日本を語るワインの会236

ワイン236恒例「日本を語るワインの会」が会長邸で行われました。航空自衛隊の救難ヘリコプターパイロットだった那覇市議会議員の大山孝夫氏、江戸蘭学の発展に貢献したシーボルトの子孫である株式会社しぃぼるとぷろだくしょん代表取締役の関口忠相氏、演じるだけではなく舞台の脚本執筆も増えてきた女優の鳳恵弥氏、陸上自衛隊の高射特科部隊の小隊長を五年間務めた評論家で第五回アパ日本再興大賞優秀賞受賞の小幡敏氏をお迎えし、正しい歴史を伝えていく困難さ等を語り合いました。
戦争経験者の戦記から
彼らの「想い」を知る
 著書『「愛国」としての「反日」〜奇形の軍民関係を正す〜』で第五回日本再興大賞優秀賞を受賞した小幡敏氏は、賞金の五百万円を次の著作の準備のための古書の購入に充てた。買った本はほとんどが戦記だ。終戦直後はGHQがいたことや紙が不足していたこともあって少ないが、少し後になると何千冊という戦記が出版されていた。戦争を体験した人は、それをなんとか後世に伝えたいという思いに駆られたのだろう。中には自費出版で百部しか印刷されていないものもある。そしてほとんどが絶版だ。今小幡氏が執筆しているのは、南方戦線とシベリア抑留、そして捕虜になった日本人の話だ。日本人が、実際にどういう想いで戦争に参加していたのかを、克明に描き出すような本にしたいという。
 大山孝夫氏の父親は航空自衛隊の戦闘機パイロットだったが、大山氏が生まれて九カ月後の一九八一年八月に乗っていたF‐104戦闘機が墜落して殉職した。大山氏も父同様に航空自衛隊に入隊、救難ヘリコプターのパイロットとして十八年勤務した後、災害時にもっと多くの人を救うには政治家になるしかないと決意、二〇一七年自衛隊を退職して那覇市議会議員選挙に立候補し当選、現在二期目だ。昨年四月には自衛隊による沖縄県内の離島等での緊急患者空輸が、この五十年で一万件に達したタイミングでの、自衛隊への感謝決議案を那覇市議会に提出、公明党は渋ったが、粘り強く共産党の理解を得て無事に可決させた。
 ドイツの医師だったシーボルトは、見知らぬ国の自然研究への興味からオランダの陸軍軍医になり、日本に派遣された。江戸幕府末期の一八二三年に日本に来たシーボルトは、長崎だけではなくオランダ商館長の江戸参府随行時に様々な日本の品々を集め、それを国外に持ち出そうとした。しかし、中に持ち出しを禁じられていた地図等があったため、シーボルトは国外追放の上、再渡航禁止の処分を受けた。この来日の時、彼と楠本滝との間に楠本イネが誕生している。その後日本の開国によって再渡航禁止は解け、シーボルトは約三十年ぶりの一九五九年、ドイツ人の妻ともうけた長男・アレクサンダーと共に日本を再訪した。シーボルト自身は三年後に帰国するが、アレキサンダーはその後も日本に留まり通訳等として活躍、明治維新後は政府のお雇い外国人として、日本とヨーロッパを行き来する外交官としての仕事を四十年間行った。アレクサンダーの弟のハインリヒは一八六九年に日本に戻る兄と一緒に来日、日本外交の支援や考古学の研究で活躍する。また、岩本はなと結婚して二男一女が生まれている。このハインリヒが関口忠相氏の曽祖父にあたる。アレキサンダーとハインリヒの異母姉にあたる楠本イネは、日本人女性初の産婦人科医として知られている。長崎の観光都市としての整備は進んでおらず、その要因は原爆関連の事業で予算が他に回らないことだ。民間でもできることをと、歴史的に知られているシーボルトを長崎観光に利用してもらえるよう、関口氏は日本シーボルト協会を立ち上げて活動を行っている。
アパが協賛した演劇祭への
演劇関係者の過剰反応
 鳳恵弥氏は少女からの夢であった女優になるためのステップとして、大学生の時にミス・インターナショナルに応募、準ミス・インターナショナルになった。その後、俳優業のかたわらコンテスト候補者のインストラクターも務めた。国際的なコンテストでは候補者は、自身を言葉でアピールしなければならない。その方法を探るために金美齢氏が主宰する私塾にも参加、元台湾総統の李登輝氏の話も聞き、日本精神を学び、日本に自信を持つことが大事だと学んで、それを候補者達に伝えていた。
 沖縄でも小劇団による演劇活動が盛んだが、どうしても反戦色が強くなる。悲しい、辛いが強く打ち出される一方、日本中から集まった兵士がどういう思いで沖縄を守ろうとし、散っていったかを描く作品がない。新劇の誕生等の歴史的な理由もあって、演劇自体が左派の拠り所となっている側面も否めない。だから芝居は反権力であるべきという風潮が、特に高齢層で強い。
 世界的な街の評価で、東京は五位になったことがある。住みやすさや安全性は一位なのだが文化の順位が低くて、総合で五位になっている。歌舞伎やオペラ等、大規模な舞台にはお客様が入るが、ストリートミュージシャンや小劇団への支援が進んでいないことが、文化での低評価の理由だ。ある調査によると、東京は世界で一番劇場が多い街だ。にもかかわらず、演劇は一般人の間であまり盛り上がっていない。昨年、鹿児島県の知覧で食堂を経営し、多くの特攻隊員の面倒を見た鳥濱トメ氏を描く芝居が上演された。若い人々が共感してくれたことに、出演者らは非常に力づけられたが、保守の人々は演劇に抵抗があって、あまり観に来ない。演劇を興行的に成功させようとすると、どうしても左寄りの内容にしなければならないのが現状だ。また保守的な作品を公演すると、端役で出ている役者や家族に外部から、「そんなのに出演していると、将来がなくなるよ」と圧力が掛けられる。打ち勝つのが非常に難しい。
 小劇場同士が連動して二〇二一年度に行われた「劇場都市TOKYO演劇祭」にアパグループが協賛したことでは、演劇界に激震が走った。左派は自分達の拠り所が侵されると思ったのか、SNS上で批判が集中し、演劇祭参加を辞退する劇団も出てきた。しかし今後もこのような「衝突」を恐れずに、演劇を広める活動を進めていかないと。そのためには保守派が演劇の情報発信力を認めて、活用して育ていくマインドを持つことも必要だ。
 かつては保守的な活動をしても、なんらかの賞を獲得できることはなかった。会長が言論活動を続けて、その一環として「真の近現代史」懸賞論文を始めたり、アパ日本再興大賞を設けたりした意義は大きい。多くの保守の人々が、この賞を目指して研究をするようになったからだ。
歪んだ教育が生み出す
「君が代」を知らない子供達
 近年自衛隊にも、「君が代」を歌うことができない新入隊員が出てきている。特に那覇市では周囲を含め、「君が代」を聞いたこともないし、一度も歌ったことがない人が多数だ。メロディは知っているけれども、歌詞は知らないという人もいる。普通に生きていて、そうなってしまうのだ。日本はこれまでメディアと教育が左寄りのため、多くの人々が間違ったことを信じている。本当のことは何かを知れば、皆保守になるはずだ。子供達にまともな考えを伝えるためにも、大人がそれを強く意識する必要がある。会長は賞の新設の他にも、月刊Apple Townを毎月発行、勝兵塾を毎月三カ所で開催する等、できることをしっかりと行ってきた。
 日本人が歴史を知るメディアとして、インターネットを越えて最も影響力があるのは、NHKの大河ドラマだろう。この歴史ドラマの監修を行う歴史学者にも左派が多い。明治初期に日本を旅したイザベラ・バードは、その旅行記で日本の自然だけではなく、日本人の素晴らしさを綴っている。にもかかわらず、歴史学者は、シーボルト等幕末から明治初期に日本で活躍した西洋人について、遅れていた日本人を成長させた人々というストーリーで語りがちだ。しかし、イギリス等欧米では産業革命が少しだけ早かったというだけで、人間としての生き方で言えば、日本人は西欧人に引けを取らなかった。日本が西欧列強の植民地にならなかったのは、パワーバランスもあるが、日本人が強かったことも理由の一つだろう。シーボルト親子が命を賭けて日本のために働こうと思ったのは、それだけの価値が日本と日本人にあったからだ。実際その後日本は世界の強国の仲間入りをし、大東亜共栄圏を提唱してアジア諸国の独立を目指すが戦争には負ける。だが戦後独立が相次ぎ、世界中から植民地が無くなったのだ。この日本の戦いの意義を、誇りに感じる教育を行っていくべきだろう。
メディアや研究者は
予断のない取材をするべき
 高齢化により戦争体験を語ることのできる人が少なくなり、彼らから聞いた話を伝える人ばかりになってきている。今のうちに、体験者の生の声を動画として保存しておくべきだ。そのようにしないと、「伝える人」が話を自由に曲げて伝えられるようになってしまう。沖縄でも兵隊については、隠れている洞窟から民間人を追い出したという話ばかり。しかし実際には、もっと南の方が安全だからと移動を促したケースもある。誤解のないよう、詳細な記録を残す必要がある。
 メディアや研究者も、最初から予断というか「あるストーリー」を持って取材する場合が多い。某テレビ局の番組でも、シーボルトの娘である楠本イネを、異母弟達の支援を受けながら苦労に苦労を重ねて女医の道を目指した女性として描きたいことが、最初から明々白々。しかし実際に残っている手紙には、弟達と歌舞伎を観に行ったなど、かなり優雅な話が沢山書かれている。お雇い外国人の給与は、総理大臣並の高額だったので、その支援を受けていたイネの暮らしがみすぼらしいもののはずがない。しかしテレビ局は、そういう事実は描きたがらない。
 代々事業を継承するのに大事なのは、創業者はもちろんだが、次は三代目と五代目だ。二代目の時はまだ創業者が存命だったり、勢いがあったりで事業は突き進んでいくが、創業者がいなくなった三代目は、優秀な人じゃないと務まらない。アパグループの二代目であるCEOは今、水を得た魚のように大活躍している。これは両親である会長やホテル社長の期待を越えた、嬉しい誤算だ。