる場所でした。
元谷 かつてのビルマですね。激戦があった国ですから、多くのご遺骨が残っていると思います。遺骨収集活動は日本政府が行なっているのですね?
佐波 はい。私が同行したのも厚生労働省の遺骨収集活動でした。遺骨収集団は、厚生労働省の職員、かつてミャンマーで戦って日本に帰還された日本兵士の方々からなる戦友会の皆様、そして遺族会の皆様と学生ボランティアという四団体から構成されていました。
元谷 実際に遺骨収集活動に参加してみてどうでしたか? いろいろと考えることもあったかと思うのですが。
佐波 土の中ではまるで歴史が止まったかのように、戦時中の様子のままご遺骨が見つかります。例えばモンゴルのノモンハンでは、ソ連の戦車の行く手を阻むかのように戦車の屋根にしがみ付いたままのご遺骨が見つかりました。死してなお護国の任務に就いている兵士の姿に、ただ「一緒に日本へ帰りましょう」と小さく話しかけることしかできませんでした。ミャンマーでは、野戦病院の跡が見つからずご遺骨をお迎えできない日々が続いていたときのことです。元兵士の方が自分が迎えに来たことをこの地に眠っている戦友に伝えたいと、当時一緒に歌ったという軍歌を足元の土に向かって歌っていらっしゃいました。「わしが来たんだよ。どうか応えておくれ」と涙を流されたお姿は、今でも忘れることができません。またロシアではシベリア抑留で亡くなられた方々のご遺骨をお迎えしました。気温が非常に低いために凍った土の中に眠るご遺骨には、まだ筋肉の組織が残っている場合もあります。太陽の光でそれが解けるからでしょうか、匂いを嗅ぎつけて沢山の羽虫が集まってくるのです。私が蚊やブヨなどを必死で払いのけていると、あるご遺族は蚊柱の中に正座をされて虫が集まるのを喜んでいらっしゃいました。
元谷 それはどうしてですか?
佐波 その方は両手を上げると「この虫達はな、お父ちゃんの死骸を食べて育った虫の子孫やから、父ちゃんのDNAが受け継がれているはずや。だから遺骨収集に来た私の周りをこうして喜んで飛んでいる。きっと父ちゃんが会いに来てくれたんやな」と愛おしそうに羽虫を見つめておられました。
元谷 非常に辛い経験をしましたね。また佐波さんは公募による予備自衛官にも任用されています。どうして応募しようと思ったのですか?
佐波 遺骨収集活動でご一緒させていただいた、ある元兵士の方のお話をお聞きしたことがきっかけです。その方は戦争当時のことをこうお話されていました。「私は戦争に行く前は楽しいことばかりを追求した若者で、戦争に行くのも死ぬのも嫌だった。でも実際に戦場で敵の弾が頭を掠めた時に、急に自分の後ろには両親や数多くの日本人がいることを実感したんだ。ここで自分が敵を食い止めなければ、いつか祖国の日本人に弾が当たることになる。両親や日本人を守るためにここで命を落とすのであれば、それはとても幸せな死に方だと思ったんだ」と。誰かを守るためなら死ぬことは怖くないと思えるようになったことに、ご自分でも驚いたそうです。
元谷 いざ戦場に出ると、考え方がすっかり変わってしまうのですね。
佐波 はい。そして「今の日本で国を守りたいという思いを受け継いでいるのは自衛隊の皆さんだ。今の若い人にも自衛隊に入って死んだ戦友たちの思いを受け継いでほしい」とおっしゃっていました。こんな私でも有事の際に国防の一端を担えるのならと思い予備自衛官に応募しました。六年前のことです。
元谷 昔の予備自衛官は、自衛隊経験者が除隊後に任ぜられるものでした。いつから公募の予備自衛官も誕生したのでしょうか?
佐波 二〇〇二年に制度が変わり、自衛官未経験者も国語や数学などの学科や体力測定などの試験に合格すれば、予備自衛官補に任用されることになったそうです。十八歳から応募できます。若い女性も大勢いて心強かったです。最初は予備自衛官補として五十日の訓練を受け、そのあと予備自衛官として任用されます。
元谷 なるほど。予備自衛官になっても、年間何日かの追加の訓練がありますよね。
佐波 毎年五日間の出頭訓練があります。災害時を想定した訓練や人命救助訓練、実弾射撃などを行います。
元谷 予備自衛官補になって最初に行った訓練は何でしたか?
佐波 最初は掃除でした。徹底した「清掃要領」を学び、それに従って教室から居室、風呂場、洗面所まで様々な所を掃除します。毎日、年末の大掃除のような細かさで、ロッカーの後ろからベッドの下までチリひとつないように磨き上げます。指に布を巻きつけて、窓の桟まできれいにします。
元谷 それが訓練なのですね。
佐波 はい。特別に綺麗好きだからということではなく、これも訓練だと教わりました。例えば実戦で野営をした後、撤収時に少しでも痕跡を残すと、敵に動きを察知されてしまいます。だから掃除を徹底することは、重要な訓練なのだと教えられました。
元谷 なるほど。ちゃんと意味があるのですね。
佐波 訓練中は現役の自衛官が二十四時間体制で国防の任務に就いていることを知り驚きました。国民の安全は「当たり前に存在する」ものではなく、多くの自衛官の努力によって「日々生み出されている」のだなと実感しました。
元谷 より多くの人がそのことを知るべきです。男性も女性も訓練は同じメニューなのですか?
佐波 はい、全く同じです。訓練中は誰も自分だけが先に行こうとはしないで、お互いサポートしあって皆で達成しようという雰囲気がとても強かったです。
元谷 そういったチームワークの築き方も学べるのですね。
佐波 訓練が人の生き方を変えることもあるんだなと思ったことがありました。同期の予備自衛官補の中にいつも俯いている若い男性がいました。話してみると、学校にも仕事にも行かずに毎日自分の部屋で過ごしているとのこと。親にアルバイトするか予備自衛官になるかを選びなさいといわれて仕方なく参加したものの、こんなところ早く辞めたいと嘆いていました。しかし訓練が進むに連れて、その男性の背筋が伸び、目付きがキリッとしてきたのです。聞くと訓練が辛くて何度も辞めようと思った。でもそんな訓練を自衛官は一年三百六十五日行なって自分達の平和を守ってくれていると気づき、心の底から感謝の念が湧いてきたというのです。同時に両親への感謝も芽生え、アルバイトも始めるようになったと力強い笑顔で話してくれました。
元谷 徴兵制度には賛否両論ありますが、そういった若者への教育効果というのも大きいですね。ところで、予備自衛官が実際、災害時に派遣されたことはあるのでしょうか?
佐波 残念ながら東日本大震災の時に召集された予備自衛官の数は、大変少なかったそうです。
元谷 十万人もの自衛隊員が被災地に派遣されたのですから、その分手薄になった国防を予備自衛官を活用して補ったのかと思っていたのですが…。
佐波 今後非常時には予備自衛官も派遣される方針に変わって欲しいと思っています。
元谷 私も同感です。地元である石川県の陸上自衛隊金沢駐屯地では、年に一回「訓練展示」という一般公開される模擬戦闘が行われます。オートバイで進んでいって、急に倒れこんで銃を構えるとか、迫撃砲を打つとか、戦車が登場するとか、この訓練展示を見学するのが私は大好きで、金沢に住んでいた時は毎年行っていました。陸海空の自衛隊がそれぞれ毎年持ち回りで観閲式や観艦式を行うのですが、埼玉県の朝霞駐屯地で行われる陸上自衛隊の中央観閲式をはじめ、海上も航空も全ての式を私は見学してきました。
佐波 改めて日本の防衛力の高さを実感できる機会ですね。
元谷 佐波さんが所属されているのは陸上自衛隊ですが、陸軍というのは軍隊の土台であり、これがきちんとしていないといくら海軍力や空軍力を高めても無駄です。ただ日本は島国ですので、大陸国に比べ海上や航空兵力の重要性が高いということはあると思います。今中国が様々な形で日本の領海や領空を侵犯していますが、実際自衛隊と戦って勝てるレベルには中国海軍も中国空軍も達してはおらず、日本にとっての脅威ではありません。第一回「真の近現代史観」懸賞論文で佐波さんと同じ最優秀賞を獲得した元航空幕僚長の田母神俊雄氏は、軍事力は一朝一夕に変わるものではなく、十年単位でウォッチングしていくべきものだと言っています。
佐波 おっしゃる通りだと思います。
元谷 しかし田母神氏は同時に、中国は着々と軍事力を伸ばしていますから、日本はそれに備えていかなければならないとも言っています。周辺全てに何らかの圧力をかけ、チベットを占領したりインドと戦争をしたりして、中国は常に領土を拡大しようとしてきました。これまでは海を隔てていたために、日本は安全だと思われていたのですが、昨年空母の配備も行った中国海軍がこのまま力を付けていけば、日本への脅威もどんどん増していくでしょう。これに対する策をきちんと立案するべきだということを、私はこのApple Townや勝兵塾でいつも発信しています。
元谷 私は文字や言葉で、言論として発信することで国に貢献しようとしているのですが、佐波さんは遺骨収集活動をしたり予備自衛官になったりして、行動によって国に貢献しているのが素晴らしい。その情熱はどこから生まれてくるのですか?
佐波 遺骨収集活動で硫黄島に行った時のことです。手の指先がボロボロになっているご遺骨をお迎えしたことがありました。周りの方に理由をお聞きすると、塹壕を手で掘ったからだというのです。この時硫黄島に派遣されていた二万人の日本兵士は、様々な理由で徴兵検査が不合格だったために最後に徴兵された第二国民兵と呼ばれる人々が多かったと聞きました。でも兵士たちはアメリカ軍は五日で落とすつもりだった硫黄島を三十六日間も守り抜いたのです。指揮をしていた栗林中将は、自分達が一日でも長く戦えば、本土の女性や子供達が一日長く生き延びることができるからと持久戦に持ち込むべく、塹壕を掘ったのです。最初はシャベルを使い、それが壊れると素手で掘っていったと聞きました。手のひらの中の小さな指先のご遺骨を眺めて、この方々が守ってくれたから今の日本人は生きていると思うと涙が止まりませんでした。
元谷 わかります。
佐波 この指の骨と今の日本人の命は繋がっている。現代を生きる日本人として感謝の気持ちを伝えたい、そう思っていた時に隣にいた遺族の方がふと「俺は、親父が死んでからは親戚中の厄介もんだったんだ」とおっしゃいました。お話をお聞きしますと、戦争中はお父様を褒めていた人々が戦後急に、おまえの親父は悪いことをしたとそのご遺族を責め続けたのだそうです。父親がいない家庭は就職先も見つけにくく大変ご苦労されたと。あれだけ苦労して日本を守ろうとした人々への評価が、戦後世論がすっかり変わって最悪のものになってしまったそうです。なぜそのような事態が起きたのか、硫黄島から帰ってからすぐに調べてみると戦後のGHQの占領政策で歴史が書き換えられたことが分りました。
元谷 その通りです。
佐波 戦争が終わった年の十二月八日からラジオで「真相はこうだ」というGHQのプロパガンダ番組が、新聞では「太平洋戦争史」という連載が始まり、いつの間にか日本は一方的に戦争で悪いことをしたようにされてしまいました。こういった考えを「自虐史観」とも呼びますが、これを元に戻さないことには、硫黄島で指をボロボロにしてまで日本を守ろうとした皆さんに申し訳が立たないと思います。一刻も早く一柱でも多くのご遺骨が祖国日本に帰れるように、また今後日本が先人の名誉を取り戻せるよう願っています。
元谷 素晴らしいことだと思います。アメリカは第二次世界大戦末期から始まっていた東西冷戦を優位に戦うために、なんとしても大戦中に原爆を完成させて使用したかった。アメリカはあらゆるチャンネルを使って降伏交渉をしようとしていた日本の唯一の条件だった、「天皇制の継続」への回答を曖昧にすることで時間を稼ぎ、完成させた原爆を広島と長崎に投下することで、ソ連を威嚇することに成功したのです。しかしそんな数十万人にも及ぶ民間人の虐殺が史上最悪の罪であることは揺るぎようがありません。アメリカが「良い国」のイメージを保つためには、原爆を投下された日本が「悪い国」になる必要があった。だからウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムを作成、佐波さんが言ったようなプロパガンダはもちろん、あらゆる書籍を検閲して書き直しを行うことで、日本人の洗脳を行ったのです。だから存在しない南京大虐殺や従軍慰安婦で、今でも日本は諸外国から非難を受ける羽目になっています。もう戦後七十年も経過するのですから、日本は真っ当な歴史の国に戻るべきなのです。
佐波 真っ当な歴史観を取り戻したいですね。
元谷 今年の参議院議員選挙で自民党が過半数を獲得するのは確実ですが、正しい日本の歴史を広めていく政治を自民党は行うべきです。行動的に歴史を取り戻す活動をしている佐波さんの今後の活躍に期待しています。最後にいつも「若い人に一言」をお聞きしているのですが。
佐波 韓国の「カシコギ」という小説の中の言葉で「あなたが空しく生きた今日は、昨日死んでいった者があれほど生きたいと願った明日」という言葉が出てきます。先の大戦では多くの方々が国を守るために戦死されました。今の私達が生きているのは、戦争で亡くなった兵士たちがあれほど生きたいと願った「明日」なのではないでしょうか。一日一日を無駄にせず、先人や両親に感謝をして毎日を大切に生きていく。そういう思いをさらに将来に繋げていって欲しいなと願います。
元谷 私の座右の銘にも「人生のどの一瞬を切り裂いても悔いのない そんな人生を歩いてみたい」というものがあります。さらに先人の犠牲に感謝をして…ということですね。素晴らしいお話です。これからも頑張ってください。
佐波 ありがとうございました。
佐波 優子氏
1979年生まれ。桐朋芸術短期大学卒業。日本文化チャンネル桜キャスター、戦後問題ジャーナリストとして活躍する一方、2001年から大東亜戦争で戦死された日本軍兵士の遺骨収集活動に参加。12年以上に亘ってミャンマー、フィリピン、ソロモン諸島、モンゴル、ロシア、硫黄島などの戦跡を訪れてご遺骨をお迎えした。2010年に陸上自衛隊予備自衛官・二等陸士・普通科小銃手に任用された。「祖父たちの戦争体験をお聞きする孫の会」、「シベリア抑留の真実を学ぶ会」代表。雑誌正論等を中心に執筆・講演活動を行っている。
対談日:2013年4月4日