Big Talk

若者が海外に行けるよう環境整備を急ぐべきVol.330[2019年1月号]

大坪不動産株式会社 社長 大坪賢次
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APAグループ代表 元谷外志雄

一九六〇年代に渡米、ニューヨークを拠点にコンサルティングと不動産業を行い、アメリカ社会にしっかり入り込み、聞く人全てが驚く人脈を築いている大坪不動産株式会社社長の大坪賢次氏。苦学生だった大学時代に一念年発起してベトナムに渡ったのが全ての始まりだったという大坪氏に、その半生と日米の政財界に亘る人脈作りの秘訣をお聞きしました。

大坪 賢次氏

1944年新潟県南魚沼郡生まれ。1966年日本大学法学部経営法学科卒業後渡米、ルイジアナ州立大学、スタンフォード大学ビジネス・スクールで学んだ後、ワシントン大学ロースクールを卒業。ニューヨークを拠点として、1981年ビジネスコンサルティングを行う大坪インターナショナルを、1985年大坪不動産を設立し、数多くのビジネスを手掛ける。2012年には駐日モンテネグロ名誉領事に就任。新潟県酒造組合名誉大使、新潟県南魚沼市交流大使、料理界のハーバード大学といわれるアメリカの料理大学、CIA(カリナリー・インスティチュート・アメリカ)親善大使の称号を持ち、ニューヨーク新潟県人会会長も務める。

学生時代動乱のベトナムへ
国際社会への貢献を決意

元谷 本日はビッグトークへのご登場、ありがとうございます。大坪さんに初めてお会いしたのは、勝兵塾に来てもらった二年前の十月でした。その一年後の昨年十月にはワインの会に参加していただき、今年の十月はビッグトークです。先日ニューヨークに訪れた際には、大坪さんが共同オーナーをされているエンパイアステーキハウスでご馳走いただき、ありがとうございました。普段はニューヨークに住んでいるのですね。

大坪 はい、そうです。年に何回か、日本とアメリカを行き来しています。

元谷 ニューヨークではビジネスコンサルティングのほか、不動産業を営まれていると聞いております。

大坪 不動産をやろうと思ったことはなかったのですが、結果的にそうなりました。

元谷 元々は日本生まれなのに、どのような経緯でアメリカに住むようになったのか、教えてもらえますでしょうか。

大坪 実家は新潟の農家でした。日本大学で勉強をするために東京に出てきたのですが、親の脛をかじる気は全くなく、新聞配達員をして学費と生活費を稼いでいました。しかし朝三時起きは良いのですが、夕刊のために午後三時には帰って来る必要があります。これでは勉強ができないと、牛乳配達に仕事を変えました。これだと朝三時に起きるのは一緒ですが、夕刊配達がないので、ずっと楽になりました。

元谷 苦学生だったのですね。

大坪 いいえ、苦労だと思ったことは一度も有りません。大学は学問を学ぶ所であることは勿論ですが、そこで出会う人の輪が大切だとかねがね思っていました。そこで他の大学生やほかの社会の人と交流をしたいと思い、当時NHKの「国会討論会」の司会をしていた政治評論家の唐島基智三氏が主催する政治研究会に入れてもらったのです。そこには河野洋平氏や江田五月氏、竹下登氏や大平正芳氏らがいて、私は部屋の隅っこで彼らの議論を聞いていました。一九六三年十一月アメリカのケネディ大統領が暗殺され、次のジョンソンが大統領に就任すると、それまでくすぶっていたベトナム戦争が本格化しました。その時私は、人はなぜ戦争をするのか、ベトナムへ行って自分の目で確かめてみたいと思ったのです。

元谷 凄い行動力ですね。

大坪 政治研究会のメンバーに話すと、若い時にはいろいろ見るのは大事だから、ぜひ行ってこいと言われたのです。牛乳配達店の親父も、大坪君がいない間はオレが配達する。給料もそっくり出すから行って来いと言ってもらったのです。そこで横浜から船に乗って、当時の南ベトナムのサイゴンに入りました。着いた日は一九六五年三月三十日ですが、いきなりサイゴンのアメリカ大使館で多くの人が死んでいるのを見ました。ベトナム開放戦線の爆弾テロです。ベトナムには二カ月滞在し、帰りの船の中で将来は国際社会に貢献できる人間になろう、そのために日本大学を卒業したらアメリカに行こうと思ったのです。ベトナムに行くまでは、私はフランスの映画俳優、アラン・ドロンの映画、「太陽がいっぱい」に憧れて、真っ青な海が広がる地中海に面した南フランスに行きたいと思っていました。

元谷 そういう流れで留学したのですね。

大坪 はい。渡米した一九六八年当時はまだ一ドルが三百六十円、日本から持ち出せる現金は五百ドルまでと制限されていました。日本人がいないところじゃないと勉強にならないと思い、最初はルイジアナ州立大学で英語を学びました。ルイジアナは南部ですから、一九六〇年代はまだまだ人種差別が激しかったですね。その後はスタンフォード大学のビジネススクールで学ぶため、サンフランシスコに移りました。入学前にお金を貯めようと、旅行会社での観光ガイドのアルバイトを始めました。日本の領事館もその会社の顧客で私は領事館担当になりました。最初にガイドしたのが内閣総理大臣の佐藤栄作氏で、次が田中角栄氏でした。その後も福田赳夫氏、宮沢喜一氏等、多くの日本の首相のガイドを担当しました。当時は日本からワシントンD.C.への直行便がなかったので、政府関係者はまずサンフランシスコに到着し、宿泊して市内観光などで体調を整えてから、ワシントンに向かったのです。今から見ると、非常にいい時代でした。

元谷 確かに昔は直行便がなかったですね。

大坪 一九七〇年、通商産業大臣だった田中角栄氏が日米繊維交渉のために訪米しました。私がサンフランシスコの市内観光のガイドをしていると、彼に国はどこだと聞かれたのです。私の話し方から新潟の人だと分かったのでしょうね。新潟県南魚沼の塩沢ですというと、田中氏の選挙区だったので大変喜んで、明日一緒にメシを食おうと。サンフランシスコで一番いい料亭に連れて行ってくれて、最後には小遣いだと言って、胸から分厚い札束が入った財布を取り出して、ピン札をくれました。空港にも見送りに行ったのですが、サンフランシスコ市長や駐米大使などのお歴々を通過してすっと私のところに来て、固く手を握って「頑張れよ、日本に帰ったら遊びに来い」と言うのです。実際にしばらくして帰国、電話をしたのですが、その時はもう田中氏は首相になっていて、繋がらなかったですね(笑)。

元谷 田中角栄氏らしいエピソードです。

大坪 この話には続きがあって。三年ほど前NHKでやっていた戦後七十年に関する番組を観ていると、出演している列島改造論は私が書いたという白髪の紳士に、どうも見覚えがあるのです。調べたら、サンフランシスコで通産大臣秘書として田中角栄氏の脇に常にいた小長敬一氏だったのです。あの後内閣総理大臣秘書官を務め、退官後はアラビア石油の社長になった方で、今は弁護士をされています。テレビを観てすぐに事務所に連絡したら、数時間もしないうちに返事が来て、今度日本に来たら一緒に食事をしようということになりました。小遣いをもらった話をすると、田中角栄氏は相手が学生だろうが大臣だろうが、対応が全く変わらなかったそうです。私もそういう人間になりたいと思いました。

発信が情報を集め
その情報が成功の素になる

元谷 凄い人生経験を積まれていますね。ベトナムに行ったのが、人生の大きなターニングポイントだったのでしょう。

大坪 その通りだと思います。

元谷 私も海外はこれまで八十二カ国訪問しました。五十カ国ぐらいは何となくとか、仕事などで訪問するかもしれませんが、それ以上となると探究心というか好奇心というか、強烈な動機が必要になります。今年五月にはウズベキスタンに行ってきました。首都のタシケントには、シベリアに抑留されていた旧日本兵の一部が派遣されて建設したナヴォイ劇場が今も残っています。かつてはこの劇場に「日本人捕虜がこの建物を造った」という銘板があったのですが、一九九一年にウズベキスタンが独立した時の初代大統領・カリモフ大統領が「日本とウズベキスタンが戦争をしたことはないし、今後も争わないので捕虜という言葉は適切ではない」と、「捕虜」という言葉を「日本国民」と書き換えさせたとの説明がありました。非常に親日的な国で、日本への留学経験があり日本語も堪能な観光大臣ともお会いし、親交を深めました。「発想は移動距離に比例する」というのは私の座右の銘の一つなのですが、それをしっかり実践できました。海外旅行で裏打ちした知恵を事業に生かしたり、このApple Townのエッセイなどで多くの人に伝えているのです。

大坪 事業だけでもお忙しいのに、よく文章を書く時間があるなと、感服しています。

元谷 いつも締切に追われているのですが(笑)。ただこのApple Townを三十年近く出し続けてきたことが、事業にとってもプラスになっています。このビッグトークは今回の大坪さんで三百三十回目、ワインの会はこの号で百八十六回目です。ワインの会には平均四名の方がいらっしゃるとすると、三三〇+一八六×四=一〇七四で、千人以上の方がApple Town上に登場したことになります。また毎月三カ所で開催している勝兵塾にも、延べ一万八千人の方が参加しています。Apple Townで私が情報を発信することで多くの人が集まり、私に情報が入ってくるのです。その情報が未来予測の糧となり、私の事業の成功の素となっています。ここまで事業が大きくなったのは、Apple Townのおかげですね。大坪さんの場合は、多くの有力者との人脈が成功の原動力だと思うのですが。

大坪 その通りかもしれません。

元谷 大坪さんが共同オーナーになっているニューヨークのステーキ店の肉も美味しかったです。

大坪 エンパイアステーキハウスですね。共同オーナーといっても私は日本を含める海外に関してです。九月には国連総会出席の為ニューヨークを訪問された安倍総理が食事に来られましたし、先日ヒラリー・クリントンがあの店でパーティーを開いてくれました。

元谷 そんな店のオーナーになることで、また人脈が増えているのでしょう。

大坪 そうですね。ただ私の人脈が大きく広がったのはゴルフのおかげです。何年か働いた後、一九八一年にシアトルにあるワシントン大学のロースクールを終えたのですが、その時はオーストリアのウィーンで国連の法務担当官になろうと思っていました。そこでシアトルからニューヨーク経由でウィーンに行こうとしたのですが、その経由地のニューヨークにあまりにも活気があって。こちらの方が面白そうだと思い、ニューヨークでビジネスコンサルタントの仕事を始めたのです。最初はパナソニックやソニーなど日系企業の現地支社開設のお手伝いでした。その内に事務所や社宅を探す依頼が多くなったので、自ら不動産事業を手掛けるようになったのです。一九八〇年代の日本がバブルだった時でしたから、あっという間に不動産会社は社員百人の規模になってしまいました。

元谷 そういう経緯だったのですね。

新都市型ホテルでは
プライバシーを何より重視

大坪 ただ日本人相手に不動産業を行うには、ゴルフか麻雀が必要ではないかと、サンフランシスコで出会った新潟県長岡出身の家内が勧めるので、麻雀はやる気がなかったのでゴルフにしました。四〇才でゴルフを始めたので、どうしたら早く上手になれるかと考えたら、それにはまずレッスンを受けた方が良いと思い、最初にフロリダのジャック・ニクラスのゴルフスクールに行きました。その後カリフォルニア、アリゾナ、サウス・カロライナ等のゴルフスクールに通い、朝晩ゴルフ練習場でボールを打ち、日中はコースを回り、毎日ゴルフをしていました。不動産事業が順調だったので、テレビやニューヨークタイムズなどのメディアにも取り上げられたのですが、それを見た一人のアメリカ人が一緒にビジネスをやろうとウチの会社を訪問してきました。話をしているうちにゴルフの話になって、シネコックヒルズという全米オープンが四回開催された歴史あるゴルフ場に招待してくれるというのです。私は是非行きたいと思ったのですが、車で往復四時間程掛かるので躊躇していたら、どこに住んでいるかと聞かれたので、ニュージャージーのフォート・リーという町に住んでいると答えました。そうしたらその近くにプライベート機用の飛行場が有るので、自分のジェット機で迎えに行く、十人乗れるので友人を誘って来ないかというので、そこで私はゴルフ好きの邦銀の支店長も誘って、そのアメリカ人の自家用ジェットでシネコックヒルズに行きました。その後も三人でいくつものゴルフ場を回りました。そのお陰で銀行の社宅を沢山買ってもらいました。その後彼がヘリコプターで私を迎えに来て、ニュージャージーに新しいゴルフ場が出来たので一緒に行こうと誘われました。これまで行ったことのない素晴らしいゴルフクラブでした。家に帰って家内に今日行って来たゴルフ場は素晴らしく、この様なゴルフクラブの会員になりたいと話したら、家内は日本人がアメリカの有名クラブの会員になれる訳がないと冷静でした。しかしその後で、そんなに気に入ったのなら、自分から会員になりたいと言わず、クラブから会員にならないかと誘われるまで、黙っていた方が良いというのです。確かに行く度に私が素晴らしいゴルフクラブだと褒めるので、そんなに気に入ったのなら入会しないかと誘われ入会する事になりました。さらに東洋人は私一人ということもあって、すぐに理事になりました。他の理事ともゴルフ場ではファーストネームで呼び合っていて、名刺交換などしないので、肩書も全くわかりません。ある日マンハッタンの一流レストランで理事会があり、その場で仕事を聞いてみたら、ニューヨークタイムズの社長だったり、ゴールドマン・サックスのチェアマンだったり、共和党の委員長だったりとお歴々ばかり。そんな人達と知り合いになることでアメリカ社会にどんどん入り込み、人脈を広げることができたのです。

元谷 運が味方したのですね。ニューヨークで不動産業ですから、トランプ大統領とも知り合いでしょう。

大坪 トランプとはゴルフトーナメントで知り合って、食事などを一緒にしていました。しかし彼とはビジネスを一緒にした事は有りません。トランプの長女のイバンカは私の娘より三才年下で、家族一緒にヤンキースの野球を見に行こうとか、昨年安倍総理とトランプがゴルフをしたフロリダのマーラーゴという別荘を買ったばかりの頃で、自分のジェット機で送り迎えをするから、家族で一緒に行こうと誘ってくれたのですが、私は当時仕事とゴルフが忙しく、トランプとの付き合いは徐々に遠のきました。とにかく私の人脈は、ゴルフが基盤なのです。

元谷 ニューヨークのトランプタワーの上層階はコンドミニアムになっているのですが、昔私も日本の銀行から買ってくれと言われたことがあります。日本人の所有物だったのですが、その人が売りたいという話だったのです。ニューヨークは日本からも遠いし、冬は寒いので、結局買いませんでした。

大坪 今トランプタワー持っていたら、セキュリティが厳しすぎて、住みづらいですよ(笑)。

元谷 (笑)代わりに、ロサンゼルスの超高級住宅街のハンティントン・ハーバーで艇庫を持つ家を買いました。十数年保有していたのですが、あまり利用することもなく、維持費が嵩むので売却しました。トランプタワーにせよ、ハンティントン・ハーバーの家にせよ、当時買って今まで持っていれば、相当値上がりしていたはずです。

大坪 ニューヨークの不動産価格は高騰しています。つい数年前までビル一棟が百億円で買えたのですが、今一部屋で百億円もの物件もあります。それでも世界中の金持ちが買っているのです。

元谷 私は注文住宅から事業を起こし建売住宅へ、さらに賃貸マンションから分譲マンション、そしてホテルへと事業を展開してきました。そもそもの理由は節税です。いかに利益を収益のある資産の償却赤字と損益通算し、節税するかを考えて、事業を変えてきたのです。その結果今や日本一のホテルチェーンとなり、収益率はホテルとしては世界一です。それは新都市型ホテルという新しいスタンダードを作ったことで可能になったのです。まずアパホテルでは、従業員とお客様の関係が違います。伝統的なホテルの従業員とお客様の関係は、ヨーロッパの召使いと貴族の関係の模倣になっています。インドのホテルに宿泊した時に、部屋付の召使いがいて驚いたことがあります。

大坪 ニューヨークでもセントレジスなど高級ホテルのいい部屋には、召使い付がありますね。

元谷 部屋に自由に出入りして、召使いのようにお客様に仕えるホテル従業員というのは、貴族的ではありますが、プライバシーを重視する現代的ではないでしょう。アパホテルでは従業員とお客様は対等、そしてお客様に提供した部屋には無断では絶対に入りません。この形が多くのお客様に支持されて、今のアパホテルの快進撃に繋がっているのです。

大坪 その発想はどこから出てきたのでしょうか。

元谷 世界八十二カ国を訪れ、様々な国のホテルに宿泊する中で出てきた考え方なのです。

大坪 なるほど。

東京オリンピック後に
アパの買収戦略が始まる

元谷 昨年の一月にアパホテルに絡んで俗に言う書籍問題が発生、中国からアパホテルの予約ができなくされ、中国人観光客の宿泊が大幅に減少しました。代わりに今宿泊数が伸びているのは、ヨーロッパや北米からの観光客です。インバウンド自体増加していて、今はアパホテルの宿泊者全体の二五%、東京に限れば五〇%が海外からのお客様です。もう数年するとこれが全体五〇%、東京七〇%になるのではと予測しています。これまでは日本のホテルは非常にドメスティックな商売でしたが、これからは外国人宿泊者の方が多くなります。部屋の設計思想も変えていかないと。最新のアパホテルはベッドを高くして下に収納スペースを確保、大きなキャリーケースも収納できるようにしました。また部屋は事務所並に照明を明るく。これによって、大きなベッドの上で書類を広げたり、荷物を整理したり、様々な作業がやりやすくなりました。アパホテルは、高品質、高機能、環境対応型で、部屋はコンパクトでも品質は高く、機能性も充実させています。これはスペースを売るホテルではなく、満足を売るのがアパホテルのポリシーだからです。

大坪 素晴らしい考え方です。

元谷 部屋をコンパクトにし、断熱カーテンやシャワーに空気を混ぜて節水し、浴槽をエコタイプにしているので、アパホテルの炭酸ガスの排出量は一般の都市ホテルの三分の一です。これに伴うランニングコストの減少によって、アパホテルの収益率は三〇%を超えています。

大坪 そこが凄いですね。

元谷 低金利の今は資産拡大戦略に出るべきだと考え、現在五十一棟のホテルを建設・設計中です。この中には三十階建以上が三棟、二十階建以上が五棟あります。オリンピックが終わるとオーバーホテル現象で、一気に稼働率が下がるという説もありますが、私はそれは一時的なもので、すぐに稼働率は回復すると考えています。アパホテルは土地が安い時に用地を仕込み、さらにそれをキャッシュで支払っていますから、多少宿泊単価が下がっても耐えられます。私は二〇一〇年から頂上戦略として東京都心の土地の購入を加速しましたが、今の地価は当時の価格の三倍になっています。他社はその高い用地を購入し、高い建設費でホテルを建て、それらの費用を銀行からの融資で賄っている場合には、例え金利が安くても、稼働率の低下で約定弁済ができなくなり、不良債権となり、銀行は追加の融資をしなくなります。年月がある程度過ぎたホテルには様々な故障箇所や傷みが出てきますから、リニューアルが必至。しかしお金がないとできません。そして更に傷みが進んで客が離れ、最後には銀行から売却を迫られることになります。それをアパホテルが購入するのです(笑)。オーバーホテル現象は平等にやってきますから、そこは体力勝負です。アパホテルは利益が半分になってもやっていけますから、強いですよ。

大坪 そういう状況を狙っていたりするのですね。

元谷 アパホテルにとっては大きなチャンスです。東京や大阪には投資をして新築ホテルを建設してきましたが、北海道、東北、中四国など地方のホテルはほとんど買収したものです。また北米のホテルも買収によるものです。小さなホテルであれば、今なら銀行からの融資も不要で、手持ち資金で購入することができます。ホテルの売却物件が増加するというチャンスが到来すれば、この資金力を生かして買収戦略を推進して、アパホテルのシェアをアップすることができます。アパホテルは日本一とはいえ、日本のホテルでのシェアはたったの四%なのです。日本には圧倒的に単館経営のホテルが多く、全てのチェーンホテルのシェアを合わせても、四〇%くらいです。この中でシェアをアップすると同時に、オリンピック後はいよいよ世界戦略です。まず先に展開している北米でホテルを増やす為にも、大坪さんの情報も頼りにしています。

大坪 わかりました。お任せください。

元谷 その次は日本に近い台湾やタイ、マレーシアなどアジアでしょう。そしてヨーロッパでしょうか。

大坪 私が名誉領事をしているモンテネグロにもぜひ。

元谷 わかりました。最後にいつも「若い人に一言」をお聞きしています。

大坪 最近の若い人は日本がいい国過ぎて、海外に出たがらないと聞きます。世界はグローバル化していますから、思い切って世界を見ないと。ただこれには日本政府のやり方にも問題があるのです。アメリカの大学で高い授業料を払って、懸命に勉強して卒業しても、日本の一流企業は敬遠して採用しません。だから海外の大学を卒業した優秀な人材が、外資系企業に流れていくのです。留学経験者を積極的に採用する仕組みを作らないと、国際社会の中で、韓国や中国に負けてしまうでしょう。多くの若者が海外に出て、日本の良さを伝えられるような環境を整備する必要があります。

元谷 確かにそうですね。世界中に人脈のある大坪さんの益々のご活躍に期待しています。今日はありがとうございました。

大坪 ありがとうございました。

対談日 2018年10月17日