ロベルト・セミナリオ氏
1955年ペルー北西部の街、ピウラ生まれ。アメリカのニューメキシコ・ハイランズ大学にて政治学学士号を、ペルー外交アカデミーにて国際関係学修士号を取得した後、1982年外交官に。ペルー国内やブルガリア、ウルグアイ、エクアドル、アメリカ(マイアミ)へ赴任、2003年在イタリア代理公使、2012年在インドネシア特命全権大使、2013年在東ティモール民主共和国特命全権大使、2020年国際連合国際民間航空機関(ICAO)ペルー常駐代表等を歴任、2022年より現職。
世界的に美食で知られる国
元谷 ビッグトークにご登場いただき、ありがとうございます。ペルー共和国と日本が一八七三年に外交関係を結んでから、今年で丁度百五十年になることもあって、セミナリオさんにお越しいただきました。私は三十年前の百二十周年の時にも、前のペルー大使とビッグトークの対談を行ったことがあるのですよ。
セミナリオ 今日はお招き、ありがとうございます。ペルーは、日本との外交関係をラテン・アメリカで最初に結んだ国です。外交関係樹立百五十周年となる今年は、ペルー人にとっても日本人にとっても特別な年で、官民一体となって多くのイベントや事業が予定されています。八月二十一日に行われる日秘外交関係樹立一五〇周年記念行事には、多くの閣僚等政府高官が訪れる予定です。佳子様もお越しになるとお聞きしております。
元谷 そうですか。私もまだペルーは訪れたことがなく、行ってみたい国の一つになっています。長い外交の歴史のある日本とペルーですが、まずペルーという国について、基本的なことを教えていただけますでしょうか。
セミナリオ はい。ペルーは約百二十九万平方キロメートルと日本の約三・四倍の面積を持つ国です。人口は約三千三百万人、首都はリマになります。言葉はスペイン語が話されることが多いですが、幾つかの先住民言語も存在します。それらはペルー国内にある海岸、アンデス、アマゾンの三つの地域で別々に話されています。気候や地形の多様性に富むのが大きな特徴になります。海岸沿いでは夏でも山では冬のように寒く、一方ジャングルは年中暑いといった具合です。土地は非常に肥沃で様々な食材に富み、美味しい食事が楽しめると美食愛好家にも人気で、ワールド・トラベル・アワードでは十一年連続で「世界で最も美食を楽しめる国」部門の最優秀賞に選ばれています。今年の六月に発表された「世界のベストレストラン五〇」では、リマにあるレストラン「CENTRAL」が一位となりました。南米のレストランが一位を獲得するのは、これが初めてのことになります。このレストランのシェフ、ヴィルヒリオ・マルティネス氏が唯一海外で手掛けるレストランが、東京の紀尾井町にある「MAZ(マス)」というお店です。
元谷 美食の国としても有名だということですね。それは知りませんでした。
山形大学の研究チーム
セミナリオ ペルーのことで一番よく日本でも知られているのは、世界文化遺産に登録されているナスカの地上絵でしょう。ナスカ川とインヘニオ川に囲まれた四百平方キロメートルにも及ぶ広大なナスカ台地の砂漠地帯に、千数百点もの巨大な図形が描かれています。
元谷 それも一度見てみたいと思っています。上空からしか判別がつかない絵を、なんの目的で描いたのかとか、非常に興味深い遺跡ですね。
セミナリオ 地上絵が発見されたのは、二十世紀初頭のことです。以来、多くの学者の研究対象となっています。日本からは二〇〇四年から山形大学の坂井正人教授を中心とする「ナスカ地上絵プロジェクトチーム」が調査を始めました。地上絵の分布状況が十分に把握されていなかった中、人工衛星画像の解析や現地調査で地道にデータの収集と分析を行い、二〇〇六年には新しい動物の地上絵の発見もありました。これらの業績が評価され、ペルー文化省は唯一の正式に許可した研究チームとして、山形大学を認定しました。それもあって二〇一二年には、ナスカ市に「山形大学ナスカ研究所」が作られています。
元谷 この地上絵は、いつ頃描かれたものなのでしょうか。
セミナリオ この地に紀元前二百年から八〇〇年頃まで栄えた、ナスカ文化の時に作られたと考えられています。紀元前五百年頃から描かれ始め、五百年頃まで続いたと推測されます。ナスカ文化は狩猟や、トウモロコシや豆の栽培等で暮らしていたとみられ、美しい彩色土器を残しています。
元谷 上空からしか全体像がわからない絵を、どうやって描いたのでしょうか。
セミナリオ 地上では細い道のように見える絵ですが、近くに山等標高の高い地形もあり、そこからは全体が見えたかもしれません。実は、現在でもナスカの人々は地上絵を描いています。これを調べた坂井教授によると、原画から歩数を割り出し、足で計測しながら砂漠表面の黒い石を除き、その下の白い岩石を露出されることで、絵を描くことが可能とのことです。その他、原画と中心点から相似拡大によって描く拡大法を使ったのではという説もあります。
元谷 やはり一番謎なのは、なんのためにこんな大きな絵を描いたのかということでしょう。
セミナリオ これらの地上絵が発見された当初に唱えられたのは、当時広く行われていた農業に関連して、天文学を用いたカレンダーや時間の測定に関する役割があったという説でした。また、夜空に広がる星座を地上に描いたものだという説や、砂漠で必要だった水の恵みを神々に祈るための儀式に使われたという説もあります。様々な説がありますが、まだ決定的な定説は確立されていない状態です。
元谷 宗教的なものだという説もあるのですね。ただ大きな絵を描くには、かなりの労働力を必要としたでしょう。
セミナリオ それもあって、豊作時の個人が貯蔵した作物を放出させるための社会事業として地上絵を描いたという説もあります。とにかく数百メートルから数メートルまで大きさも様々で、描かれているものもいくつもの直線から幾何学模様、ハチドリやクモ、コンドル等の動物、四本指の手等の不思議なものまで様々です。
元谷 非常に長い年月が経過しているのに、地上絵が無くならないのはなぜなのでしょうか。
セミナリオ 砂漠で雨もほとんど降らない気候が幸いして、今にまで地上絵が残ったのだと思います。最近ではAIを使った調査も行われていて、それによる地上からはわからなかった新しい地上絵の発見も行われていると同時に、今後に備えた記録や地上絵の保護も進められています。
見どころが豊富なペルー
元谷 この絵を描いたのはナスカ文化ということなのですが、ペルーには相当古い時代から人が住んでいたということなのでしょうか。
セミナリオ カラル遺跡を中心としたカラル=スーペ文化が、ペルーで最も古い文明の一つとして知られています。紀元前二千六百年頃から同二千年頃にかけて、アメリカ大陸で最も早い時期に複合的社会を形成したようです。この地域において初期の複合的社会が発展したことを明らかにしたという意味で、カラル遺跡は重要なのです。カラルの都市計画や巨大建築、整った社会は、この地域における古代文明の社会的、経済的、文化的側面についての貴重なヒントを与えてくれます。世界遺産にも登録されており、ペルーにおける先コロンブス期の歴史を理解するための重要な遺跡です。
元谷 マチュ・ピチュは有名ですね。標高は何メートルになるのでしょうか。
セミナリオ マチュ・ピチュの標高は二千四百三十メートルです。ペルーのアンデス山脈にある有名な遺跡で、しばしば「インカの失われた都市」とも呼ばれます。息をのむような景色と保存状態の良い遺跡から、世界で最も象徴的で観光客が目指す場所の一つになっています。インカ帝国の首都だったクスコの標高はさらに高く、三千四百メートルで、こちらも世界文化遺産になっています。面積が十三平方キロメートルあり、二百戸の建物からなるマチュ・ピチュは、都市ではなく王族や貴族のための離宮や別荘というものだったと考えられています。とにかく周囲の山々の眺めが良い遺跡で、一人でいるとなんらかの力を感じるようなパワースポットでもあります。近郊のマチュ・ピチュ村には数多くのホテルが建てられています。
元谷 ナスカの地上絵もマチュ・ピチュも是非訪れてみたい場所です。交通機関はどうなっていますか。
セミナリオ ナスカの地上絵へは、首都のリマからバスが出ています。ミラドールと呼ばれる地上十数メートルの塔のような展望台から、代表的な手と木の地上絵を眺めたり、セスナ等の遊覧飛行で空から見たりすることもできます。マチュ・ピチュの近くの空港はクスコになります。そこからマチュ・ピチュ村までは鉄道やバスで、村から遺跡まではシャトルバスが運行されています。
元谷 ペルーを訪れるのに一番快適なシーズンはいつになりますか。
セミナリオ 場所によって異なります。マチュ・ピチュであれば、五月か十一月がいいと思います。
元谷 今、ペルーへの直行便はありません。
セミナリオ はい、そうです。ロサンゼルスやヒューストン、ダラスなど、アメリカの都市でトランジットをすることになると思います。日本からは乗り継ぎを含めて約二十時間のフライトになります。
元谷 日本人観光客はどのくらいになりますか。
セミナリオ コロナ禍前は、日本からはアジアで最もペルーへの観光客が多く、年間四万から五万人が来ていたのですが、今は大きく減ってしまっています。今後の回復に期待しています。
元谷 コロナ禍の後は急激に進んだ円安もあって、日本から海外へのアウトバウンド自体の回復が遅れています。ただ、今後は徐々に戻っていくのではないでしょうか。
二番目の日系人の多さ
セミナリオ 私が日本に来て驚いたのは、日本中どこに行ってもアパホテルがあることです。ぜひペルーにもアパホテルを作って欲しいと考えています。ペルーでは、容易にホテル業を始めることができるシステムが非常に発達していて、直接進出したり、ペルーの企業とコラボして進出したりできるホテルチェーンを私達は常に探しています。ペルーはラテン・アメリカ観光の中心地で、この地域への旅行を行う人はまず必ずペルーにやってきますから、進出に対するリターンは十分に見込めると思います。
元谷 アパホテルの海外戦略としては、既にアメリカ、カナダにホテルチェーンを築いています。ここから次はヨーロッパへ…というのが今の心づもりなのですが、その前に南米への進出も考えなくてはなりませんね。
セミナリオ ペルーやラテン・アメリカにおいて観光業は非常に成長している産業ですので、今が大きなチャンスだと思います。また海外からの投資に対してペルーは非常に開放的で、投資やリターンの回収に関しての制約がとても少なくなっています。三千三百万人の国内市場もありますし、コロナ禍前にはインバウンドが毎年五百万人もありました。日本人やペルー人だけではなく、世界中の人の宿泊需要を見込むことができます。
元谷 とても魅力的ですね。
セミナリオ また、ペルーは日系人の多い国です。日本からの移民の子孫ですね。約十二万五千人の日系人がいて、六万人の日系人が住む町もあります。
元谷 一八九九年から始まった日本人のペルーへの移民は、一九二三年までに約一万八千人に上ったと言われています。
セミナリオ 日系人はブラジルの方が多いのですが、ペルーは南米では二番目に日系人が多い国です。
南米に強い味方を持つべき
元谷 セミナリオさんはずっと外務省勤務外交畑で、大使になった方なのでしょうか。
セミナリオ はい、そうです。職業外交官として四十一年間勤めています。日本に赴任して、約一年半になりました。
元谷 これまでに赴任された国はどこになりますか。
セミナリオ ブルガリアやイタリア、ウルグアイ、エクアドル、アメリカ、インドネシア等です。
元谷 随分多くの国に行かれていますね。今は韓国大使などと兼任なのでしょうか。
セミナリオ ペルーにとって日本は非常に大切な国なので、私は日本の大使だけに専念しています。
元谷 一年半の間に、日本のいろいろなところに行かれたかと思うのですが、どちらに行かれましたか。
セミナリオ 広島と長崎には行きました。
元谷 駐日大使の方は、皆さん広島に行かれますね。
セミナリオ そうですね。原爆の犠牲者を悼む広島での儀式にはとても驚かされました。非常に簡素なのですが、一つひとつのことに沢山の意味が込められていることが伝わってきました。
元谷 今後行ってみたいところはどこでしょうか。
セミナリオ 日本の国全体を巡ってみたいですね。大使の役割を果たすためには、日本全体のことを知る必要があると思っています。また日本の地方で、ペルーと協力して何らかの事業を展開できるところを探すことができればとも考えています。
元谷 セミナリオさんから見た日本の魅力とは何でしょうか。
セミナリオ まず科学技術が非常に発達していること、独自の成熟した文化が至るところに感じられること、美食、仕事に打ち込む情熱、そして家族を大切にすることでしょうか。ペルーでも家族を大事にしますから、日本との強い共通点を感じます。また、日本はどの地域も自然と調和していることに感銘を受けています。そして、訪れると必ず会食しながらの懇談があるのですが、その地方ごとの食べ物が、またどれもとても美味しいのです。
元谷 最後にいつも「若い人に一言」をお聞きしています。
セミナリオ 日本の若い人には、ペルーとの友好に強い信念を持って欲しいと思っています。日本という国がまだ貧乏で辛かった時に、多くの日本人がペルーへ渡りました。百五十年間の歴史を踏まえ、日本とペルーがより緊密になって欲しいと願っています。そしてペルーを通して、ラテン・アメリカへの関心も深めていって欲しいと思います。世界には風土や考え方など、日本とは全く異なる国があるのです。これからのことを考えると、日本がラテン・アメリカに強い味方を持つことが非常に重要になっていくと思います。
元谷 今日はいろいろなお話をありがとうございました。
セミナリオ ありがとうございました。