Big Talk

素晴らしい日本の文化と歴史を多くの人が知るべきVol.318[2018年1月号]

埼玉県知事 上田清司
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APAグループ代表 元谷外志雄

十四年に亘る在任期間で高校の中途退学を減らしたり、公務員数を削減したり、数々の実績を上げてきた埼玉県知事の上田清司氏。四回連続の落選にも挫けずに五回目の挑戦で国会議員となった不屈の精神を持つ氏に、政治家を目指した理由や日本の素晴らしい歴史の数々などをお聞きしました。
上田 清司氏

1948年福岡市生まれ。1971年法政大学法学部法律学科卒業、1975年早稲田大学大学院政治学研究科修了。1976年新自由クラブ立党に参画、建設大学校非常勤講師の傍ら衆議院議員選挙に挑戦。4度落選し、1993年に初当選。3期連続で当選した後の2003年埼玉県知事に就任、現在4期目。

初出馬から十三年
五回目に衆院議員初当選

元谷 本日はビッグトークへのご登場、ありがとうございます。

上田 今日はお話できるのを楽しみにしてやってきました。よろしくお願いします。

元谷 上田さんは知事の前は衆議院議員で、最初のメンバーとして拉致議連の結成にも参加していましたね。

上田 平沢勝栄さんや平沼赳夫さんと一緒に始めました。知事になった後、私のポジションは松原仁さんが引き継ぎました。

元谷 また知事になってから教科書問題にも取り組まれています。今知事は何年やっていますか?

上田 四期十四年になります。

元谷 かなり長くなりましたね。幼い時から政治家志望だったのですか?

上田 私は福岡市の生まれなのですが、育ったのは大牟田市でした。三井三池炭鉱があった街です。物心がついた時には、三井三池争議の真っ只中でした。街中に失業者が溢れ、俗に言う不良少年も非常に多かった。私は子供ながらに、少年が不良になるのは教師が悪いと思っていました。だからそれを正すために教師になると決めていました。しかし高校二年生の時に毎日新聞の「教育の森」という連載企画を読んで、考えが変わったのです。教師になっても一学級しか救えない。しかし現状では教育制度自体を変えないと多くの子供を救えない。制度は法律で決まり、法律を決めるのは国会。だから国会議員になろうと決心したのです。

元谷 伝手はあったのでしょうか?

上田 何もありませんでした。大学から東京に出たのですが、福岡に戻った時には高校の同窓会の世話役をするなど、一生懸命顔を売っていました。結局埼玉県からの出馬になって、それらの努力は全くの無駄に終わったのですが。

元谷 衆議院議員選挙にも埼玉県で出馬したのでしょうか?

上田 はい。一九八〇年に衆議院議員選挙に初挑戦したのですが、当時私は新自由クラブの政策スタッフをやっていたのです。この時のルールは、党の公認候補を二十五名揃えないと無所属になってしまうというものでした。今年と同じく急な衆議院の解散となって、十六名しか候補者がいなくて、なんとかあと九人集めなければならない。そこで私は二十四番目の候補者として埼玉県で出馬したのです。後で「しまった」と思ったのは、テレビにも新聞にも、私が埼玉のため国のために頑張ると言っているのが残っているのです。これで後に福岡県で出馬したら、将来私が大人物になった時に、昔上田は「埼玉のため」と嘘を言っていたと糾弾されると思ったのです(笑)。これはもう今後も埼玉県のために頑張るしかないと、腹を決めました。

元谷 その時は当選したのでしょうか。

上田 全く駄目でした。その後も落選が続き、私は四回連続で落選したのです。初出馬から十三年、五回目の挑戦でようやく当選しました。

元谷 大変な経歴です。よくそれだけ長く出馬を続けることができましたね。

上田 他人から見れば単なる落選ですが、私から見れば着実に得票が増えていて、当選に向かっているという手応えがあったのです。

元谷 衆議院議員になってからは、主に教育問題に携わって来られたのでしょうか。

上田 どちらかというと大蔵委員会に属していました。教育政策の話はもちろんできますが、その基礎となる税制など、具体的な財政を知らないと政策が実現できないからです。バブル崩壊後の金融危機もあって、国会議員時代は大蔵委員会から離れられなくなりました。

教育問題に取り組む
不登校を改善

元谷 では教育問題は知事になられてから本腰を入れられるようになったのですね。

上田 そうです。知事になって最初に行ったのは、不登校や中途退学問題への取り組みでした。もちろん中途退学が全て悪いわけではなく、在学中に別の進むべき道を見つけて、学校を辞めることもあるとは思います。しかし私が知事になった当時、埼玉県には県立高校が百五十五あったのですが、毎年二百人入学して、卒業するのは半分の百人という学校もありました。特に夏休みが鬼門で、新学期になると七十人いなくなっているということもありました。全国都道府県の高校中退率ランキングでは低い方から数えて四十六位と、全国二番目の高中退率だったのですから。そこで教育長とじっくりと話して、対策を検討しました。

元谷 どういう対策を取られたのでしょうか?

上田 成績が悪くて劣等感の塊のようになっている生徒に、勉強しろといっても無理なのです。であれば、できるだけ体験学習をさせようと。例えば女子生徒が保育園で一週間お手伝いとして働く。小さい子供は若い人が好きですから、「おねえちゃん、おねえちゃん」と懐くのです。そうすると自己評価が上がって、「私なんか…」という意識が薄れます。じゃあ保育士になろうと思ったら資格が必要ですから、勉強しなくては…となるのです。ただやみくもに勉強させるのではなく、目標を持った上で勉強するように仕向けていきました。結果高校中退率はどんどん低下して、低い方から数えて十二位になりました。

元谷 高校中退問題の原因の一つに、家庭内教育が疎かになっていることがあると思います。それは大家族制度が崩壊したからでしょう。先の大戦の後、アメリカ占領軍は平等教育によって、家督制度と大家族制度を破壊したのです。そのために大家族が個家族になり、家族内の知恵の伝承ができなくなってきています。

上田 家族が多い方がストレスに強くなりますからね。ストレス負けすると、いじめに抵抗できません。

元谷 その通りです。

上田 中学校の不登校も高校の中退に繋がります。しかし市町村立である中学校には、私の権限は及びません。それぞれの市町村の教育委員会の管轄になるのです。それならばと、文部科学省で調べている学校基本調査の中学校の不登校率を見ると、埼玉県は一〇〇人中三・三人と悪い方から数えて八番目になっているのです。このことを首長や教育長が知らない。そこで毎年、市町村の教育委員会に学校基本調査の不登校のデータを配布するようにしました。今、不登校は随分減り、埼玉県は良い方から七番目になっています。このように、自分にできる範囲で極力教育問題に関与するようにしています。

元谷 中学校の歴史教科書の採択の件はどうでしょうか。なかなか自由社や育鵬社の教科書が採択されていないと思います。間違ったことを教えるのではなく、正しいことを教えないと。

上田 しかしなかなか、改革は進みません。六年間一貫教育の県立の中学校が一校だけあり、そこの歴史教科書には育鵬社のものを採択したのですが、轟々たる非難が来ました。

元谷 南京大虐殺は無かったと発言した名古屋市長の河村たかしさんも、強い批判を受けました。私も今年の一月、南京大虐殺は無かったと書いた自著をホテルの各部屋に置いていることで、中国政府から名指しで非難されましたが、逆に知名度が上がりました。中国からのお客様が減った分、台湾など他国の方や、日本人が応援で宿泊してくれて、業績は悪化するどころか、新記録を更新し続けています。

上田 私は一九七〇年代に南京に行ったことがあります。まだ戦後三十年ですから、もしああいう事件があったら石を投げられていたはずです。しかしそんなことはありませんでしたね。

元谷 三十万人も虐殺されていれば、当時から大きな話題になっていたはずです。常にメディア向けに会見を行っていた蒋介石も、南京での虐殺を抗議したことはありません。南京に多数駐在していた外国メディアの特派員も何も伝えていません。そんな虚構が教科書に書かれているのはおかしい。自国の教科書を作成するのに他国の意見を聞かなければならないというのは、おかしいでしょう。しかも相手の国にはそのようなルールはないのです。

四〜五世紀の日本は
朝鮮に出兵していた

上田 昔の歴史教科書に記載されていた「任那日本府」は、今の教科書にはありません。中国の「宋書」によれば、五世紀、倭の五王が宋に朝貢して官職を求めています。宋書に言う倭の五王とは当時の日本の天皇のことだと思われます。四七八年の朝貢の見返りとして、宋書に五王の一人として「武」と記される雄略天皇は、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の称号を宋から与えられています。ただ、認められない時代もあった様で四二五年には称号を自称したという記述も残っているのですが。埼玉県行田市で一九六八年に見つかった金錯銘鉄剣はその銘より、この雄略天皇に仕えていた親衛隊長と思われる者が四七一年に作らせたものだと判明しています。

元谷 そのような昔に日本が朝鮮半島に進出していたことは、あまり知られていないのではないでしょうか。

上田 そうだと思います。また中国の北朝鮮国境近くにある好太王碑には、日本が三九一年に海を渡ってやってきて、百残・加羅・新羅を破って臣民としたという記述があります。

元谷 十六世紀末の豊臣秀吉の朝鮮出兵は知っていましたが、その千年も前に日本の軍勢が玄界灘を渡っていったのですね。

上田 任那や百済付近に日本人がいて、ここを拠点に朝鮮半島で兵を集めたという説もあります。つまり遠征した兵はそんなに多くなかったのでは…とも言われています。

元谷 なるほど。それならわかります。

上田 私は世界の文明の比較も好きです。世界の四大文明と呼ばれているのはエジプト、メソポタミア、インダス、黄河文明で、約五千年前からと言われています。しかし日本でも青森県の三内丸山遺跡の調査によって、ほとんど同時期の約四千五百年前に人々が大きな建物に住み、農業を行っていたことが分かっています。

元谷 四大文明だけが進んでいたわけではないのですね。

上田 そうです。埼玉県はアメリカのオハイオ州と姉妹提携をしているのですが、私も一度、お雛様の人形を持って訪問したことがあります。そしてこの人形の装束は千年くらい前のもので、今でも日本の皇族が着ることがあると伝えると、オハイオ州知事はショックを受けるのです。

元谷 それはそうです。アメリカは建国してまだ二百四十年の歴史しかありませんから。

上田 日本は伝統を重んじる国なのですが、歴史については海外の文献に重きを置き過ぎています。例えば、魏志倭人伝を金科玉条のように信用しているのです。しかし魏志倭人伝の著者は日本に来たことはありません。その点では、日本をジパングと称して黄金の国だと記述した、マルコ・ポーロと何ら変わることはなく、伝聞のみで作られた書物なのです。魏志倭人伝で描かれる三世紀前半の卑弥呼の時代の日本は、ひどく文明が遅れている国です。そんな国が、たったの百五十年後に海を渡って朝鮮半島に出兵することができたとは思えません。今教科書には魏志倭人伝に依拠した記述ばかりが行われているのですが、もっと日本書紀や古事記に基づく記述を増やすべきです。古事記は神話じゃないかと言う人もいますが、完全に想像上の物語ということはあり得ないでしょう。実際にあった事件を形を変えて伝えているという解釈が真っ当ではないでしょうか。そして古事記、日本書紀の三百年後の一〇〇八年に、世界初の小説とも言われる紫式部の「源氏物語」が誕生するのです。

素晴らしい日本の文化と歴史

元谷 これだけ素晴らしい日本の文化と歴史なのですが、教科書がこれをきちんと伝えていません。自信を持って海外の人々に日本の良さを語ることができないから、若い人が外国に行きたがらなくなる。近年日本人留学生の数が減ってきているのも、この辺りに理由があるのではないでしょうか。

上田 そうかもしれません。他にも日本の凄さを示すエピソードは沢山あります。徳川幕府は鎖国をしたと言われますが、当時の世界ナンバーワン国のオランダと東アジアの大国の中国とは、交易を続けていたのです。

元谷 オランダはさほど熱心ではなかったですが、通常占領前の尖兵としてやって来るのが宣教師でした。布教して信者を増やして乗っ取るというのは、スペインがフィリピンで行ったことです。

上田 しかし日本は民度が高くて、宣教師も深く入り込めず、植民地にはなりませんでした。フランシスコ・ザビエルの書簡が残っていますが、そこでは日本を世界第一等の国と評価しています。一五七〇年代の町でもゴミひとつ落ちていない。人々は礼儀正しく、博打をしないと書いてあります。本当は寺院で博打は行われていたのですが、もちろんザビエルは寺には行かないので、知らなかったのでしょう。

元谷 鉄砲も数丁輸入されただけで、どんどん復元して量産していきました。技術を持った職人集団がいたからでしょう。日本は常に基礎的な技術を持っていて、新しいものをすぐに吸収して自分達で作り上げるという能力に長けていますね。

上田 一六〇〇年の関ヶ原の戦いの時に日本にあった鉄砲の数は、全ヨーロッパにあった鉄砲の数よりも多かったと言われています。

元谷 それも納得がいきます。

上田 秀吉、信長の時代には、アジア各地に日本人街がありました。これが可能だったのは、日本の航海技術が優れていたからでしょう。秀吉は約十六万人の兵力を朝鮮半島に送り込むのですが、それだけの輸送能力と補給能力があったのです。ヨーロッパでは一五八八年にイギリスとスペインが戦ったアルマダ海戦が行われていますが、この両国とも互いの国に陸兵の大軍を上陸させる能力はありませんでした。一六〇〇年前後の日本の軍事力は世界最大だったと考えてもいいのではないでしょうか。

元谷 その通りですね。また日本人は軍事力だけではなく、何でも極めていって、華道や茶道など「道」にする特性があります。日本刀もその極みの典型的な例でしょう。先と中の材質を変えるなど工夫を凝らし、焼いて鍛える作業を繰り返して、しなやかで切れ味も良く、さらに芸術品のような美しさを持つ一振りを生み出すのです。このような日本の優れたことを多くの人に伝えることで、日本人が誇りを取り戻せるようにしたい。そう考えて私は公益財団法人アパ日本再興財団を作り、正しい歴史を伝える事業を行っているのです。

上田 夜郎自大は駄目ですが、比較をして凄い部分ははっきりそう主張すべきでしょう。

元谷 そうです。教育問題以外にも、上田さんは知事として実績を上げています。

上田 埼玉県にはいろいろと素晴らしいことがあるのです。まず公務員の数が人口比で日本で一番少なく、県民一万人に対して十一人です。日本の平均は二十二人で多い県は五十人にもなります。金融機関の貸付残高増加量は東京都に次いで第二位。人口に対する警察官の数は日本一少ないですが、民間の防犯パトロールは六千団体と桁外れに多くなっていて、治安も非常に良い。経済も好調で、GDPの増加率も愛知県が全国一ですが、埼玉県は全国二番。いろいろな意味で埼玉県はとても元気な都道府県だと思います。

元谷 最後に若い人に一言をお願いできますでしょうか。

上田 最近の若い人は利口で、できるかできないかを早い段階から自分で判断してしまいます。冷静に考えればしない方が安全なことも多い。しかしそれでは何も出来ません。

元谷 やりたいことを見つけて、それに向けて頑張るということも必要です。しかし最近こんな風になりたいという目標を持っている人が、少なくなったと感じています。

上田 春日部女子高校の生徒が言った言葉で私が大好きなものがあります。「夢は逃げない。逃げるのはいつも自分だ」というものです。

元谷 いい言葉ですね。私は小学校の卒業文集で将来何になりたいのかの欄に「世界連邦大統領」と書きました。世界連邦がまだまだできる見込みはありませんが、そんな大志を抱いていたからこそ、実業の世界で成功することができたのではないかと感じています。

上田 仰る通りだと思います。あと若い人に薦めたいのは伝記を読むこと。私は小学生の時に約百二十人分の世界の偉人の伝記を読破しました。そこで正直さや責任感、モラルの大切さを自分に植え付けることができたと感じています。

元谷 今後も増々頑張って埼玉県を、そして日本を良くしていってください。今日はありがとうございました。

対談日2017年10月19日