
子供達の未来のために
政治の世界に飛び込んだ
政治の世界に飛び込んだ
西岡義高氏は一九七七年生まれで、氷河期世代のど真ん中だ。議員になる前は、輸入食品・ワイン関連の企業数社で、営業職のサラリーマンをしていた。就職がままならなかった同世代が日本の未来を諦めるようになる中、三十七歳で長女を授かったこと、子供の空手の指導もするようになったことから、未来の彼らのために日本を変えなければと思うようになった。しかし一介のサラリーマンにはできることに限界があり、人任せにせずに自分で社会の仕組みを変えていこうと、国民民主党の公募に応じて選挙に出馬、二〇二四年七月の衆議院議員選挙において、初当選を果たした。極真空手の黒帯を持つ西岡氏は、国際大会の年齢別クラスで準優勝した経験もある。極真空手は寸止めではなくフルコンタクトで行う競技で、体への影響が大きい。西岡氏も始めた頃は、毎年のように骨折をしていた。特に折れやすいのは肋骨だが、呼吸のために固定ができないので、治療には時間を要する。子供達への指導を行っている関係から、議員になってから自ら望んで文部科学委員会に所属している。
勝兵塾への参加は
イスラエル留学がきっかけ
イスラエル留学がきっかけ
岡田隆氏は元々柔道選手で、古賀稔彦氏に憧れて日本体育大学に入学したが、思ったように強くなれず、そのコンプレックスから体力作りや食事や睡眠の研究を行う研究者の道を選んだ。実践研究の一つとしてボディビルを行っていて、二〇二三年には国際大会の四十歳以上のクラスで世界チャンピオンになった。体を作るには様々な方法があり、効率的な方法を見つけることで、日本人の健康や体力強化に貢献したいと考えている。日体大在学時代には、当時理事長を務めていた松浪健四郎氏と親交が深く、そのために長年に亘って教鞭を執っていた馳浩氏から学んだ。柔道部と相撲部の学生が馳氏に懐いたのだが、頼むと馳氏は得意技の逆円錐チョップをしてくれたという。
岡田氏は二〇二三年にイスラエルに一年の予定で留学したが、十月にハマスのテロが発生、治安の悪化から帰国を余儀なくされた。イスラエルに行ってすぐに感じたのは、日本に関する無知さだ。イスラエル人に日本のことを話そうとして、その知識を持っていないことに改めて気付いたという。一方イスラエルの人々は、自分の国を愛していることを隠さず、様々なことを語ってくれた。帰国した岡田氏はもっとしっかり日本の歴史や先人のことを学ばなければと考え、その場所をいろいろと探してたどり着いたのが、勝兵塾だった。行けば、いろいろな先生の話が聞けて非常に勉強になるという。
一月に岡田氏は勝兵塾で講演を行ったが、その内容は次のようなことだ。二〇二一年まで柔道の全日本男子チームの体力強化部門長として活動、その際に多くの代表選手が日本への誇りを持ち、さらに国旗を表彰台の高いところに掲げたいという強い思いを持っていることを、ひしひしと感じた。体作りの専門家として、子供の体力低下の解決や健康寿命の延伸を通じて日本に貢献したいと考えている。しかし、ガザの戦闘にイスラエル人の仲間のボディビルダーが参加するのを目の当たりにし、日本人に同じ行動ができるか不安に。日本人が誇りや自信を持てないという現象は、スポーツの世界にも影響を及ぼしている。柔道でも、欧米人のような筋肉量を日本人はつけられないという思い込みがあったが、科学的な方法で日本人が欧米人に負けない筋肉量がつけられることを、岡田氏は実際に証明することに成功した。
岡田氏がイスラエル滞在時、突然爆音が鳴り、サイレンが鳴り響く状況になったことがある。その際、平和だった環境が一瞬にして戦場になることの強さを実感、常に準備することの重要性と自らの心と体の鍛錬、そして今の平和な日本を作った先人への感謝の念を忘れてはならないと実感。このことも、勝兵塾を訪れるようになる理由だった。
岡田氏は二〇二三年にイスラエルに一年の予定で留学したが、十月にハマスのテロが発生、治安の悪化から帰国を余儀なくされた。イスラエルに行ってすぐに感じたのは、日本に関する無知さだ。イスラエル人に日本のことを話そうとして、その知識を持っていないことに改めて気付いたという。一方イスラエルの人々は、自分の国を愛していることを隠さず、様々なことを語ってくれた。帰国した岡田氏はもっとしっかり日本の歴史や先人のことを学ばなければと考え、その場所をいろいろと探してたどり着いたのが、勝兵塾だった。行けば、いろいろな先生の話が聞けて非常に勉強になるという。
一月に岡田氏は勝兵塾で講演を行ったが、その内容は次のようなことだ。二〇二一年まで柔道の全日本男子チームの体力強化部門長として活動、その際に多くの代表選手が日本への誇りを持ち、さらに国旗を表彰台の高いところに掲げたいという強い思いを持っていることを、ひしひしと感じた。体作りの専門家として、子供の体力低下の解決や健康寿命の延伸を通じて日本に貢献したいと考えている。しかし、ガザの戦闘にイスラエル人の仲間のボディビルダーが参加するのを目の当たりにし、日本人に同じ行動ができるか不安に。日本人が誇りや自信を持てないという現象は、スポーツの世界にも影響を及ぼしている。柔道でも、欧米人のような筋肉量を日本人はつけられないという思い込みがあったが、科学的な方法で日本人が欧米人に負けない筋肉量がつけられることを、岡田氏は実際に証明することに成功した。
岡田氏がイスラエル滞在時、突然爆音が鳴り、サイレンが鳴り響く状況になったことがある。その際、平和だった環境が一瞬にして戦場になることの強さを実感、常に準備することの重要性と自らの心と体の鍛錬、そして今の平和な日本を作った先人への感謝の念を忘れてはならないと実感。このことも、勝兵塾を訪れるようになる理由だった。
会長が伝え続ける
日本の国の素晴らしさ
日本の国の素晴らしさ
市村浩一郎氏は三期目までは民主党から出馬、民主党政権下で国土交通大臣政務官も務めたが、下野後数年で民主党を離れ、日本維新の党から出馬して四期目、五期目となっている。四期目に当選した直後に、「真の近現代史観」懸賞論文とアパ日本再興大賞の授賞式のパーティーに参加してからのアパとの縁だ。その後にはこの月刊Apple Townのビッグトークやワインの会にも登場、大阪の勝兵塾で二回講演も行っている。現在日本維新の会の共同代表となっている前原誠司氏とは松下政経塾の先輩後輩の関係で、前原氏が八期で市村氏が九期になる。現在市村氏も幹事長代理の要職に就いており、同じ釜の飯を食べた仲間として、共に日本維新の会を盛りたて、しっかり日本を守っていきたいという。
日本は非常に良い国だ。会長はそのことを伝えるための活動を、月刊Apple Townを発行したり、勝兵塾を開催したりして、長年に亘って行ってきた。この国は運が良く、気候も良く食べ物にも恵まれ、その中で高度な文化を培い、教育水準や識字率を高め、穏やかで豊かな国民性を育んできた。しかし日本に生まれて日本で育った人は、それらを当たり前のことだと考え、日本が素晴らしい国であることに気が付かない。しかし海外に旅行したり留学したりすればわかるが、日本で当たり前なことは、海外では当たり前ではない。日本は治安が良いが、海外では新聞紙をひらひらさせた少女がその下から手を出して財布を盗もうとすることがあったり、盗んだ財布を次々と仲間にパスして、取り返されないようにしたり。会長は北朝鮮を訪れたことがあるが、平壌は海外の人々に「見せる」ための都市であり、市民も豊かな生活をしている「ふり」をしていた。ホテルの部屋は必ず盗聴をされていて、話は当局に筒抜け。何か当局の指示から逸脱したことをしようとすると、ぴったりと張り付いている見張り役が「パスポートを預かっている」と脅してくる。
アパグループのパーティーにも頻繁に参加されるデヴィ・スカルノ氏が、今年の夏の参議院選挙に向けて「一二平和党」(わんにゃんへいわとう)をこの二月に立ち上げた。以前よりデヴィ夫人は政治家になりたい旨を表明していたが、スカルノ大統領との婚姻でデヴィ夫人の国籍はインドネシアになっており、何度も帰化申請を行ったのだが果たせないでいた。今回も帰化申請中であり、国籍取得を経て、参院選に立候補すると報道されている。出馬するのであれば、本来であれば自民党から出て欲しいが、国籍の関係もあり難しいのかもしれない。
日本は非常に良い国だ。会長はそのことを伝えるための活動を、月刊Apple Townを発行したり、勝兵塾を開催したりして、長年に亘って行ってきた。この国は運が良く、気候も良く食べ物にも恵まれ、その中で高度な文化を培い、教育水準や識字率を高め、穏やかで豊かな国民性を育んできた。しかし日本に生まれて日本で育った人は、それらを当たり前のことだと考え、日本が素晴らしい国であることに気が付かない。しかし海外に旅行したり留学したりすればわかるが、日本で当たり前なことは、海外では当たり前ではない。日本は治安が良いが、海外では新聞紙をひらひらさせた少女がその下から手を出して財布を盗もうとすることがあったり、盗んだ財布を次々と仲間にパスして、取り返されないようにしたり。会長は北朝鮮を訪れたことがあるが、平壌は海外の人々に「見せる」ための都市であり、市民も豊かな生活をしている「ふり」をしていた。ホテルの部屋は必ず盗聴をされていて、話は当局に筒抜け。何か当局の指示から逸脱したことをしようとすると、ぴったりと張り付いている見張り役が「パスポートを預かっている」と脅してくる。
アパグループのパーティーにも頻繁に参加されるデヴィ・スカルノ氏が、今年の夏の参議院選挙に向けて「一二平和党」(わんにゃんへいわとう)をこの二月に立ち上げた。以前よりデヴィ夫人は政治家になりたい旨を表明していたが、スカルノ大統領との婚姻でデヴィ夫人の国籍はインドネシアになっており、何度も帰化申請を行ったのだが果たせないでいた。今回も帰化申請中であり、国籍取得を経て、参院選に立候補すると報道されている。出馬するのであれば、本来であれば自民党から出て欲しいが、国籍の関係もあり難しいのかもしれない。
ノーベル平和賞の影響で
広島のインバウンドが増加
広島のインバウンドが増加
戦うにしても、戦い方があるというのが、孫子の教えだ。アパグループがここまで発展することができたのは運によることも大きいが、それよりも理に適ったやり方を続けてきたことが、他社との大きな差になってきた。アパグループは二月二十八日に二〇二四年十一月期の連結決算を発表したが、売上高二千二百六十億円、経常利益七百九十六億円と二期連続で過去最高売上、最高利益を更新するという好業績だった。三五%の経常利益率という高収益のホテルチェーンは、世界中探しても他にはないだろう。創業以来一度の赤字も出さず年々その規模を大きくするアパグループは、日本の経済界内でも重要な地位を占めるようになってきている。
ホテル社長は、毎年二十人以上の東大合格者を輩出する、福井県下随一の進学校である藤島高校の出身だ。進学クラスにいたのだが、家庭の事情で大学進学を諦めて、福井信用金庫に就職した。しかし向学心は全く衰えず、二〇〇一年に住居を金沢から東京に移した五十三歳のタイミングで法政大学に入学、その後は早稲田大学大学院の修士課程を修了、さらに博士課程に進学して、単位取得した。東京国際大学の客員教授も務めたが、「教えるのは経済学と恋愛学」と自称する実社会で体験したことをふんだんに盛り込んだ授業は人気を集め、多い時には二百八十名が履修するほどで、同僚の教授達も聞きに来ていたという。今の大学の教員はいろいろと大変。男性教員の場合は、女子学生と面談を行う場合は研究室のドアを開けっ放しで行わないと、あらぬ疑いをかけられたり、SNSで中傷されたりすることがある。ホテル社長は何事も勉強が好きで、ホテル社長を任された時も、五つの料理学校に通って調理のことを幅広く学んだ。
中四国最大級の七百二十七室を擁するアパホテル〈広島駅前大橋〉は、二〇一五年二月に起工式を行ったが、その際に取材に来たメディアから、こんなに大きなホテルが客で埋まることがあるのかと質問された。その際会長は、いずれオバマ大統領が広島を訪問し、それに伴って多くの外国人旅行者が来るようになると予言した。その後、二〇一六年五月にオバマ大統領の広島訪問は実現、その年の十月にオープンしたアパホテル〈広島駅前大橋〉の稼働率は、ずっと好調を維持している。広島では現在三つのアパホテルが稼働、二〇二八年春開業予定のアパホテル&リゾート〈広島駅前タワー〉を加えると、全部で約二千室の供給を行うことになる。CEOの算段では広島はアパホテルだけでも三千室のニーズがあり、昨年十月に一旦閉業したアパホテル〈広島駅前〉も隣のホテルとの一体開発によって建て替えを行い、二百二十一室のホテルとして二〇二七年に再オープンする予定だ。昨年に日本被団協がノーベル平和賞を獲得したからか、今広島にはアメリカをはじめとした海外から観光客が急増している。
ホテル社長は、毎年二十人以上の東大合格者を輩出する、福井県下随一の進学校である藤島高校の出身だ。進学クラスにいたのだが、家庭の事情で大学進学を諦めて、福井信用金庫に就職した。しかし向学心は全く衰えず、二〇〇一年に住居を金沢から東京に移した五十三歳のタイミングで法政大学に入学、その後は早稲田大学大学院の修士課程を修了、さらに博士課程に進学して、単位取得した。東京国際大学の客員教授も務めたが、「教えるのは経済学と恋愛学」と自称する実社会で体験したことをふんだんに盛り込んだ授業は人気を集め、多い時には二百八十名が履修するほどで、同僚の教授達も聞きに来ていたという。今の大学の教員はいろいろと大変。男性教員の場合は、女子学生と面談を行う場合は研究室のドアを開けっ放しで行わないと、あらぬ疑いをかけられたり、SNSで中傷されたりすることがある。ホテル社長は何事も勉強が好きで、ホテル社長を任された時も、五つの料理学校に通って調理のことを幅広く学んだ。
中四国最大級の七百二十七室を擁するアパホテル〈広島駅前大橋〉は、二〇一五年二月に起工式を行ったが、その際に取材に来たメディアから、こんなに大きなホテルが客で埋まることがあるのかと質問された。その際会長は、いずれオバマ大統領が広島を訪問し、それに伴って多くの外国人旅行者が来るようになると予言した。その後、二〇一六年五月にオバマ大統領の広島訪問は実現、その年の十月にオープンしたアパホテル〈広島駅前大橋〉の稼働率は、ずっと好調を維持している。広島では現在三つのアパホテルが稼働、二〇二八年春開業予定のアパホテル&リゾート〈広島駅前タワー〉を加えると、全部で約二千室の供給を行うことになる。CEOの算段では広島はアパホテルだけでも三千室のニーズがあり、昨年十月に一旦閉業したアパホテル〈広島駅前〉も隣のホテルとの一体開発によって建て替えを行い、二百二十一室のホテルとして二〇二七年に再オープンする予定だ。昨年に日本被団協がノーベル平和賞を獲得したからか、今広島にはアメリカをはじめとした海外から観光客が急増している。