近藤 建氏
昭和17年生まれ、昭和45年(株)ピコイを創業。日本拳法空手道「拳心館」館長(経営36年、空手60年)。不規不屈で戦い続ける武道家経営者。人生の指針「己に誇れ、己に恥じよ」、尊敬する経営者「本田宗一郎、出光佐三、西岡喬」、座右の書「葉隠」、尊敬する経営者・人生の師「中村功先生」。
自分の生き方を決めた
元谷 今日ビッグトークへの登場、ありがとうございます。近藤さんには、もう長く勝兵塾に毎回出席してもらっています。まずどういう方なのか、自己紹介をお願いできますでしょうか。
近藤 はい。私は一九四二(昭和十七)年に、兵庫県尼崎市で生まれました。父は教員で、すぐに同じ兵庫県の赤穂市に転勤になり、その後兵庫県相生市にまた転勤になりました。
元谷 私は一九四三(昭和十八)年生まれですから、一歳違いですね。
近藤 はい。そして一九五一(昭和二十六)年に、父の故郷である新潟に帰りました。当時は日本中が食糧不足でひもじい時代でしたが、皆がそうでしたから特に不満はなく、お盆と正月に食べられるご馳走を楽しみにしていました。中学一年生の時に父の書棚にあった『葉隠』を読んで、「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という一節に非常に感動しました。俺は男で男は武士だ。いざという時には死を惜しまずに生きてやろうと心に決めたのです。この頃から喧嘩に目覚め、勝ったり負けたりとずっと喧嘩をしていました。そして新潟商業高校に入学し、レスリング部に所属しました。この高校のレスリング部は、日本一にもなったことのある名門だったのです。ところが、高校一年生の時に街で三人のチンピラに出会い、カツアゲされました。一対一の喧嘩なら負ける気はしなかったのですが、相手が三人ではどうやって戦えばいいのかがわからず、屈服して詫びを入れて、さらに金も取られたのです。『葉隠』の教えとは異なり死ぬ気で戦うことなく、実は臆病者であると自分を認識させられて、非常に悔しい思いをしました。二度とこんな思いはしたくない。レスリング以外で何人もの相手と戦える武術を身に付けたいと考えて、当時新潟市には一軒しかなかった空手道場に入門することにしました。最初に道場の先生と面接した時、入門理由として「体を鍛えるため」を挙げたのですが、先生は「嘘を付くな、喧嘩に負けて悔しいからだろう」と言うのです。空手の達人は人の心の中もわかるのかと、とても驚きました。
元谷 武道を極めると、人の心も読めるようになるのですね。
近藤 そうかもしれません。一九五八(昭和三十三)年十一月に入門した私は、昼はレスリング、夜は空手という毎日になりました。運動神経には自信があったつもりなのに、実際に空手の稽古を始めると、他の門弟と同じようにできないのです。これで自分が不器用だと気が付きました。しかし不器用な人間でも、勝つための道がある。人の三倍稽古をすれば、器用な人にも勝てるはずだと考えたのです。他の門弟は月~金に稽古で土日が休み、時間も一八時~二一時だったのですが、私は土日も含む毎日、二三時まで稽古をしていました。すると入門の翌年の昇段試験では、一年の経験しかないのに一級を獲得、先生から「お前は強くなる」と言われました。これで私は、空手道場を作って、若い人に空手を教えながら生きるのだと決心したのです。そこで将来空手で生きていきたいので、高校を卒業したら本部道場で修行させて欲しいと先生にお願いし、それが叶うことになりました。
元谷 近藤さんが学ばれた空手とは、どんな流派だったのでしょうか。
近藤 山田辰雄先生が始められた日本拳法空手道という流派で、本部道場は東京の市ヶ谷にありました。今はマイナーな流派ですが当時は実戦空手として、大山倍達先生の極真会館、森良之祐先生の日本拳法と並び立つ存在でした。同じ実戦と言ってもそれぞれ特徴があり、極真会館は素手で打ち合いますが顔面は打ちません。日本拳法は面と胴をつけて、思いっきり打ち合うのですが、ローキックは反則となります。当時九五%の空手道場が寸止めと型の空手を教えていたのですが、そんな状況に三人が「謀反」を起こした状態でした。ただこの三人の先生同士は、とても仲が良かったですね。私は一九六一(昭和三十六)年に上京、山田辰雄先生の内弟子として先生の家に住み込みで修行することになりました。道場の目の前にある法政大学にも入学して、授業の合間に空手の稽古という毎日になりました。
元谷 大学には空手部はなかったのでしょうか。
近藤 ありましたが、既存の「寸止めと型」の空手をやっていました。なので、大学二年生の時に大学にも申請して法政大学空手競技同好会を作り、キャプテンとして活動を開始、毎年新歓の時期にはキャンパスで演舞を行っていました。ところが大学二年生の終わり頃、空手部から部室に来いと呼び出しを受けたのです。仲間の同行の申し出を「一人で来いと言われたので」と断り部室に行くと、狭いスペースに空手部員がずらりと並んでいて、一番奥に主将が座っていました。その主将が「法政に空手は一つでいい。同好会の名前から空手を外せ」というのです。こちらは大学の許可を得ているといっても、聞きません。仕方がないので、「わかりました。ここで勝負をして、そちらが勝てば名前を外します。何人でもいいのでかかってきてください」と構えたのです。すると誰も動かないし、何も言わない。私はじゃあ、失礼しますとそのまま帰ってきました。それ以降、全く文句を言ってこなくなりましたね。
元谷 近藤さんの気迫が勝ったということですね。
「一歩撤退は全面崩壊」
近藤 気迫といえば、会長の気迫にはいつも感心しています。特に印象に残っているのは、二〇一七年にアパホテルの客室に置いてある会長の著書が、南京大虐殺を否定しているとして中国政府から名指しで批判された時の対応です。会長は言論の多様性を尊重する立場を示した上で、著書の記述に誤りがあるのなら根拠を示した上で具体的に指摘して欲しい、改める部分があれば改めると、堂々たる正論で回答していました。普通の商売人であれば、目先の売上を考えて、すぐに本を撤去していたでしょう。普段から筋を通す覚悟ができている会長だから、すぐにご判断できたのだと思います。私もそういう覚悟で生きているつもりですが、いざそのような局面に直面したらどうなるか、わからないですね。
元谷 実際に、あの事件から中国では「アパホテル」ではネット検索ができなくなり、中国本土からの予約は一切無くなりました。しかしその分、日本からの多くのお客様の支援を受けて、しばらくは毎月過去最高売上を続けることができました。私は中学生の時に父を亡くし、長男でしたから兄もおらず、後ろ盾のない中で戦うということを子供の頃から実践してきました。その経験から学んだ第一のことは、「一歩引けば全てが崩壊する」局面があるということです。書籍事件では中国の批判に怯むことなく、逆に根拠を示せと反論したら、その後一切何も言ってこなくなりました。近藤さんの空手部への対応と同じですよ。
近藤 子供の頃からその気迫で生きてこられたのですね。
元谷 中学一年生ぐらいの頃でしょうか、家の周辺で自転車預り業をして稼いでいました。近くに大きな競技場があり、何かイベントがあると多くの人が集まるのですが、正規の駐輪場がないのです。そこで家の周囲の道路を縄で囲ってスペースを作り、その中で一台十五円で自転車を預かったのです。二百台預かったこともあり、それだけで三千円です。当時の会社員の平均月給と同じぐらいの収入を、一日で得ることができました。ところがこの道路での商売に対して、ヤクザが因縁をつけてきたのです。ヤクザには、博打で儲ける人と権利を主張してみかじめ料を取る人と二種類います。道で商売するのは露天商の権利だから、勝手にやってはいけないというのです。しかし当時既に父は結核で入院しており、私は一家の主として責任を持って生計を立てなければならないと考えていました。ここで引いては、せっかくの収入源が絶たれてしまいます。私はヤクザに、皆の便利のためにやっていることで、誰にも迷惑をかけていないから、商売するのは勝手だろうと言い返したのです。この時もう、一歩撤退は全面崩壊だと感じていたのでしょうね。カタギに反論されるとは思っていなかったのか、私の気迫が伝わったのか、それとも簡単には金にならないと思ったのか、ヤクザはそのまま帰っていき、その後は因縁をつけられることも無くなりました。
近藤 中学一年生で、よくヤクザと対峙できましたね。
元谷 年齢の割には結構体が大きく、年上と喧嘩しても負けていませんでしたから。中学校でも弓道五段の国文の先生が武道自慢で、講堂で遊びで生徒を投げていて、人だかりができていることがありました。見に行った私に先生が、「勝負しよう」と言うのです。私が得意の首投げで先生を投げたところ、運悪く先生は腕を骨折したということがありました。後で慰謝料を払えと言ってきたのですが、そちらが勝負しようと誘ったのだろうと取り合いませんでした。人生、舐められると骨の髄までしゃぶられます。私はこれまで一度も舐められることなく人生を送ってきたのですが、それによって日本最大のホテルグループを構築することができました。企業を経営していると、いろいろなことがあります。しかしトップが弱いと下が困る。社員を守るためにも、トップが戦う必要があるのです。とにかく初戦に勝つことが一番大事ですね。あとは自分の得意の武器を持つことでしょうか。
近藤 本当に会長のお話は勉強になります。私の武器は覚悟でしょうか。会長の覚悟は文章だけではなく、面構えや雰囲気からも感じます。勝兵塾に参加して会長に会い、握手をしていただくことで、常に人間を磨くことができています。
負債を抱えて和議申請へ
元谷 ところで近藤さんは大学の後、どのような道を辿ったのでしょうか。
近藤 一九六五(昭和四十)年に大学を卒業した後は四年間東京で会社員をして、その後新潟に帰って、希望通り一九七〇(昭和四十五)年に空手道場を開きました。その頃もう子供が二人いたのですが、なかなか弟子が入ってこなくて、家族を食わせるのも大変な状況でした。そこで資金なしでできる商売ということで、ねずみやゴキブリを駆除する消毒業を始めたのです。空手道場で一七時~二二時に稽古をつけて、それから消毒の仕事です。顧客は飲食店が多かったですから、深夜の作業が丁度良かった。社員はいなかったのですが、弟子をアルバイトで使っていました。その後、さらなる事業の拡張を目指して消毒業はきっぱりと止め、シロアリ退治に商売替えをすることで、事業を大きくすることができました。新築の家にもシロアリ予防が大事ということで、住宅メーカー等にも積極的に営業に回りました。一九七八(昭和五十三)年頃でしょうか、まだ信開産業という名称だったアパグループにもお伺いして、会長ともお話をさせていただきました。
元谷 弊社が宅地造成をしてその上に家を建てる建売の事業から、マンション事業に移行している頃ですね。
近藤 はい。また、その後しばらくしてアパグループはホテル事業も始めて、目標一万室を掲げるようになりました。夢みたいな目標だと思う一方、そんな会長をライバルだと思っていたのです。でもその後は全く異なりました。シロアリ退治の会社は、さらに建物の防水や断熱、防音等を手掛けるようになり、売上が百億円規模に成長しました。そこで一九九六(平成八)年に、東証に店頭公開したのです。私としては上場して五~六年で経営からは退き、空手道場に専念したいと考えていました。ところが私は社長業と言いながら、お客様開拓と社員教育はやっていたのですが、経理や財務は専務に全て任せ、代表印も預けていて、その経営方法を自慢していたのです。ところが専務がお人好しで、いろいろな会社の融通手形の裏書を行っていました。上場企業が行えば、手形の信用が上がりますから。結果何十億もの信用保証を行っていて、保証していた企業の連鎖倒産によって、私の会社も致命的な負債を負いました。店頭公開後三年で和議を申請して、六年掛かりでリストラその他の手段で五十億円の債務を完済し、私は経営から完全に身を引きました。会社は今でも営業を続けていて、三代目の社長が経営していますが、売上は五十億円程度になっています。
元谷 私は、代表印を誰かに預けるということはないですね。全ての決済を自分でやっていました。企業の経営には財務が非常に重要です。私は信用金庫にいましたから、財務にも明るいのです。私の経験では、他人を救済するために手形を買い取る等金銭的な援助をすると、金は返ってこないし、その人との関係も途切れると全くいいことがない。だから絶対にやりません。仕事を発注する等、別の手立てで支援するようにしています。
近藤 そのやり方が真っ当だと思います。私の場合にも全て自分の責任ですので、人に文句を言わず、ボヤかず、粛々と処理を進めました。私は株式の店頭公開を行ったのですが、アパグループは上場していません。会長は過去に、何度も上場を勧められたのではないでしょうか。
元谷 はい。しかし全て断ってきました。アパグループでは全株を家族で分けています。だから相続税対策も不要です。株式会社の場合、株主が何らかの主張を行うことで、経営の一貫性を保つことが難しくなる場合があります。だからアパグループでは、他社や銀行にも一切株を渡していません。全て自己責任が原則の経営を行ってきたのです。
近藤 原則を貫いてきたのですね。
悲劇を日本人に広く伝える
元谷 会社から離れた後、近藤さんは主に何をしてきたのでしょうか。
近藤 まず、武士道を経営者に伝える武心教育経営塾を始めました。さらに今力を入れているのは、二〇一八(平成三十)年に始めたシベリア抑留解明の会です。活動内容の第一は、シベリア抑留の全面解明です。大東亜戦争直後に実行されたソ連による理不尽な日本人の強制連行ですが、連れて行かれた人の数も亡くなった人の数もはっきりしていません。国際法上の捕虜でもないのに連れて行かれたのです。日本政府は連行された人の数を五十七万五千人としていますが、ロシア側の資料では六十三万五千人、七十万人としている資料もあります。この数を究明することも大事ですし、シベリア抑留という悲劇を日本人に伝えていくことも重要な活動だと考えています。また、同じく理不尽なソ連による北方四島強奪と、北朝鮮による日本人拉致を合わせ三大拉致とし、これらの解決を目指す活動をおこなっています。北朝鮮拉致問題の救う会のブルーバッジと、シベリア抑留解明の会のホワイトバッジを一体化して、ツインバッジとして作成しました。このバッヂを多くの日本人の胸に付けて貰うべくやっています。今更そんな運動をしてどうなるのだという声も聞かれますが、三大拉致は多くの日本人の関心を引き付け続けなければならない事件です。活動を開始してからの五年九カ月で、仲間もかなり増えてきました。会長に田母神俊雄閣下、副会長に一色正春氏、諸橋茂一氏になっていただきました。
元谷 勝兵塾でも、近藤さんとこの会への賛同者がかなり生まれてきたと思います。
近藤 勝兵塾は司会進行も講師の皆さんの講義も、そして参加者からのコメントも全て素晴らしく、いつも大変勉強になっています。
元谷 勝兵塾の良いところは、主張を述べるだけではなく、その後の質疑応答で意見交換を行うことができ、それによって強い連帯感が生まれることです。逆にあまりにも非常識な主張をする人には、私が退席を求めることもあります。一度先の大戦中に日本軍は中国で食料等物資を現地調達するために、略奪を繰り返したと主張する人がいて、私は規律正しい日本軍がそのような略奪をするはずがなく、現地調達にあたっても軍票を使用したはずだと反論しました。それでもあくまでも自説に拘るので、やむなく退席を願ったことがあります。
近藤 そんなこともあったのですか。会長がそのような姿勢で臨んでいるからこそ、勝兵塾が充実した学びの場となっているのでしょう。私にとって会長は、昔は商売の売り込み先、その次は事業のライバル、そして今は人生の師匠になっていただいています。会長は世間の評価に関わらず、理屈や損得抜きで自分の信じた道を歩く人です。特にコロナの陽性者の宿泊療養のためにアパホテルを提供したことは、大変な英断でした。
元谷 あれは安倍首相から直接携帯に電話が掛かってきたのです。私と私の家族が全株保有する会社ですから、役員会にかけることもなく、私がその場で受け入れを即決しました。するとすぐ翌日には、記者会見で安倍首相が宿泊療養のために、ホテルを一万室確保したと表明していました。私は政治家として、安倍晋三氏を高く評価していました。首相として三回目の登板もあると信じていたので、あの暗殺事件は非常に残念です。私は政治家に対して献金をしたことがないのですが、勝兵塾や本誌Apple Town等で、思想的連帯を持って行動をしています。日本人の誇りを取り戻すことに共鳴する政治家なら、大いに言論で支援するつもりです。
近藤 素晴らしいことです。また会長のもう一つの業績は、「真の近現代史観」懸賞論文等で「近現代史」という概念を広めたことです。私の若い頃は日本の近現代史に触れることも少なく、これを学ぶ機会もなかった。しかし近現代史を知ると、日本が愛するに足る素晴らしい国だとわかってくるのです。数多くの経営者の中でも、会長ほど国を愛することを企業活動の中で示している方はいません。
元谷 ありがとうございます。最後にいつも「若い人に一言」をお聞きしています。
近藤 若い人には是非近現代史を学んでほしい。日本が西欧列強の植民地にならなかったのは、武士道精神があったからです。戦前は悪い国で戦後は良い国になったという誤った歴史観を捨てて、日本ほど素晴らしい国はないということを再認識して欲しいですね。
元谷 正しい歴史観、国家観、世界観を持つべきで、そのような教育をしなければ。今日は本当にいい話をありがとうございました。
近藤 ありがとうございました。