奥本 康大氏
1950年大阪府生まれ。1975年出光興産に入社、2010年まで勤務。現在は保護司、調停委員として活動する傍ら、1942年のパレンバン奇襲作戦に参加した父・奥本實氏に関する著作や講演を行う。また「空の神兵」顕彰会を主宰し、正しい戦争の歴史を後世に伝えるべく講演会、勉強会の開催ならびに慰霊碑、顕彰碑、記念碑の建立活動に取り組んでいる。著書に『なぜ大東亜戦争は起きたのか? 空の神兵と呼ばれた男たち』(共著・ハート出版)、『正伝 出光佐三』(展転社)など。
製油所と飛行場を制圧
元谷 本日はビッグトークへの登場、ありがとうございます。奥本さんには何度も勝兵塾で講演をしてもらっていますが、ビッグトークにはまだお招きしていませんでした。今日はよろしくお願いします。
奥本 このたびは会長との対談の場にお招き戴いた事、名誉なことであり大変喜んでおります。こちらこそ、よろしくお願いいたします。
元谷 奥本さんのお父様はパレンバン空挺作戦に参加した陸軍の将校で、そこから奥本さんも先の大戦についての研究を深めていったのですね。
奥本 はい。私の父の奥本實は、陸軍大尉として大隊長で終戦を迎えた軍人だったのです。父は二〇一一年に亡くなったのですが、私は最近になって父の軍歴を詳細に調べるようになりました。旧軍の軍人はあまり戦争の話をしないので、私は父が何を行ったのかをよく知らなかったのです。ただ親戚から「お前のお父さんは偉かった。陸軍中尉の時に、昭和天皇に単独拝謁を賜ったのだから」と言われ、それはどういうことだろうと興味が湧いたのです。
元谷 先の大戦中の昭和天皇に拝謁するというのは、もうとんでもなく名誉なことだったでしょう。当時の昭和天皇は現人神的な存在でしたから。
奥本 その通りです。通常は大佐、つまり師団長以上でないと単独拝謁はできませんでした。中尉という階級での単独拝謁は異例中の異例でしょう。
元谷 日本中を喜びに湧かせたパレンバン空挺作戦で素晴らしい殊勲を挙げたことが、その単独拝謁の理由だったのでしょうか。
奥本 はい、そうです。
元谷 そもそもパレンバン空挺作戦というのは、どのような作戦だったのでしょうか。
奥本 インドネシアのスマトラ島南部にあるパレンバンは、大東亜戦争当時は東南アジア有数の大油田地帯で、スマトランライトと呼ばれる品質の良い原油が出る油田が五つありました。しかし、当時のインドネシアはオランダの植民地でした。今もそうですが、当時も日本は石油を殆ど産出することができず、輸入に頼っていました。しかし昭和十六(一九四一)年八月にアメリカが、対日石油輸出の全面禁止を決めたのです。この時の日本の石油の備蓄量は、一年半持てばいい方でした。
元谷 石油がないと国民が生活できませんが、軍も活動することができません。日本は追い込まれ、石油がある内に戦わなければならないということで、開戦を余儀なくされました。
奥本 その通りです。昭和十六(一九四一)年十二月に真珠湾攻撃を行って対米戦を開始した日本は、パレンバンの石油を確保すべく、昭和十七(一九四二)年二月に空挺作戦を実施したのです。
元谷 それに先立つマレー半島の戦いでは、上陸作戦を行っていました。なぜパレンバンは空挺作戦だったのでしょうか。
奥本 この作戦の目的はパレンバンの市街に二箇所ある製油所と、郊外にある飛行場の制圧でした。ただ、パレンバンはムシ川の河口から約百kmの内陸にある場所で、船による上陸作戦では敵に設備等を破壊する余裕を与えてしまうと考えて、空挺作戦による急襲を採用したのです。二月十四日、降下部隊はマレー半島を飛び立ち、パレンバンに向かいました。
元谷 なるほど。この作戦では何名ぐらいの日本兵が降下したのでしょうか。
奥本 全部で三百四十名です。輸送機一機に約十名が分乗していました。有名な加藤隼戦闘隊が部隊の援護を受持ち、約八十機の大編隊がパレンバン上空を染めたのです。輸送機から一斉に飛び出すことは出来ないので、一秒以下の間隔で次々と兵が降下していったそうです。これは可能な限り短時間に地上で隊員たちが集結できるための方法でした。三百四十名の内二百四十名が飛行場を、百名が製油所に向かいました。飛行場には守備隊もいるし面積が広いということで、多くの兵が割り当てられたのです。また約八十機ほどの編隊になったのは、兵だけではなく、武器を落下傘で投下する飛行機も必要だったからです。
元谷 それは、かなり大きな武器を投下したということでしょうか。
奥本 そうではありません。当時の落下傘の性能では降下できる重量の制限が厳しかったのです。ですから兵が降下の際に所持していたのは、拳銃と手榴弾のみでした。小銃・機関銃を木箱に入れて別の落下傘で投下、それを回収するというのが当初の段取りでした。ただ実際に降下した部隊には、どこに小銃を入れた箱が落ちているかはわからない。降下したのは沼地やジャングルでしたから。眼の前に見えているのに、取りに行けなかったこともあったそうです。結局、多くの兵が最初は拳銃と手榴弾のみで戦うことになりました。
昭和天皇に単独拝謁
元谷 そんな中で、お父様はどんな戦いをしたのでしょうか。
奥本 二十一歳の陸軍中尉で小隊長だった父は、飛行場近くのジャングルに落下傘で降下した後、部下四人と落ち合いました。そこから飛行場制圧に動くのですが、日本軍掃討に向かってきたオランダ兵を載せた軍用車両の車列に遭遇したのです。彼らオランダ兵は父らの三十倍もの数がいたのです。敵を至近距離に引き付けて拳銃を先頭車両の運転手に向け撃ち、混乱したところに手榴弾を投げ込むという手法で、結局父たちは二度にわたる戦闘で彼らを撃破。三百人余りのオランダ兵を敗走させました。普通、三十倍もの敵に向かうことは考えられませんが、国を守る一心で当時の若者は怯むことなく実行したのです。愛国心の為せる業と思っています。
元谷 小銃があれば遠くの敵も撃てるのですが、拳銃であれば近接戦しかあり得ません。そんな中で圧倒的多数の敵と戦うというのは、凄いことです。
奥本 奇跡的な戦果だと思います。場所もジャングルの中の一本道のようなところで、敵も日本兵がどこから出てくるかわからず、いきなり攻撃を受けて慌てたこともあったのでしょうし、日本兵の気迫がオランダ兵よりも勝っていることもあったのでしょう。日本兵三百四十名に対して、オランダ軍の守備隊は千三百~千四百名いたそうですが、機先を制することで彼らを敗走させて、たった一日で日本軍は飛行場と二つの製油所を制圧することに成功したのです。この報告を受けた大本営は作戦開始の翌日の二月十五日午後五時十分に、パレンバン空挺作戦の大戦果を公表しました。異例の速さです。
元谷 奇襲だったからこその戦果ですね。考えてみれば、日本では平安時代から源義経の「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」のような奇襲が用いられていました。大規模な空挺部隊による作戦が当時は一般的ではなかったので、オランダ軍は全く想定していなかったのでしょう。降下を行ったのは、何時頃だったのでしょうか。
奥本 降下開始が十一時二十六分ですから、真っ昼間です。だから隊員たちは無防備の状態でオランダ軍の高射砲、機関銃の標的となって恐ろしい思いをしながらも全員が無事着地したと記録されています。これも奇跡と言うしかありません。一九三〇年代にソ連やドイツが空挺部隊を組織、第二次世界大戦初期の一九四〇年、一九四一年にドイツがデンマークやベルギー攻略に空挺作戦を行っていたぐらいで、まだ珍しい作戦でした。しかも海外の実戦では約半数の降下兵が地上からの攻撃で命を失ったと記録にあるように危険な作戦でした。パレンバンでの作戦は、日本陸軍としても最初の空挺作戦だったのです。こんな中での落下傘部隊の降下ですから、オランダ軍が非常に驚いたことは間違いないでしょう。
元谷 オランダ軍からすれば、何名降下したのかもわかりませんから、大変な恐怖だったでしょうね。
奥本 シンガポールでイギリス軍のパーシバル司令官が降伏した時のような停戦交渉はパレンバンではありませんでしたから、オランダ軍は単に逃げたのでしょう。降下した日本兵三百四十名の中には一割程度の戦死者も出ましたが、二月十八日には陸軍の主力部隊も到着して、作戦的には完全に成功でした。
元谷 結局石油はどれぐらい確保できたのでしょうか。
奥本 パレンバンだけで、年間の石油供給量は約六百万トンだったという記録があります。当時の日本全体の年間の石油消費量が約五百万トンでしたから、それを上回る石油を確保することができたのです。日本はその他の地域でも石油を確保して、その総量は年間約八百万トンに達していました。これがあったから日本は、その後の三年半の戦争を戦い抜くことができたのです。
元谷 もしここで石油が確保できなければ、船も戦車も動かせず、物資の製造もできず、日本の継戦能力は著しく下がっていたことでしょう。
奥本 仰る通りで石油が無ければ、当時の状況では日本の戦いは一年持たなかったでしょう。パレンバンの油田と製油所を制圧した直後に、多くの石油技術者も派遣されてきました。オランダ軍は製油所から逃げる時に、時限爆弾等で一部の装置を破壊したのです。ただ日本陸軍は石油会社の技術者を開戦前から徴用して部隊を編成、このような場合に備え南方地区で待機させていました。彼らが迅速に設備を修理復旧したことで、二カ月後には装置の稼働を開始出来たのです。
元谷 正に日本人の知略を尽くした作戦だったのですね。この戦果には、日本国内も非常に沸き立ったのではないでしょうか。
奥本 パレンバン空挺作戦の成功は新聞紙上を大いに賑わしました。石油が確保できたことで、国民の中にも「これで一安心」という空気が流れたそうです。日本軍の落下傘部隊には「空の神兵」の愛称が与えられ、軍歌やドキュメンタリー映画が作られて、国民に広く知られるようになりました。
元谷 参加した落下傘部隊の兵は皆英雄になったのではないでしょうか。
奥本 はい。二~三年前でしょうか、作戦に参加されてまだご存命の方に会いに行ったことがあります。陸軍の落下傘部隊の基地は今の宮崎県の川南町にあったのですが、凱旋して基地に戻って来ると、周囲の住民から神様が戻ったかのように歓迎されたと仰っていました。父には軍功により、生存者には初めての殊勲甲が授与され、新聞にも掲載されて故郷では大騒ぎになったそうです。
元谷 それで昭和天皇に単独拝謁となったのですね。
奥本 はい、そうです。この戦果には、昭和天皇も「凄いことをやってくれた」と大いに喜ばれていたそうです。昭和天皇は戦後「大東亜戦争は石油に始まり石油に終わった」と語られたそうですから、石油の重要性を強く認識されていたのでしょう。凱旋後、川南町の基地に陸軍省から「奥本實上京せよ」という命令の電報が届きました。単独拝謁の話であり、挺進団長はじめ上官たちも大変驚かれたと聞いています。拝謁は昭和十八(一九四三)年二月十九日でした。拝謁時にはまず待合室に案内されました。そこには父の他にも、陸軍少将や中将がいらっしゃったそうです。そして一人ずつ隣の部屋に行って、陛下に拝謁するという形でした。この様子は昭和天皇実録にも当日の詳細記録があります。
元谷 昭和天皇と何か言葉は交わしたのでしょうか。
奥本 昭和天皇は立っていらっしゃるだけ、父は陛下の直ぐ前に進んだ後は最敬礼しているだけで、父の紹介も全部侍従の方がされたそうです。なので、言葉を交わすことは全くありませんでした。また緊張のあまり入室後は畏れ多く、昭和天皇のお顔など直視出来なかったそうです。
やむなく南方作戦を実施
元谷 パレンバン空挺作戦は、日本軍の南方作戦の一つでした。
奥本 南方作戦はマレー半島からシンガポールを目指したマレー作戦やフィリピン作戦、そしてパレンバン空挺作戦がその一環だった蘭印作戦等の総称です。そしてこの作戦の最終目的は、資源の豊富なジャワ島への侵攻でした。山下奉文将軍のマレー作戦で、パレンバン陥落と同じ昭和十七(一九四二)年二月十五日にシンガポールが陥落しました。その後、スラバヤ沖海戦やバタビア沖海戦でジャワ島近海の制海権を得た日本軍は、三月一日にジャワ島上陸を開始します。その際にシンガポールから戦闘機による掩護を行ったのですが、これには中継基地としてのパレンバン飛行場制圧が大きく寄与しており、戦闘機の飛行距離の問題を一気に解決できたのがパレンバン奇襲作戦の効果でもありました。その結果、わずか八日後の三月九日にバンドン要塞のオランダ軍は降伏、日本軍の南方作戦は圧勝で成功裏に終了しました。オランダのインドネシアの資源地帯を確保できたことで、その後の戦争継続が可能になったと言えると思います。
元谷 戦争、特に先の大戦のような総力戦においては、やはりエネルギーや資源が重要になるということですね。戦前に日本はアメリカとの交渉と平行して、オランダとの石油に関する交渉を行っていましたが、これも昭和十六(一九四一)年六月に決裂しています。その直後の八月のアメリカの石油の対日輸出全面禁輸です。アメリカやオランダらによるABCD包囲網によって、日本はエネルギー源を失い、追い詰められたのです。
奥本 そこでやむなく自衛のために行ったのが、南方作戦だったと言えるでしょう。陸軍では秋丸次朗中佐を中心とする経済学者の研究組織・通称「秋丸機関」が昭和十六(一九四一)年七月に報告書を作成、パレンバンとボルネオの石油の確保を必須条件として、対米戦開戦が合理的で勝算があることを示していました。ただこの報告書では、陸軍はインド洋を中心とする西進戦略を採用するべきだとしていましたが、実際には海軍が太平洋に進出した結果、補給線の想定以上の拡大を招いてしまいました。戦争中、日本は石油確保のために民間の石油技術者七千名を海外に派遣しましたが、その内二千名が命を落としています。パレンバン空挺作戦やその後の民間技術者の犠牲等、大東亜戦争では日本人は命がけで石油を確保しました。今の日本人は防衛とエネルギーの重要性を忘れかけているのではないでしょうか。
元谷 その通りだと思います。
人種平等の世界が実現した
元谷 日本の空挺部隊というと、昭和二十(一九四五)年五月二十四日に沖縄の読谷飛行場に強行着陸をして多くのアメリカ軍の航空機を破壊、一時的に読谷飛行場を使用不能状態にすることに成功した「義烈空挺隊」のことも忘れられません。
奥本 義烈空挺隊の隊長だった奥山道郎大尉をはじめ多くの隊員が、本来パレンバン空挺作戦に参加するはずだった人々なのです。実際に作戦を実行したのは挺進第二連隊だったのですが、本来は奥山大尉等の挺進第一連隊が作戦を行う予定でした。しかし、日本を出港した挺進第一連隊の乗船・明光丸は、海南島付近で火災事故が発生し、沈没してしまいました。兵員は護衛の駆逐艦に救助されて無事でしたが装備を全て失い、さらに伝染病が発生して戦えない状態になってしまったのです。そこで急遽、訓練中の隊員を集めて挺進第二連隊を組織してパレンバン作戦に投入したのです。謂わば、俄か仕立ての連隊が奇跡の大勝利を呼び込んだのです。こんな神憑り的なことがあったのです。
元谷 そんなことがあったのですね。まさに軍隊は運隊ですね。
奥本 挺進第一連隊はその後作戦へ登用されることなく、ひたすら訓練を行って、精鋭部隊に育っていました。そして戦況が悪化する中、当初はサイパン島のB‐29を攻撃する目的で、奥山大尉を隊長に第一連隊から選抜された兵隊で義烈空挺隊が結成されたのです。猛訓練を行って更に練度を増した義烈空挺隊は結局、沖縄のアメリカ軍飛行場を攻撃する空挺特攻作戦(義号作戦)に充てられることになりました。義烈空挺隊は十二機の九七式重爆撃機に分乗、途中帰投した四機を除く八機が飛行場に到達、七機は撃ち落とされましたが、一機が強行着陸に成功し、会長が仰ったような戦果を挙げました。ただ、撃墜された機に乗っていた隊員も着陸に成功した隊員も、全員戦死しました。
元谷 そんな義烈空挺隊だけではなく、日本軍は沖縄戦で激しく抵抗して、アメリカ軍に多大な損害を与えました。これによってアメリカは、日本本土での決戦があれば百万人のアメリカ兵の犠牲を覚悟しなければならないと考え、本土上陸作戦を遅らせます。日本人は本当によく戦ったと思います。
奥本 日本人の勇敢さ、強さをしっかりとアメリカ軍に示したと思います。本土決戦を恐れたからこそ、国際法(ハーグ陸戦条約)を破ってまでも、アメリカは焼夷弾による都市への無差別爆撃と広島・長崎への原爆投下を行ったのでしょう。
元谷 しかしそんな大きな犠牲を払っても、日本は短期間で復興して経済大国となることができました。振り返れば、一二七四年と一二八一年の蒙古襲来等、日本は数々の苦難を退けて、それをバネにして成長を遂げてきたのです。
奥本 いざという時の日本人の団結力、結束力には凄いものがあると思います。元寇でも鎌倉武士が必死に日本を守った。神風が吹いたと言われていますが、実際には鎌倉武士が夜襲で船に切り込んで、国を守る為に勇猛果敢に敵を殲滅したのではないでしょうか。
元谷 そうかもしれません。歴史上、アメリカによるもの以外に日本が占領されたことはありません。これはかつての鎌倉武士や、奥本さんのお父様のように先の大戦の日本兵らが懸命に戦ったことが喧伝されて、日本は侮ってはいけない国だと思われてきたからでしょう。先人への感謝を忘れてはいけないと思います。
奥本 仰る通りです。犠牲的な精神の人々が、国民を守ってくれた。ただ私が心配するのは、もし近隣諸国が日本に侵攻してきた場合、今の日本人が先人のような気迫と気力をもって戦うことができるのかということです。
元谷 確かにそうですね。ただ、先の大戦と今では武器も時代も変わりました。侵略戦争は完全に違法ですし、原爆という決定的な武器も登場しています。まずは舐められて攻められないように、抑止力としての核、抑止力としての戦力を保有することが重要になっているのだと思います。最後にいつも「若い人に一言」をお聞きしているのですが。
奥本 歴史をもっと学んで欲しいですね。先ほど義烈空挺隊の話をさせて戴きましたが、自分は義烈空挺隊の顕彰活動に力を入れています。先日の勝兵塾でもお話をさせて頂きましたが、現在の沖縄では戦争の話が出来ない風潮があります。全国の若者が沖縄を守るために出撃したことを忘れて欲しくありません。これでは英霊が浮かばれません。自分は父の落下傘部隊での戦友でもあった義烈空挺隊を顕彰するため奔走していますが、沖縄県内では慰霊は出来ても顕彰が出来ない状態にあり、英霊に感謝する状況にありません。仕方なく義烈空挺隊の「顕彰碑」を出撃基地の熊本市内に建立することで準備を進めています。また今の日本の学校では偉人を教える教育も憚れる時代になっています。歴史の真実を自らの手で学んで欲しく思っています。生半可な知識しか持っていない日本人は、日本が過去に悪いことをしたような錯覚をしていて、国に自信も持てない人が多いからだと思います。例えば第一次世界大戦後のパリ講和会議において、国際連盟の規約に「人種平等」を盛り込む提案を行ったのは日本です。この提案は否決されますが、この理念の下に日本が大東亜戦争を戦ったことで、世界中から植民地が無くなったのです。
元谷 その通りです。日本の戦いで、人種差別のない世界が生まれたのです。この大きな功績を、若い人はしっかりと噛みしめるべきでしょう。
奥本 今私は、大東亜戦争を戦った名もなき人々の足跡を辿り、歴史を知らない人々に伝える活動を行っています。多くの人に日本人の本当の凄さを知って欲しいですね。
元谷 全く同感です。そして若い人にもっと日本をいい国にしてもらって。今日はいろいろと興味深いお話をありがとうございました。
奥本 こちらこそ素敵な機会を戴き、ありがとうございました。