Big Talk

戦国時代から先達は日本を力強く守り抜いてきたVol.404[2025年3月号]

歴史探究家、東北大学大学院 環境科学研究科特任教授 内藤克彦
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アパグループ会長 元谷外志雄

第十七回「真の近現代史観」懸賞論文にて、社会人部門の優秀賞を獲得した歴史探究家の内藤克彦氏。先に夕刊フジで二十回に亘って執筆した連載を一万字に整理して懸賞論文に応募したという内藤氏に、受賞した論文の内容や、字数制限で論文には書ききれなかった「その続き」をお聞きしました。

内藤 克彦氏
昭和57年3月東京大学大学院工学部物理工学専門課程修了、昭和57年環境庁入庁、平成13年環境省環境管理局水環境部農薬環境管理室長、平成14年地球環境局地球温暖化対策課調整官・国民生活対策室長、平成19年総合環境政策局環境影響審査室長、平成20年水・大気環境局自動車環境対策課長、平成23年(東京都)港区副区長、平成26年~令和5年京都大学特任教授、令和6年現職。

戦国時代の日本は
世界有数の工業力を保有

元谷 本日はビッグトークへの登場、ありがとうございます。内藤さんは「鎖国は武装中立」という論文で、第十七回「真の近現代史観」懸賞論文の社会人部門の優秀賞を獲得しました。十二月六日には、明治記念館で表彰式と受賞記念パーティーを行いましたが、出席した感想はどうでしょうか。

内藤 賞に選んでいただき、本当にありがとうございます。パーティーでは、他の受賞者の方とお話したり、いらっしゃった方々の祝辞をお聞きしたり。皆さん、素晴らしいお話をされていて、言論活動の重要さを改めて認識しました。今の日本社会は自由な言論が保障されているようで、意外といろいろな牽制球が入ってきて、自由にできないことがあります。歴史に関しても私から見れば、主流の歴史学者は相当様々なところへの忖度を行っているように思えます。忖度の無い真実の歴史を表舞台に出す機会として、「真の近現代史観」懸賞論文やアパ日本再興大賞は非常に貴重な機会だと考えています。

元谷 忖度なしに自由にやっている、他にはあまり無い賞ですね。また「真の近現代史観」懸賞論文の受賞論文はこの月刊「Apple Town」に掲載されるのですが、この雑誌は十万部発行されていて全てのアパホテルの客室に置かれているので、かなり多くの人の目に触れることになります。

内藤 つい先日も、とあるエネルギー企業の部長をしている知り合いから、出張で泊まったアパホテルにあった「Apple Town」1月号で私の論文を読んだというメールをいただきました。パーティーでは懸賞論文で最優秀藤誠志賞を獲得した中村敏幸さんや、アパ日本再興大賞を受賞されたジェイソン・モーガンさんともお話したのですが、私の論文も含めて「グローバリズム対国益主義」をテーマにしているのは共通だと感じました。それぞれ切り口が異なりますが、私が対象としたのは歴史学者が読んでも反感を持たれない時代ですね。日本が戦国時代の時に近代西洋の影響が日本に及び、そこからグローバリズム対日本の国益の対立が始まって、ずっと現在に至るまで緊張関係が続いていくのです。しかし戦国時代の日本は強力な軍事力を保有していたので、それを排除することができました。字数制限があったので、今回賞をいただいた論文では、戦国時代から江戸時代初期の島原の乱までを対象としたのですが、その後も第二次世界大戦終結までは自分なりに整理したものを持っています。その第二次世界大戦のあたりは、藤誠志賞の中村さんの論文とほぼ同じような認識となっています。

元谷 内藤さんは受賞した論文で、独立自衛の力がないと鎖国ができなかったということを明確に示しています。

内藤 はい。日本の戦国時代は、世界的には大航海時代でした。アメリカ大陸が発見され、スペインとポルトガルが一斉に海外に乗り出して、植民地獲得競争を行いました。当然日本も植民地の候補になったはずなのですが、西欧諸国の武力侵攻はありませんでした。日本の歴史教科書にはその結果だけが記されていますが、当時世界最強だったスペインが日本を侵攻しなかった理由などは書かれていません。

元谷 戦国時代の日本の鉄砲の保有数は、世界一だったと聞いたことがあります。それが理由でしょうか。

内藤 はい、それもあります。私はこの「理由」をなるべく定量的に、今の軍事バランスを分析するのと同じように調べようとしたのです。調べていると、日本の歴史学者は日本の文献ばかりを見ていて、西欧諸国がどう考えていたのかをあまり評価していないことに気が付きました。これでは不十分です。そこで私はヨーロッパの文献を調べたのです。ヨーロッパではこれらの歴史研究が進んでいて、多くの論文が出ています。

元谷 何らかの理由で西欧諸国は、日本侵攻はリスクが高いと判断したということですね。

内藤 はい、そうです。例えば鉄砲は一五四三年に種子島に伝来しましたが、そこからわずか五年で大阪の堺等で量産体制が作られています。また日本の鉄砲は刀同様鍛鉄で作られていて命中精度が高く、西欧製のものにはない照準器も備えていました。ヨーロッパでの鉄砲の使用法は、命中精度が低いので集団による一斉射撃で弾幕を張るというものでしたが、日本製の鉄砲は百~二百m離れていても、一人ひとりの人間を狙撃できるほどの性能があったのです。その頃のイギリスは、欧州では良質の鉄で武器を作る能力があったために勢力を増していたのですが、その自慢の鉄を売りつけようとしたイギリスの東インド会社に対して、日本商人は日本産に比べて鉄の品質が粗悪だという理由で、購入していません。また先程会長が仰ったように、鉄砲の数も豊富でした。当時、イギリスがフランスへの侵攻を画策してイギリス王がイギリス全土からかき集めた鉄砲は千百丁でした。しかしその二十年前の一五七五年の長篠の戦いでは、織田信長・徳川家康連合軍が三千丁、武田勝頼側が五百丁の鉄砲を使用しました。本人達は強く意識していなかったのですが、日本には鉄砲を大量に製造できる、世界有数の高い工業力があったのです。

軍事力を背景にした姿勢で
日本侵攻の意志を挫く

元谷 しかし、そのようなことを、西欧諸国はどのようにして知ったのでしょうか。

内藤 文書に残っているのは、宣教師の本国への報告や当時のフィリピン総督が本国のスペイン国王に宛てた書簡です。スペインは喜望峰回りでやって来たポルトガルとは異なり、大西洋からアメリカ大陸を経て東アジアに武力侵攻してきました。その過程で、アメリカ大陸にはニュースペイン王国(今のメキシコ)を作り、スペイン副王を配置、さらにここを拠点としてフィリピンを占領して砦を築き、フィリピン総督を置きました。この後もスペインはアジア各地に侵攻します。シャム王国にも二度侵攻しましたが、このいずれをも撃退したのが、日本人浪人部隊を率いた山田長政でした。この功で山田長政はシャムの王女と結婚したとされているのですが、シャム王国はこれで独立を維持できたのです。戦国時代の終盤には、日本から多くの浪人達がアジアに流れていきました。マニラのスペインが築いた砦も、数回浪人達の攻撃を受けて、それを撃退するのに非常に苦労したとフィリピン総督は綴っています。わずかな人数の浪人相手でもこれだけ際どい戦いになるのだから、日本と戦争状態となって日本からマニラに正規の大軍を送られたら危ういと判断、豊かな国だから占領したいが武力では無理だと、フィリピン総督はスペイン王に報告しています。

元谷 そういうことで、日本の強さを判断していたのですね。

内藤 さらに、日本側の外国に対する毅然とした姿勢も存在していました。一五九六年のサン・フェリペ号事件では、豊臣秀吉は四国に漂着したスペインのガレオン船の積み荷を没収、その船員の発言を根拠に「スペインに日本侵略の下心がある」と、四人のスペイン人を含む二十六人のキリスト教徒を磔により処刑しています。フィリピン総督はこの事件に際し、積み荷の返還と刑死者の遺骸の引き渡しを要求しましたが、秀吉は法に基づく措置として、この要求を撥ねつけました。徳川家康の時代には、肥前日野江藩の有馬晴信が、徳川家康の占城(ベトナム)宛の国書を携えた使者を同乗させ派遣した朱印船が、途中寄港したポルトガル領だったマカオで地元の人々と騒乱事件を起こし、マカオの総司令官の鎮圧によって日本人に死者が出ました。日本に何とか帰国できた朱印船搭乗者はことの顛末を報告します。そこへ、翌年、当事者たるマカオの総司令官を乗せた船が長崎にやって来たのです。家康は総司令官に弁明をさせるべく召喚命令を出しますが、総司令官は身の危険を感じ、長崎からの脱出を試みます。家康は周辺の五藩に討伐を命じますが、有馬は自分の責任だからと単独で対処すると九隻の船で総司令官の乗船を取り囲み、火攻めにしました。総司令官は自ら火薬庫に火を放ち、船を自沈させました。当時はポルトガル王とスペイン王は兼任でした。フィリピン総督は、サン・フェリペ号事件とマカオの総司令官の事件はスペインが日本に対して開戦する十分な理由にはなるが、武力の強い日本への武力介入は難しく、キリスト教の福音を伝道しキリスト教化することによってスペイン国王の指揮下に自ら入るように仕向けるしかないと、スペイン国王に注進しています。秀吉も家康も、西欧諸国に対してこのように毅然とした対応をしていました。その対応の裏付けとなる武力も保有していたのです。

元谷 日本が鎌倉幕府以降、武士という軍事を担う人々が、同時に政治を担ったということが大きかったのでしょう。戦国時代の争いで全国各地の軍事力は増強され、それは鉄砲の伝来でさらに強化されていました。

内藤 その通りだと思います。フィリピン総督の書簡には、マニラの砦は立派ではあるが、兵は五百人ほどしかいない。日本が本気で攻めてきたら、マニラは持たないと記されています。日本からマニラまでは船で約二週間、一万人ぐらいの兵力はすぐに送れる距離であり、下手に手を出すと、マニラの方が危ないとフィリピン総督は考えたのでしょう。更に時代が下って、徳川家光の時代になると、二回にわたってルソン討伐が計画されています。その理由は、スペインによる密入国の宣教師を使ったキリスト教布教工作が絶えなかったからです。キリシタンを味方につけ、内部からの徳川治世の切り崩しを目論んだのでしょう。これに対抗するには、宣教師潜入の基地となっているマニラがあるルソン島を討つしかないと、一六三〇年、肥前島原藩主の松倉重政はルソン島領有を褒美として認めてくれるのであれば、自分がマニラを攻略すると家光に申し出ました。実際に偵察部隊を派遣したりするのですが、松倉本人がその後間もなく亡くなったために、この話は立ち消えになります。七年後の一六三七年には、幕府自体がルソン討伐を企てました。オランダ人から兵を輸送する船舶を借りる交渉を行ったのですが、そうした動きがキリシタンに漏れたからか、暴発が起こったのが島原の乱でした。この様子もフィリピン総督はスペイン王に報告しています。

蒸気機関の軍艦を脅威とし
幕府は海軍力の強化に奔走

元谷 島原の乱の後、徳川幕府は鎖国政策を強化していくのですが、それは単なる内向きの防御というよりは、積極策も含めた対外政策を検討した結果、辿り着いた方針だったということですね。また、これに対して、欧米諸国も日本の軍事力に脅威を感じていて、侵攻することができなかったということでしょう。今も昔も変わらないと思うのですが、バランス・オブ・パワー、つまり力の均衡が戦争抑止には重要なのであって、これが崩れた時に戦争が勃発します。

内藤 その通りです。しかし、今回の懸賞論文には字数制限の関係で書きませんでしたが、一八五三年の黒船来航は、その力の均衡が崩れたことが一因であると思います。鎖国となった江戸時代の間、スペインはメキシコとフィリピンの間の定期航路を就航させていましたが、日本には一切触れませんでした。唯一キリスト教の布教は絶対に行わないと約束したオランダだけが、長崎の出島を通じて日本と交易をしていました。しかし、江戸時代も末期に近づくと西洋の武器技術は進みます。これに気が付いた長崎に生まれた高島秋帆は、オランダ経由で二百丁余の鉄砲や大砲を調達研究し、オランダ人の教えも受けて、一八三〇年代に高島流砲術を完成させました。ペリー来航の二十年前です。幕末においても砲術は西欧にさほど劣っていなかった。当時の日本が西欧に劣っていたのは唯一、蒸気機関がないことでした。トロイの遺跡の発掘で知られるドイツ人のハインリッヒ・シュリーマンは、一八六五年に日本を訪れてその様子を旅行記に記していますが、蒸気機関なしで発達できる最高完成度の文明社会で、教育は欧米以上と日本の文明を高く評価しています。

元谷 確かに、幕末の日本には蒸気機関はありませんでした。つまり日本は黒船のインパクトはその大砲ではなく、蒸気機関だったということですね。

内藤 はい。しかも、蒸気機関は十八世紀後半には実用化されていましたが、外洋航行可能な蒸気機関の軍艦が作られるようになったのは一八四〇年代頃からで、ペリーが乗艦していたサスケハナ号は一八五〇年に就役した最新艦でした。黒船来航にショックを受けた徳川幕府は、自身も含め各藩に軍艦の保有を奨励、最初に黒船が来航してから三年後の一八五六年には、日本全国で十五隻の軍艦を持つようになりました。また蒸気機関は、東芝の創業者である田中久重(からくり儀右衛門)が、一八五五年に蒸気機関車の模型を作っています。さらに一八六六年には、幕府による国産初の蒸気機関による軍艦・千代田形が竣工しています。結局幕末には、4門以上の大砲を備えた蒸気機関の軍艦は全国で三十五隻、スループ艦等の帆船の軍艦を含めると約三百隻、日本は保有していました。

元谷 急激に海軍力を増強したのですね。

内藤 一方、黒船来航当時のアメリカ海軍は、蒸気機関の軍艦を八隻しか保有していませんでした。ペリー来航は、その半分を動員する一大遠征だったのです。それに対抗して短期間で海軍力を増強できたということは、幕府の政治機能がきちんと働いていたと言えるでしょう。しかし世界の覇権国となっていたイギリスは、強硬な態度に出ます。それが顕著に現れたのが、一八六三年の薩英戦争です。前年発生した生麦事件で、島津家の家来がイギリス人三人を殺傷します。徳川幕府はイギリスに十万ポンドの賠償金を支払いますが、それに飽き足りずイギリスは七隻の軍艦を鹿児島に派遣、犯人の逮捕・処罰と薩摩からの賠償金を要求するのですが、島津久光がこれを拒否したために戦闘になります。結果は引き分けであり、イギリス側は旗艦が大破、死傷者六十三名を出して撤退するのですが、最後にロケット弾を城下に発射したため、城下町の十分の一が焼失しました。このことはイギリスの新聞・タイムズで報じられ、市街地への攻撃で無辜の民に被害を与えたことが議会で糾弾され、結局否決されますが司令官への罷免議案が出されました。またニューヨーク・タイムズには、イギリスは薩摩藩一藩を屈服させることができず、日本は侮れないという記事が出ました。このことから欧米諸国には日本を正面から攻撃するのではなく、いずれかの藩を抱え込み、国内から徳川幕府転覆を図るという動きが活発になるのです。

軍事力と教養力、経済力が
日本の植民地化を防いだ

元谷 「いざ鎌倉」という言葉があるように、有事には速やかに結束して一枚岩になるというのは、日本人の持つ美徳の一つだと思います。蒙古襲来も、その力で撃退したのですから。またもう一つの美徳はやはり教育の充実であり、これがあったからこそ、日本は植民地化されずに経済大国となり、今に至っているのではないでしょうか。

内藤 確かに軍事力に加えて日本人の持つ教養も、西欧諸国の判断に大きく影響しました。フィリピン総督の報告書には、日本人は西洋人と議論と理解の能力においてもこれに劣ることはないと明記されています。武士のみならず、商家の人々も読み書きができたわけですから。基礎的な教養は、軍事力にも影響します。第二次世界大戦末期、満州国にソ連軍と同時に中共軍も入ってきました。そこで中共軍が一気に強くなったというのです。その理由は一説には、満州国時代には人々の教育が充実しており、そこで中共軍が兵員を募集したところ、弾道計算ができる兵卒を獲得することができたからというのです。

元谷 面白い事例ですね。日本の場合、例えば江戸時代は武家社会を中心に、教育制度が整備されていたでしょう。

内藤 幕末には二百以上の藩があったのですが、藩校を作っていなかったのは二十藩ぐらいです。江戸時代の人々の識字率は六割以上で、大都会・江戸だと八割を超えていました。これを支えた初等教育は藩校だけではなく、全国に二万軒あったとされる寺子屋でした。この数は今の小学校の数よりも多いのです。だから、お上が高札を立てて御布令を出すことも可能だったし、貸本屋も繁盛していて、「東海道中膝栗毛」や「源氏物語」等を庶民が読んでいたのです。当時のロンドンやパリの識字率はずっと低かったですから、西欧人がこの様子を見て驚くのも無理はないでしょう。

元谷 階級制度が厳しかったヨーロッパでは、教育を受ける場も限られていたでしょう。

内藤 その通りです。また日本は金・銀の産地であり、江戸時代から世界的に経済力がある国だったのです。江戸時代初期の一七〇〇年頃の世界各国のGDPを比較したOECDの調査があるのですが、中国、インドに続き、日本は世界三位になっています。幕末に軍艦を整備できたのもこの経済力があったからです。

元谷 軍事力、教養、さらにそれらを支える経済力があったから、今の日本があるということですね。

内藤 はい。このように日本はグローバリズムに対抗して国益主義を守ってきたのですが、戦国時代や幕末だけではなく今の時代でも、いろいろ形を変えて日本を脅かす勢力があの手この手でやってきていると思います。

元谷 昔の日本は力によって国を守ってきたのですが、今の日本で怖いのは、力による国の防衛を否定する人がいることです。しかし「武装するから戦争が起こる」というのは間違いで、軍事力を持つことが戦争を抑止して、防ぐことになるのです。戦国時代の日本がそうだったように、軍事力が強い国を攻めようという国はありません。これに従い、日本は更に軍事力を充実させていく必要があると思います。最後にいつも、「若い人に一言」をお聞きしています。今の若者へのメッセージをお願いします。

内藤 私から見ると、最近の若い人はなんとなく元気がありません。その原因の一つは、正しい歴史を知らないからだと思うのです。戦国時代から江戸時代、明治時代、そして先の大戦の時代を、私達の先達は力強く頑張ってきました。しかし、学校で学ぶ歴史教科書にはその力強さは書かれていません。若い人に元気を取り戻してもらうためにも、そして海外に出て後ろ指を指されないためにも、力強い日本を教える必要があります。私はこの目的のために、海外の文献等、可能な限り中立的な文献を使って、日本の力強さを論証してみました。それを読んで、若い人にはぜひ元気になって欲しいですね。

元谷 内藤さんの論文全体が、若い人へのメッセージになっているということですね。今日はありがとうございました。

内藤 ありがとうございました。