Big Talk

日本は世界の中でも最高水準の平和を保っている国だVol.320[2018年3月号]

在日モルドバ共和国大使館 特命全権大使 ヴァシレ・ブマコフ
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APAグループ代表 元谷外志雄

中世ではオスマン帝国から、近代から現代では帝政ロシアやソ連から現在の領土を侵略されながらも、一九九一年にようやく独立を果たした東欧の若い国家モルドバ共和国。モルドバ共和国駐日特命全権大使のヴァシレ・ブマコフ氏に同国のEU加盟への願望や、スターリン時代に行われた人工飢餓による虐殺およびゴルバチョフ時代の禁酒運動など旧ソ連下の歴史秘話を中心にお話をお聞きしました。
ヴァシレ・ブマコフ氏

ヴァシレ・ブマコフ氏は1957年1月1日、モルドバ共和国オクニツァ地区のメレシェウカ村で生まれる。モルドバ国立農業大学を卒業後(1979年)、ブマコフ氏は同大学で教授を務め(1982-2001年)、農業工学で博士号を取得(1997年)。同氏はルーマニアにあるティミショアラ農業大学(2014年)、ヤシのゲオルゲ・アサキ技術大学の名誉博士号も有し(2017年)、モルドバ科学アカデミー会員も務めている(2004年)。モルドバ共和国名誉勲章も受章(2014年)。ジョンソン・ファーム・マシナリー(アメリカ)の農業機械部門で技術者や設計者、コロンビア国立大学で教授(1993年)、国連東チモール暫定行政機構(UNTAET)で暫定政府の農業部門責任者(2000年)、そして国連食糧農業機関(FAO)エキスパートとしてタジキスタンで農業機械化システム導入に従事(2015年)するなど、ブマコフ氏は国際的な役職を歴任する。同氏はまた1998年から2016年の間、農業・食品産業大臣(2011-2015年)を含め、モルドバ共和国政府の様々な役職も歴任する。2016年4月、同氏は初代在日モルドバ共和国大使館特命全権大使に任命される。

モルドバ共和国の領土は近隣の多くの帝国により常に翻弄され続け、ソ連崩壊で独立を果たす

元谷 本日はビッグトークにご登場いただき、ありがとうございます。これまでワインの会に二回お越しいただき、勝兵塾にも参加。次はビッグトークと思っていたのですが、ようやく念願が叶いました。

ブマコフ 今日はよろしくお願いします。

元谷 モルドバ共和国は、一九九一年のソ連崩壊に伴って独立した若い国です。二〇一六年に東京にモルドバ大使館が初めてできたと聞いているのですが、ということはブマコフさんが初代大使なのでしょうか。

ブマコフ はい、そうです。私はモルドバ共和国の初代駐日大使になれたことを非常に誇りに思っています。私はモルドバ国立農業大学に長く務め、そこで元々は機械工学の教授をしていました。その後、農業・食品産業大臣を含め、モルドバ共和国政府の様々な職務に就きました。その頃から日本に大使館を開くべきだとずっと主張していたのです。

元谷 どうして在日大使館の開設が必要だと思われたのでしょうか。

ブマコフ モルドバ共和国の経済においては農業が重要な役割を果たしており、特に良質の葡萄の生産で知られています。二〇〇〇年以降、私は日本政府による政府開発援助(ODA)に関係する様々なプロジェクトに従事し続け、日本のような技術大国がモルドバ共和国にとって非常に重要なパートナーになると確信しました。また日本は一九九一年一二月のモルドバ独立を最初に承認した国の一つで、その後のモルドバの成長を効率良く援助してくれ、その額は一億五千万米ドルに及びます。民主主義や市場経済、そして法の支配についての我々の共通の価値観は、今日の両国間の対話における基盤になっています。これらが、私が東京にモルドバ大使館を開設するべきだと主張していた理由でした。

元谷 日本では官僚や政治家は東京大学法学部を筆頭に文系の大学・学部を卒業した人が多いのですが、社会主義国や社会主義を経験した国の場合、理系の政治家や大使が多いという印象があります。社会主義体制下の政治や経済の分野を学ぶと、体制への疑問が止めどなく湧いてくるために、優秀な人は理科系の学問を選ぶからではないかと私は考えているのですが。

ブマコフ 代表の推測はかなり正しいです。私の父は社会主義が大嫌いで、私が専攻として社会主義国だけではなく自由主義国でも通用する工学を選んだことを、非常に喜んでいました。技術分野を学んでいないと、日本の素晴らしい偉業は理解できなかったでしょう。私自身の経験を胸に、そして私が日本の方々と築いた特別な人間関係と併せて、初代駐日大使の任を受けたことを誇りに思いました。

元谷 ソ連時代でも国の政策に疑問を持つ人はいたのですね。

ブマコフ はい。私の一族はイデオロギーを信じなかったのです。しかし当時はマルクス・レーニン主義を熱狂的に信じる人々もいましたし、モルドバをはじめ旧ソ連の国々には今でも社会主義が最高の統治体制だと信じて疑わない人々がいます。

元谷 日本人はモルドバという国のことをあまり知りません。どこにある国なのでしょうか。

ブマコフ モルドバ共和国は東欧地域の交通の便の良い場所に位置し、西をルーマニア、南北と東をウクライナに接した内陸国です。九州より少し小さい国土に約三百五十万人の国民が住んでいます。宗教はキリスト教の正教を信じる人が多いですね。

元谷 言葉はルーマニア語だと聞いています。

ブマコフ モルドバ共和国は欧州大陸における多言語国家の一つです。公用語であるルーマニア語も話しますが、ウクライナ語やガガウズ語、ロシア語、ブルガリア語そしてポーランド語といったように、民族的背景に基づいて複数の言語を話す人が多いです。また英語やフランス語、ドイツ語、スペイン語およびその他の外国語も学校で教えられています。さらに特筆すべきは、ここ数年で日本語の人気が出てきており、モルドバ国立大学に設置されたモルドバ日本交流財団において学ぶことができます。ルーマニア語については、その歴史は他の主要な欧州言語と似ています。一九世紀にドイツ統一が果たされた時に、様々なドイツ語を統合して統一ドイツ語が作られました。スペイン語もイタリア語もルーマニア語も同じです。

元谷 少し歴史的なことを教えていただきたいのです。言葉も民族もルーマニアと同じだと聞いているのですが、どうして今は別の国になっているのでしょうか。

ブマコフ ルーマニアと現代のモルドバ共和国は政治、経済、文化そして社会的一体性という点においても、近しい歴史的遺産を共有しています。今この二国になっている土地に、一四世紀にワラキア公国とモルダヴィア公国が誕生、一五世紀にはワラキアではドラキュラ伯爵のモデルとなっているヴラド・ツェペシュが、モルダヴィアではステファン大公がオスマン帝国と果敢に戦いました。この両者はルーマニアとモルドバ共和国では英雄とされています。しかし両公国とも結局オスマン帝国の支配下に入ります。その後オスマン帝国は衰退、露土戦争の結果、一八一二年にモルダヴィア公国の東部にあたるベッサラビアは帝政ロシア領になります。一部ウクライナ領になっていますが、このベッサラビアが今のモルドバ共和国の領土とほとんど同じと言っていいでしょう。当時、帝政ロシアは南下政策として二つの大きな野心を持っていました。一つはボスフォラス海峡を抜けて地中海に出ること、もう一つがインド洋に出ることでした。その前者の拠点として、ベッサラビアが重要だったのです。残りのモルダヴィア公国とワラキア公国は一八五九年に合併し、ルーマニア公国となります。その後王政となったルーマニア王国は一九一八年に独立したベッサラビアを一旦統合するのですが、ベッサラビアは一九四〇年にソ連に占領されます。一時期ルーマニアに戻ったものの一九四四年に再びソ連に併合され、ベッサラビアはモルダビア・ソビエト社会主義共和国と名称を変えました。その後の一九九一年八月二七日、モルドバ共和国議会は独立宣言を採択しました。モルドバ共和国の国民による民主的な国家解放運動が、自由や独立そして国家統一への願望を如何にして再確認させたのかを最近でも思い出させてくれました。それは一九八九年八月二七日、一九九〇年一二月一六日および一九九一年八月二七日付の「キシナウ国家再統合憲章」の最終文書において記載されました。同様に、一九八九年八月三一日にはルーマニア語とラテン文字を公用語として再導入する法案が、一九九〇年四月二七日には国旗を採択する法案が、一九九〇年一一月三日には国章を採択する法案が、そして一九九一年五月二三日には共和国の正式名称変更に関する法案がモルドバ共和国議会で可決されたことも記載されました。

元谷 かなり複雑な運命を辿った国なのですね。

ブマコフ モルドバ共和国の領土は、中世はオスマン帝国、近代は帝政ロシアやソ連といった近隣の多くの帝国により常に翻弄されてきました。

スターリンは飢餓を使って
多くの国を従わせた

元谷 第二次世界大戦時にはソ連領だったということですが、モルドバ人はソ連兵としてナチス・ドイツと戦ったのでしょうか。

ブマコフ ソ連のモロトフ外相とドイツのリッベントロップ外相が一九三九年に独ソ不可侵条約と一緒に締結した秘密議定書に従って、一九四〇年にソ連がベッサラビアに侵攻したのです。

元谷 それではルーマニアは日本同様、国連の旧敵国に入っているのでしょうか。

ブマコフ ルーマニアが枢軸国として戦ったのは、ソ連からベッサラビアなど領土を取り戻すのが目的でした。しかしソ連からの侵攻が激しくなり、ルーマニアやベッサラビアで二百万人以上の人々がソ連軍に殺される事態となり、一九四四年に即位したルーマニア王のミハイ一世はルーマニア革命を起こして枢軸国側から離脱、連合国側に寝返りました。国を守る手段としてはそれしかなかったのです。

元谷 なるほど。第二次世界大戦終結時にはルーマニアは連合国で、モルドバはソ連領だったということですね。

ブマコフ はい。しかし虐殺はまだ続きます。一九三三年に当時はソ連領のウクライナで、人工的・組織的に飢餓が起こされ、八百万人もの人々が餓死しました。同様に一九四六〜一九四七年、モルドバで赤軍が穀物を全て取り上げたため、人口の約一割の三十万人が餓死しました。

元谷 大戦後にそんなことがあったのですか。目的は何だったのでしょう。

ブマコフ スターリンがモルドバや他の国々を従わせ、同質なソ連を築こうとしたからです。正直で愛国心のある人は全ての食料を差し出して餓死しました。抵抗した人はシベリアの強制収容所送りです。不正直で食料を隠した人のみが、生き延びることができたのです。

元谷 ウクライナの人工飢餓は知っていましたが、モルドバの飢餓は知りませんでした。中国が一時期、自国の農家から収奪した農作物を大量にハンガリーなど東欧諸国に輸出していた時代がありました。毛沢東がスターリンの真似をして社会主義国のリーダーになろうとして行ったことです。しかしこの収奪によって中国では非常に多くの人々が飢餓で亡くなりました。

ブマコフ 今私は、私が私の家族と共有した経験についての本を書いているところですが、その中でモルドバにおける組織的飢餓についても触れています。

元谷 中国の場合、内モンゴル自治区や東トルキスタン自治区、チベット自治区などへどんどん漢民族を送り込んで、民族同化を図っています。ソ連の場合はそのようなことはなかったのでしょうか。ロシア語を強要されたり、社会主義では存在し得ないキリスト教を禁止されたりはなかったのでしょうか。

ブマコフ モルドバ共和国の領土に住む人々はどの国の支配下においても、常に独立を求めて、独自の文化を維持してきました。ロシア語は文字も含め強要されましたが、同時にルーマニア語を失うこともありませんでした。宗教に関してはソ連時代、多くの教会が閉鎖されるかKGBの監視下に置かれました。村に一つずつあった教会も、農薬や化学物質の貯蔵庫になってしまいました。しかし私の母をはじめとして、多くの人がそんな中でも信仰を守り抜いたのです。ソ連時代も末期には、教会の重要性が再度見直されるようになりました。

EUに加盟することには
安全保障上のメリットも

元谷 ルーマニアもモルドバも独立国となった今、再び一つの国になろうという動きはないのでしょうか。

ブマコフ もちろんあり、常に議論されています。毎年統合賛成派が増えている印象もあります。

元谷 ルーマニアはすでにEUに加盟していますが、モルドバはまだ未加盟です。EUに入れば、敢えて一緒の国になる必要はないかもしれないですね。

ブマコフ そういう考えもあります。モルドバ政府は改革と、EUとの連合協定を実現する固い決意を持っています。我々の社会にとって政治的メッセージは重要です。欧州における信用を強化するからです。モルドバが右往左往するのはもう十分です。現在の政府の主な目標はモルドバが欧州の一部であることを不可逆なものにすることであり、我々は改革を通じてこれを実現しようとしています。

元谷 ロシアが再び大国主義となり、二〇一四年にはウクライナからクリミア半島を奪って併合しました。今でもウクライナ国内では政府と親露派との小競り合いが続いています。ウクライナがEUに入っていれば、このような事態にはならなかったのではと私は見ています。はっきりとEU加盟をすればロシアも手を出さないのですが、曖昧にしていると進出してくる可能性がある。ウクライナの隣にあり、同様に旧ソ連領だったモルドバでも、ロシアの脅威は感じているのでしょうか。

ブマコフ ご存知の通り、モルドバ共和国内にはトランスニストリアという分離独立地域があり、ここの違憲為政者たちはロシアの政治家から多大な援助を受けています。トランスニストリア戦争の和解について、モルドバ共和国政府は五プラス二協議(モルドバ、トランスニストリア、OSCE、ウクライナおよびロシア+EUおよびアメリカ)プロセスの重要性を再確認しましたが、これにおいては国際的に認められた国境線内におけるモルドバの主権と領土保全を鑑みた上で、トランスニストリア地域に特別なステータスを付与することを通じて、包括的かつ持続的な解決策を打ち出すことについてモルドバ側はたゆまぬ努力を続ける決意です。同時に、モルドバはその領土内において違法かつ継続的に外国の軍隊が存在する事態を深く憂慮しています。国際公約とモルドバ憲法の定めに従い、ロシア軍がモルドバから完全撤退することを我々は毅然と繰り返し要求しています。また我々は、現在の平和維持活動を国際的な委任統治による文民ミッションに変える上での適切な議論を開始することも繰り返し求めてきました。このような事情を抱えながらも、モルドバは常にロシアとも良い関係を築こうと努力してきています。今の世界ではかつてのような武力行使による領土拡大は承認されませんし、領土を守るよりも社会や言語、文化を守ることが重要になってきています。

元谷 文化を守るためにも一刻も早いEU入りが必要ですね。日本もモルドバのEU入りを支援するでしょう。

ブマコフ 代表や、東京およびキシナウの様々な日本政府関係者からそう言ってもらえるのはとても嬉しいことです。モルドバ共和国のEU加盟のための日本からのサポートは、我々双方の民主主義が共有する共通価値への投資です。

元谷 外交において重要なのは明確な意志を示すことです。アメリカが尖閣諸島も日米安保の適用範囲と明言したからこそ、中国は東シナ海で様々な挑発行為は行っていますが、実力行使には至っていません。

ブマコフ 明確な意志の表示や明確な決定が外交で重要だということは、私も同感です。古くから戦争が絶えなかったヨーロッパですが、第二次世界大戦が終わって、侵略戦争違法化の意志を明確にし、国境を明確に定めた後は、七十二年間ヨーロッパで大きな戦争は起こっていません。ソ連崩壊時、ウクライナは相当数の核兵器を保有していました。核をロシアに返却するので、国境線を明確に…と交渉したのですが、上手くいかなかったのです。モルドバは今後もウクライナの領土保全を支持し、ドンバスにおける紛争の和解と違法に併合されたクリミア半島の返還を支援し続けていくでしょう。

元谷 ウクライナに核兵器を持たせなかったことについては、とにかく核拡散を防ぎたかったアメリカの意向も大きいでしょう。

ブマコフ そうですね。国際公約が尊重されるべきだということを証明するため、アメリカはウクライナ紛争に関してロシアに経済制裁を行っているのではないでしょうか。

元谷 安全保障の観点からもEU入りをという話をしましたが、一方EUもイギリスの離脱などで屋台骨が傾いできています。

ブマコフ 雨降って地固まるということもあります。今後の情勢を注意深く見守りたいと考えています。

ワイナリーの地下貯蔵庫と
美しい風景が見もの

元谷 少し話を変えましょう。モルドバを旅行で訪れるとしたら、何を楽しみにして行けば良いのでしょうか。

ブマコフ モルドバ人は日本人同様、おもてなしを非常に大事にします。地図上ではモルドバは一房の熟れた葡萄のような形をしていて、国土に占める葡萄園の面積の割合が世界一なのは偶然ではありません。世界で最も訪問者が少ない国の一つとして、モルドバはすべての場面で旅行者を驚かせて魅惑し、忘れることができない思い出とユニークな旅行話を友人に教えてあげることができるでしょう。さらに気候と土壌が良いために農作物が豊富で、美味しい食事とワインを楽しむことができます。ソ連時代は穀物の宝庫と呼ばれていて、野菜や果物も大量に生産していました。そのこともあって、宇宙飛行士の食事を作ることでモルドバはソ連の宇宙計画に貢献していました。

元谷 最近はワイナリーツアーが人気だとお聞きしましたが。

ブマコフ はい。中でも人気のワイナリーは国営企業の「クリコバ」です。このワイナリーは深さ六〇〜八〇メートルの地下に全長一二〇キロメートルにも及ぶ地下貯蔵庫を持っています。この地下貯蔵庫は、かつては石切場だったのです。元々良質のライムストーンが採れる場所だったのですが、第二次世界大戦による破壊からの復興のため需要が増加、最初は囚人による手掘り労働で採掘していたのが、巨大な機械を導入して石を切り出すようになっていきました。貯蔵庫の中の温度は年中一三度で湿度も高く、ワインの貯蔵には最適です。モルドバのワインは特にスパークリングワインが有名で、それを中心にソ連のワインの約六〇%をモルドバワインが占めていました。ロシアやウクライナに樽で送られ、瓶詰めは各地で…ということも行われていました。毎年十月には「全国ワインの日」を首都の中央広場で祝います。我が国最高のワイン醸造者たちが何千人ものゲストを歓迎し、信じられないくらいのワインの種類の多さと質の良さでゲストを驚かせます。「全国ワインの日」の壮大なスケールは想像を絶するものです。一五万人の訪問者と試飲できる千を超えるワインの種類は、数え切れません!

元谷 ワイナリーの他に見ておいた方が良い場所はありますか。

ブマコフ 美しい風景でしょうか。非常に起伏に富んでいることが、美しさを引き立てています。コンサートやお祭り、レースそしてマラソンに至るまで、多くのイベントもあります。毎年、何千人ものモルドバ国民がこれらイベントに参加しています。秋には世界中からフォークソングやジャズの演奏家が集まる「エスノ・ジャズ・フェスティバル」に来てみてください。夏には野外円形競技場でワクワクするような歌声が聴ける「デスクオペラ」という三日間のオペラ・フェスティバルを訪れてみてください。真冬には地下ワインセラーで開催される「地下フェス」で音楽を、または十キロの距離で競う「ワイン・マラソン」を楽しんでください。

元谷 そうですか。ぜひ一度訪れてみたいですね。

ブマコフ 私は、日本は世界の中でも最高水準の平和を保っている特別な国だと考えています。

元谷 日本は地政学的に恵まれていました。大陸から離れているので簡単に攻められることもなく、一方で自給自足も可能です。逆に大陸にある国家は近隣の国から攻められる可能性がありますから、戦争に明け暮れる悲惨な歴史を辿るかもしれません。また歴史を振り返れば、戦闘行為で死ぬよりも、国家の無策によって飢餓や疫病で死ぬ人の方が多いのではないでしょうか。先の大戦で日本軍が行ったインパール作戦では、あまりにも補給線が長くなり、多くの兵隊が飢えや感染症で亡くなりました。

ブマコフ 無策の政府のせいで死ななくてもいい死者がでるのは、その通りです。ソ連の末期、ゴルバチョフ大統領時代にアル中対策として禁酒運動が行われ、酒類の販売が制限されました。その結果、メチルアルコールなど代用酒を飲む人が増え、多くの人が命を落としました。これもその一例でしょう。当時、友人が集まる会食の際には密かに酒類を仕入れ、ティーポットにワイン、コーヒーポットにコニャックを入れて、酒ではないふりをして飲んでいました(笑)。

元谷 スターリンや毛沢東、ボル・ポトなどが率いた社会主義政権は、合わせれば億単位の人を殺しました。しかしアメリカが広島・長崎に原爆を投下しなかったら、ユーラシア大陸からヨーロッパまで地続きの全てが社会主義化され、結果もっと多くの人々が犠牲になったかもしれません。日本人の犠牲によって第三次世界大戦という「熱戦」が「冷戦」に変わったということもできるでしょう。アメリカは原爆投下の正当化のために日本を貶める必要があり、南京で三十万人大虐殺や従軍慰安婦強制連行二十万人を否定せず、そして最近私がハワイの太平洋航空博物館で発見したドゥーリットル空襲後に日本軍が二十五万人の中国人を殺害したという展示を行うことなどで、「悪い国・日本に原爆を投下することで、良い国に変えた」というストーリーを世界に広めてきました。しかしそろそろ真実を明らかにする時です。まず日本がアメリカの原爆投下の意義を認めることで、アメリカも日本を貶めることを止めるのではないでしょうか。

ブマコフ 私も駐日大使の仕事で広島・長崎にこれまで二回行ったことがあります。ハワイも今年行き、太平洋航空博物館でご指摘の展示も見てきました。戦争の犠牲者に敬意を払うことで、苦しんだ人々のことを胸に刻むことができます。

元谷 南京や慰安婦同様、ドゥーリットルの件もすぐに反論しなければ、本当にあったことだと思われてしまいます。このような歴史的に誤った展示をブマコフさんはどう思いますか。

ブマコフ 私は外交官ですが研究者でもあり、学問の世界でも嘘が沢山あることを知っています。私としてはドゥーリットルの件も、本当はどうなのか、何を根拠になぜ太平洋航空博物館はあのような展示を行っているのか、もっと調べて検証した上で評価したいですね。

元谷 それも正しい姿勢だと思います。最後にいつも「若い人に一言」をお願いしているのですが。

ブマコフ 私はアメリカ、コロンビア、タイなど複数の国で働いてきましたが、日本ほど素晴らしい国は他にありません。若い人達はそれを意識して、自分達の力で守ることを考えて欲しい。また真実の歴史を探求する試みも素晴らしく、それを行っている代表を尊敬しています。

元谷 今日はいろいろ面白いお話を、ありがとうございました。

対談日2017年12月26日