「民族抹殺」に他ならない
日本政策研究センターが発行している月刊情報誌「明日への選択」に、岡田幹彦氏の「アメリカから見た大東亜戦争―『敵』を知らなかった日本」という記事が連載されている。「米軍人の語る『公正な第二次大戦史』四」という副題のついた、令和五年十月号の記事を読んでみた。小見出しは「『無条件降伏方式』という過ち」だ。「正当な道理に耐えうる戦争目的とこれによって立つ適切な戦略を打ち立てる指導者として最も重要な能力を欠如するルーズベルトとチャーチルが一九四三年一月、カサブランカ(フランス領モロッコ)会談において世界に宣言したことが、日独伊に対する無条件降伏要求であった。これがいかに取り返しのつかない最悪の過ちであったかにつき、ウェデマイヤーは痛論してやまない」「『連合国側が無条件降伏を要求したため、ドイツ国民のうち戦争にあまり気乗りのしていなかった多数の反ヒトラー派の人々は、最後まで徹底的に抗戦を継続する以外に方法がないことになった』」「ウェデマイヤーはカサブランカ会談の直前、陸軍参謀本部において無条件降伏の問題が持ち出された時、意見を求められてこう述べた」「『無条件降伏はドイツ国民を最後の一兵まで戦わせることになるのはまちがいないであろう。我々の要求は逆にドイツ国民を結束させるに過ぎないだろう』」「この時、同席したディーン統合幕僚会議事務局長はウェデマイヤーの意見に与してこう語った」「『枢軸側(日独伊)に対する無条件降伏の要求は戦争の終結を遅らせ、ソ連の勢力を増大して、長期間にわたり悲惨な結果を招くことを無視しようとするものである』」「ウェデマイヤーはさらにこう述べている」「『イギリスの戦史家フェラー少将は、「英米は民族抹殺を強調した無条件降伏を主張したことにより、この大戦における聖戦の大義名分を失った」ことを認めている。こうして米英は自縄自縛に陥って、スターリンに政治的主導権を与えた』」「米英の枢軸国に対する無条件降伏要求は『民族抹殺』にほかならないから、米英は『聖戦の大義名分』を失ったとするフェラーの意見を、ウェデマイヤーが是としたのは当然であろう。かくしてドイツに無条件降伏を求めたことが戦争を長びかせてこの欧州の強国を完全に抹殺したことが、スターリンのソ連にヨーロッパの覇権を容認したとウェデマイヤーは非難してやまないのである」「またアメリカがこの無条件降伏を日本に要求して断行したことが、日本全土への無差別爆撃」であり、「無警告の広島・長崎への原爆投下」だった。「アメリカがその人種偏見の下に、日本民族の地上からの根絶・絶滅を強く願望したこと」は、西洋列強による白人キリスト教徒の世界支配継続のためだった。つまり大東亜戦争が何だったのかと問われれば、人種平等の世界の実現のためのものだったと私は答える。
大東亜共栄圏構想に
欧米列強による植民地化の脅威に対抗するために、日本は明治維新によって急速な近代化と国力の増強を図ることになる。この「欧米列強の脅威」に晒されていたのは他のアジア諸国も同様であり、なんとか植民地化の危機を免れた日本の他は、東南アジアや中国、インド等が欧米による占領・分割統治を受けていた。明治時代の日本に生まれた「アジア主義」は、同様の境遇にあるアジア諸国が手を取り合って欧米に対抗しようとするものだった。自国の安全保障のため、朝鮮半島と満州での勢力を確保したかった日本は日清戦争(一八九四年)、日露戦争(一九〇四年)を起こし、その両方に勝利する。特に白人国であるロシアを打ち負かした日露戦争の結果は、アジア諸国に勇気を与えた一方、欧米は黄色人種の国・日本がアジアのリーダーとなって彼らと対抗することに、多大なる脅威を覚えるようになり、これが後々にまで尾を引くことになる。
有色人種として蔑視を受ける側だった日本が、それを是とする国際的な状況を打破しようと第一次世界大戦後のパリ講和会議(一九一九年)で提案したのが、人種的差別の撤廃だ。外務省の外交史料Q&Aに、この件についての詳細が掲載されている。「第一次世界大戦後のドイツとの講和条約を議定するために開催されたパリ講和会議に、日本は西園寺公望、牧野伸顕、珍田捨巳らを全権とする代表を送りましたが、彼らは、南洋旧ドイツ領委任統治問題や山東問題と並んで、人種的偏見問題についても対処するようにとの訓令を受けていました。議場では、イギリスなどの消極的な姿勢を前に少しずつ妥協しながらも、牧野が『人種的、宗教的な憎しみが紛争や戦争の源泉となってきた』と主張するなど、日本全権団は人種差別の撤廃に向けて粘り強く交渉を続けました」「一九一九年四月一一日に開催された国際連盟最終委員会において、牧野は国際連盟規約の前文に『各国の平等及びその国民に対する公正待遇の原則を是認し』との文言を盛り込むよう提案し、出席者一六名中一一名の賛成を得ました。しかし、議長であるウィルソン米大統領は、このような重要事項の決定には全会一致を要するとして、日本の提案を退けました。こうして日本の人種差別撤廃に関する提案は、最終委員会での牧野の陳述と日本の提案に対する賛否の数が議事録に残されただけの結果」となった。欧米諸国に忖度したアメリカ主導のこの否決は多くの有色人種の失望を招き、アメリカでは黒人の暴動にまで発展した。
「アジア主義」が明確な日本の外交方針となるのは、一九四〇年八月に松岡洋右外務大臣が初めて「大東亜共栄圏」という言葉を用い、これを確立する外交構想を打ち出したことによる。八月二日付の東京朝日新聞夕刊の「大東亜共栄圏確立」「同調友邦と提携」という見出しの記事で松岡は、「外交方針としては」「先ず日満支をその一環とする大東亜共栄圏の確立を図る」「同調する友邦との提携」「不退転の勇猛心を以て、天より課せられたる我が民族の理想と使命の達成を期すべきもの」と訴えた。その趣旨はアジア諸国に対して欧米のような搾取を行うのではなく、彼らを帝国主義国から開放し、共存共栄の関係を結んでいこうというものだった。この理想を掲げ、日本は一九四一年、大東亜戦争に突入していったのだ。
日本初の国際首脳会議
この理想が具体化したのが、一九四三年十一月五日、六日に東京で開催された大東亜会議だ。この会議の様子については、名越二荒之助編『世界から見た大東亜戦争』(展転社)の「三 大戦のハイライト・大東亜会議」に詳しい。「この会議は我が国が主催し、我が国で開催した初めての国際首脳会議であったばかりか、アジアの国がアジアのために、アジアの地で開いた初めての国際会議でもありました。いわば『昭和十八年のアジア・サミット』とも言うべき首脳会議だったのです」「この時まで、アジア人が一堂に会し、その結束を固め、共通の諸問題を検討し得る機会はありませんでした。なぜなら、古い歴史を有する国で独立していたのは日本とタイのみで、フィリピンはアメリカの、ビルマやインドはイギリスの植民地とされ、独立を奪われていたからです」。この会議には日本、中華民国、タイ、満州、フィリピン、ビルマの首脳に加え、インドからチャンドラ・ボースも参加、「共存共栄」「独立親和」「文化昂揚」「経済発展」「世界進運貢献」の五原則からなる「大東亜共同宣言」を採択した。東京裁判史観の論者からは「傀儡政権の代表を集めた茶番劇」とされるこの大東亜会議だが、当時十二歳だった作家の深田祐介は、この時実際にタイ代表に会った記憶から、出席した首脳達がおよそ傀儡のイメージとは異なる「出色の人物」だったとその著書に記している。
この『世界から見た大東亜戦争』ではこの先の大戦をこう評価する。「確かに我々は戦争に敗れ、大東亜共栄圏は志半ばで崩壊しました。しかしながら、私達の祖父達がアジアの同士達とともに切り拓いた独立と自立の道は、もはや閉ざされることがありませんでした。戦争をきっかけとして、アジアからアフリカに至る植民地は開放され、数多くの独立国が誕生したのです」「一九五五年(昭和三〇年)、インドネシアのバンドンで第二次大東亜会議ともいうべき『アジア・アフリカ会議』が開かれたとき、その参加国は二十九カ国にも増えていました。一九六〇年(昭和三五年)には、アフリカ諸国の多数が独立して国連に加盟したことを背景として、国連総会において『植民地解放宣言』が出されるまでになったのです」「大東亜共存共栄をめざした大東亜共栄圏はまず、アセアン(ASEAN、東南アジア諸国連合)という形で一部が復活しました」「マレーシアのマハティール首相が提唱した『東アジア経済圏(EAEC)構想』に至っては、大東亜共栄圏構想そのものです」「会議参加国はじめ近隣のアジア諸国は、政治的にも経済的にも世界を陽性に動かす力をもちつつある地域として、着実に成長し発展しています。父祖達そしてアジアの同士達が播いた種子は、確実に育っているのです」。
英米ではなく日本だった
大東亜戦争の意義を積極的に認めているのは日本人だけではない。イギリス人のヘンリー・S・ストークス氏が書いた『大東亜戦争は日本が勝った』(ハート出版)を見てみる。「大東亜戦争は、日本が勝った。これは、厳粛な世界史の事実である。プロイセンの将軍だったカール・フォン・クラウゼヴィッツは、ナポレオン戦争終結後の一八一八年から一八三○年にかけて『戦争論』を執筆した。クラウゼヴィッツは当時、陸軍大学校の校長だった。『戦争論』では、戦争の勝者を、『戦争目的を達成した者』としている。チャーチルでも、誰でも、日本軍と戦った列強の指導者や将軍たちは、そんなことはわかっていた。日本軍と戦った側の、戦争目的は、アジアの植民地支配を維持することだった。しかし、結果的に、第二次世界大戦中から、アジアの植民地が独立をはじめ、気づけば、数百年続いた『欧米による植民地支配の時代』は、終焉してしまった。さて、戦争目的を、達成したのは、宗主国の欧米列強だったのか。それとも、日本だったのか。大東亜戦争は、第一に、自存自衛のための戦争だった。しかし、もうひとつ『東亜新秩序建設』という目的も、当初から示されてもいた。昭和十七年二月十六日の議会演説で、東條英機首相は、次のように述べている。『大東亜戦争の目標とするところは、大東亜の各国民族をして、各々其の所を得しめ、皇国を核心として道義に基づく共栄共存の新秩序を確立せんとするに在るのでありまして、米英諸国の東亜に対する態度とは、全く其の本質を異にするものであります』」「共産党などの左翼は、大東亜戦争は『侵略戦争』であったと言う。そうであろうか?史実を検証すると、そこには明らかに『アジア解放戦争』の側面が見て取れる。アメリカの侵略戦争や、大英帝国の植民地支配での戦争とは、明らかに違った姿を現じている。私は、大東亜戦争を日本がなぜ戦ったのか、その結果、何が世界に起こったのかは、世界文明史的な俯瞰をもってしてはじめて、明らかになるものだと、そう思い始めた」と明快に綴っている。
戦後七十八年が経過して、大東亜戦争に関しては新たな史実も多数発掘されてきており、それらは旧来から私達日本人が信じてきた「先の大戦」に対する評価を覆してきた。アメリカ政府の有色人種に対する偏見やヨーロッパ戦線参加のための謀略も明らかになり、もはや一方的に日本が始めた戦争という見方はできない。改めて今、「大東亜戦争」という本来の名称の下、あの戦争の意義を本格的に見直すべきではないだろうか。
2023年10月23日(月) 18時00分校了