Big Talk

軍事力と経済力の充実で日本を自立した大人の国にVol.388[2023年11月号]

日本維新の会 代表 馬場伸幸
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アパグループ会長 元谷外志雄

二〇二二年の参院選、二〇二三年の統一地方選挙で目標をクリア、次の衆院選で野党第一党の座の奪取を目指す日本維新の会代表の馬場伸幸氏。元は実業家志望だったはずが思わぬ縁で政治家になった馬場氏に、政治家としての根っこや日本維新の会の目指すもの、改憲への思いなどをお聞きしました。

馬場 伸幸氏
1965年大阪府堺市生まれ。1983年大阪府立鳳高校を卒業、株式会社オージーロイヤルに入社。1986年中山太郎参議院議員(当時)の秘書となり約8年勤め、1993年堺市議会議員補欠選挙で初当選。以降市議会議員6回、衆議院議員4回連続当選。2010年大阪維新の会の結成に参加し、2011年副代表、2015年おおさか維新の会幹事長などを歴任し、2022年日本維新の会代表に就任。

将来実業家になるための
社会勉強をと議員秘書に

元谷 今日はビッグトークへの登場、ありがとうございます。馬場さんには、勝兵塾でもよく話をしてもらっています。まずは自己紹介をお願いできますでしょうか。

馬場 今日はお招きいただきありがとうございます。私は一九六五年に大阪府堺市で生まれました。女、男、男の三人兄弟の末っ子で、親の言うことを聞かない、わがままでやんちゃな性格でしたね。地元の小中高と進学をしたのですが、高校時代はラグビーに夢中になって、勉強はあまりしませんでした。しかし高校は進学校でしたから、大学受験は「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」と十二学部を受験しました。受験料を支払った親には「大丈夫?」と言われたのですが、案の定全部不合格でえらい叱られました。浪人をして来年は大学へと言われたのですが、体育系の友人と予備校を受験したら、私だけがまた不合格になりました。

元谷 大学から予備校まで全て失敗したのですね。

馬場 はい。そこで今考えると若気の至りですが、私は一年浪人しても大した大学に行けなければ、ストレートで大学に進学した連中とこの先どんどん差が開いていくと思ったのです。そうであれば、早く社会に出ようと。実家は料理屋で親戚に飲食系が多かったこともあって、私も飲食関係で実業家になろうと思ったのです。まずは現場で技術を身に付けたいと就職情報誌を調べたら、「自分の実力を発揮できる職場がある」という見出しで、ファミリーレストランを運営している会社の募集広告が出ていたのです。本社は福岡なのですが、全国各地で地元企業とJVを組んで店舗を展開していて、大阪では大阪ガスと組んでいました。この会社に興味を覚えて応募、合格して働くことができました。三年ほど勤めたのですが、調理師の免許も取得させてもらって、非常にいい会社でしたね。

元谷 勤めて三年だと、まだ若かったでしょう。どうして辞めたのですか。

馬場 自分で事業を行うには、さらに社会勉強が必要だと思ったからです。親にそのことを相談していたら、地元選出の国会議員、中山太郎先生が秘書を探しているという話があり、社会勉強になるならと思い切って秘書になったのです。

元谷 私は甥の中山泰秀さんと親交があります。

馬場 泰秀さんは、その時はまだ議員秘書をしていなかったと思います。二十一歳で議員秘書になって、大阪の事務所に四年いました。最初は事務所の掃除や中山先生の奥様の運転手、葬儀への代理出席等から始まって、徐々に大人の皆様から社会的な常識を教えていただきました。一九八九年八月に海部俊樹先生が首相になり、中山先生が外務大臣に任命されました。その二、三日前に先生から電話があり、「これから忙しくなりそうだから、馬場くん、東京に手伝いに来てくれ!」と言うのです。「いつからですか?」と聞くと「明日から」という返事。私は着のみ着のままで、翌日上京したのです。

元谷 急に決まった人事だったのですね。

馬場 はい。その直後から世界が大きく動き出しました。その年にベルリンの壁が崩壊し、東側諸国に変革の波が急速に訪れ、翌一九九〇年には東西ドイツが統一、さらにこの年、湾岸戦争も勃発しました。そして一九九一年には、ソ連が決定的に崩壊したのです。そんな中、中山先生は外務大臣として世界中を駆け回りました。私はほとんど同行することなく、政務担当として東京の事務所で様々な業務を行っていました。生の政治について、この時代にかなり多くのことを学びましたね。地元で四年、東京で四年と私は二十八歳になっていました。ただ自分が政治家になることには興味がなく、ただ激動期でしたから先生の横で見ていて、政治は面白いなと思うことはありました。中山先生とお話していると、何のために秘書をやっているのかと聞かれることがあったのですが、いつも「三十歳になったら先生の元をお暇して、自分で商売を始めます」と言っていました。

JR鳳駅前の再開発の実現で
政治の役割の可能性を実感

元谷 そんな馬場さんが、どうして政治家の道を歩むことになったのでしょうか。

馬場 きっかけは、二十八歳になった私に中山先生が「今度堺市議会議員の補欠選挙があるから、君が出ろ」と言ったことです。私は「実業家になると何度も言いましたよね」と抵抗したのですが、先生は「君しかおらん」の一点張り。親からのアドバイスで親戚にも相談したのですが、親戚は「なんで俺がお前のために、人様に頭下げなあかんねん!」と皆大反対でした。最後は母親が「仕えた先生がそこまで言うてはんねんから、出てみ」と背中を押してくれて、一九九三年の堺市議会議員選挙に出馬したのです。「二十八歳、若い力」をスローガンに選挙戦を戦ったのですが、最後まで実業家へのひっかかりが残っていました。結果は見事当選です。支援者に集まっていただき万歳三唱をしたら、それまでの政治家になりたくないという気持ちが吹っ飛んで、スイッチが入ったのです。当選のお礼の挨拶で「政治家の世界に皆様のお力で入れていただいた以上、トップである首相を目指して頑張ります」と言ったところ、皆さんから「それは無理やろ」と総ツッコミが入りました(笑)。

元谷 私も小学校の時に、将来の目標は世界連邦の大統領と書いたことがあります。大きな思いを持つことは大切です。実際馬場さんは、野党第一党を狙える政党の党首という、日本の政治に非常に影響力のあるところまで上ってきたのですから。

馬場 いや、まだまだです。

元谷 最初に市議会議員に当選した時には、自民党だったのですね。

馬場 はい、そうです。六回当選した市議会議員時代はほとんど自民党だったのですが、二〇一〇年に離党して大阪維新の会の結成に参加、二〇一二年に市議会議員を辞職して、維新の会から衆議院議員選挙に出馬して、当選させていただきました。これを含め衆議院議員選挙には四回連続で当選しています。

元谷 市議会議員と衆議院議員合わせて十回の選挙で、負け知らずということですか。強いですね。ご自身では選挙が強い理由は何だとお考えですか。

馬場 若い頃は地域でお世話をしてくれる方々と一緒に、できるだけ多くの方と会うことを心掛けていました。自分では、人に支えていただく運命を持っていると思っています。二十八歳で初当選した時も、今から考えればただの子供でした。そんな子供から大人に変わりつつある人間を議会に送ってやろうという、地元の皆さんの熱意が最初のスタートだったのです。振り返れば、ずっと同じような皆さんの熱意でここまで歩んでこられたと感じています。

元谷 人々が支えたくなるような何かを、馬場さんが持っているのですね。日本は民主主義国で、最後は多数決で物事が決まりますから、支持する人が多いというのは非常に重要なことです。

馬場 もう一つ、私が政治家として根っこに持っていることが、この市議時代にありました。私の故郷である堺市の鳳というところにはJR鳳駅があるのですが、この駅は阪和線の基幹駅にもかかわらず、駅前が狭くて車を駐車することもできない状態で、駅前の再開発も全く進んでいませんでした。市議会議員に初当選した時に、私は駅前を利用しやすく変えると宣言したのです。すると支持者の皆さんは、「お前にできるんやったら、もっと早よ、できてる!」と私の言葉を全く信用しない。なにくそと思い、それまで尽力してきた方にお話を聞くことから活動を始め、十五年ほど掛かって再開発事業を実現、鳳駅前は路線バスが乗り入れできるまでに生まれ変わったのです。地域の皆さんが本気になり、役所の人間も本気になり、それらを政治家が真剣に繋げばできないことはないということを、身をもって学ばせていただきました。

政権維持に一番重要なのは
知恵ではなく一致団結だ

元谷 馬場さんが急速に勢力を伸ばしている日本維新の会の代表となって、一年が経ちました。私は二大政党が競い合って、政権交代をしながらよりよい社会を築くという形が、日本にとって一番健全だと考えているのですが、なかなかこれが実現しません。企業の場合は中長期計画等を立てて事業を推進するのですが、政権を狙う日本維新の会はこの先、どのように進むつもりでしょうか。

馬場 日本維新の会は昨年三月に、今会長が仰ったような「中期経営計画」を発表しています。政党として「経営」と名の付く計画を立案したのは、日本維新の会が初めてだと思います。党の究極の目標は、政権政党となって日本の大改革を行うことです。そこに至るまでの三つのステップを考えました。まず短期目標の第一ステップは、昨年七月の参議院議員選挙で改選数の六議席を倍増することでしたが、見事目標の十二議席を達成しました。併せて比例得票数を野党で一番にして頂く目標もクリアしました。第二ステップは、今年春の統一地方選挙で地方議員数を四百名から六百名以上にすることでした。これも目標を大幅に上回る七百七十四名が当選して、達成することができました。中期目標の第三ステップは、次の衆議院議員選挙で野党第一党となることです。

元谷 中期計画を立案して、着実に目標をクリアしているのですね。やはり中期目標は、野党第一党ですか。

馬場 はい。国会では野党第一党と自民党が日程やルールなど、国会運営を話し合って決める慣例があります。私達が野党第一党になれば、予算委員会でのスキャンダルの追求等、単なる足の引っ張りあいや審議妨害、強行採決も止めて、国家国民のための議論を国民の皆さんが見ている前で行う国会運営へと変えていきたいと思います。そうしてわかりやすい議論を積み重ねることで、一度日本維新の会に国政を任せて良いのではという機運を醸成する。この戦略で、日本を二大政党制にしたいと考えています。

元谷 明確な目標とそこに至る手段を打ち出し、様々な機会で挑戦して結果を出すというスタンスは、素晴らしいと思います。あと政党ですから、それぞれの党が自由に主張をしてもいいのですが、あまりにもバラバラだと政権は獲れず、政策も実行できません。野党結集の軸となるような動きも、ぜひ日本維新の会には期待したいと思うのですが。

馬場 はい、その点も頑張りたいと思います。

元谷 前回政権交代があったのは、二〇〇九年の民主党政権でしたが、三年と短命で終わってしまいました。この民主党政権について、馬場さんはどのようにお考えでしょうか。

馬場 二〇〇八年のアメリカ大統領選挙で、バラク・オバマ大統領が誕生しています。彼のスローガンは「チェンジ」でしたが、この影響で世界中に変化を強く求める機運が広がった結果、日本でも民主党に一度政権を預ければ…ということになったと見ています。民主党にも優秀な議員は多数いらっしゃったのですが、やはり知恵とか知識だけでは政権は維持できない。一番大事なのは一致団結なのです。先程会長が仰った通り民主主義なので、党内のガバナンスとして、民主的に決めた事柄については全員が必ず従うようにしないと、めちゃめちゃになります。これが、民主党が政権を維持できなかった最大の理由ではないでしょうか。日本維新の会という政党のルールは、まず課題があった時には徹底的に議論をするのです。そして議論の末、多数決で決まった結果には全員絶対に従います。

元谷 政権を奪取するまではその目標に向かって一致団結できますが、取った後は各人が評価を求めたりして、結束を保つのが難しくなります。私も組織の維持には、これまでいろいろ腐心してきました。

馬場 もう一つ、政策的に民主党政権に問題があったのは、政権を取る時に国民に約束した政策を行わず、約束していないことを実行したことです。ずっと主張していた高速道路料金の無料化は行わず、やらないと言っていた消費税増税を最後に決めました。政権を取れば大抵のことが可能で、高速道路料金無料化も可能だったはずなのですが、なぜかやらなかった。この言行不一致が、国民に見放された理由の最大のものでしょう。

元谷 全く同感です。一回やらせてみようと政権交代が実現しても、その時にきちんと成果を出せないと、次はありませんから。

戦争を起こさないための
軍事力強化が求められる

馬場 日本維新の会は、将来の政権政党として外交にも力を入れようとしていて、私はこの七月にワシントンとニューヨーク、八月上旬には台湾に行ってきました。海外で様々な政府関係者や政治家と話をしてきたのですが、まだまだ日本は自立していない、大人の国になっていないという印象を持ちました。安全保障の面で自国を自分達の力で守れないだけではなく、経済面でもアメリカと中国の経済力に振り回されて、自立できていません。思えば、安倍晋三先生はそのことを強く意識されていて、日本を自立した大人の国にするために尽力されたのだと、今改めてその業績に感銘を受けています。

元谷 戦前には伊藤博文をはじめ、多くの首相、首相経験者が凶弾に倒れましたが、戦後にはそんなことは一件もなかった。なのに、安倍さんがあのような形で亡くなったことを、私は非常に残念に思っています。安倍さんがもっと長く首相を務めていれば、日本はもっと良くなったかもしれません。自立という面では馬場さんの言う通り、日本は独立自衛の国家とは言い難いのが現状です。日米安保があると言っても、ではアメリカが引き上げたらどうなるのか。まずは自分の国は自分で守り、そこで足らない力を同盟で補ってもらうというのが「筋」です。自ら戦わない国は、誰も応援しません。特に日本を取り巻く東アジアの安全保障環境は、緊迫感を増しています。日本も周辺国が迂闊な行動をとらないよう、戦争抑止力としての軍事力を強化する必要があるのです。どの国も自国の損害が多く得るものが少ないと考えれば、軍事行動は起こしません。相手国に損害を与えることができる強い軍事力を持つことが、戦争を抑止することになるのです。

馬場 仰る通りです。大東亜戦争が終わって七十八年、戦後の日本国憲法と安全保障の考え方は、日本がまた戦争に巻き込まれない、戦争を起こさないことに主眼が置かれてきました。しかし七十八年経って、当時の日本と今の日本は全く異なります。自分の国は自分で守る、アメリカはその応援団という基本的スタンスに立って、今の時代にあった安全保障体制への組み換えの必要が出てきています。日本国憲法も特に第九条は、今の時代に合わせて変える必要があります。国民主権を謳っているとされる日本国憲法が、一度も国民投票による審査を受けたことがないというのは、一種のブラックジョークでしょう。憲法改正は、できるだけ早急に行わなければならない政治テーマです。

元谷 改憲は必須でしょう。また非核三原則も撤廃すべきだと思います。核兵器を持っているか、持っていないかは、イスラエルのように曖昧戦略をとることが、抑止力を高めるのではないでしょうか。

馬場 非核三原則は法律でも条約でもなく、元は国会での首相の答弁として出され、その後に国会決議を経たものです。金科玉条とする必要はなく、それよりも日本をどう守るかに主眼を置くべきなのです。

元谷 これまで日本は経済力があったから、それなりの自立を守ることができました。しかし今の経済力において中国に負け、日米安保にすがりつく状態は、独立国家として非常に恥ずかしいことです。人類の歴史を考えても、戦いが絶えることはありません。そうである以上、負け組になって収奪され占領されることは二度とあってはならないのです。

馬場 その通りで、先の大戦での戦勝国と敗戦国のアンバランスさは、今でも続いています。

元谷 平和平和と口で言うだけでは駄目なのです。「戦わない」と宣言する国ほど、相手は襲いたくなるもの。戦争を防ぐためには、明確な抑止力となる独立自衛の国家としての軍事力が必要です。

馬場 安全保障の面で言えば、日本維新の会は自民党とあまり違いはありません。兵力増強、防衛費の増額にも賛成しています。どこが違うのか。自民党は新しい行政サービス等を始める時に、必ず増税や社会保険料の増額等国民の負担を求める安易な道を選ぶのです。私は岸田首相に、防衛力増強、防衛予算増加は大賛成だが、防衛費捻出のための増税は最後の手段にすべきだと明言しました。

元谷 全く同感です。自民党の中で安倍さんを越える政治家が出てくることを期待しているのですが、なかなかそのような力量の人がいませんね。私が自民党にも野党にも求めるのは、国益に沿う政治を行い、経済力と軍事力を高めていくことです。特に中国との比較では、かつては日本の方が何倍もの経済力を持っていたのに、今ではすっかり逆転してしまっています。

馬場 経済力と軍事力の強化は、両睨みで政治家が手掛けなければならない分野で、日本維新の会でも力を入れようとしています。また私はG20の議長国でBRICsの一員でもある、インドとの関係強化を最優先すべきだと考えています。人口が世界一となり、平均年齢が約二十八歳と非常に若いインドは、これからどんどん頭角を現していくでしょう。またこの国は、西側諸国と相対するロシアや中国とも太いパイプを持っています。日本もインド重視の姿勢を見せるべきだと思います。

元谷 そうですね。日本はアメリカだけではなく、多くの国と連携した国際協調体制で、今の東アジアの安全保障危機を乗り越えていくべきでしょう。

馬場 その通りです。アメリカであっても、中国と厳しく接しているようで、経済的には非常に親密な関係を維持しているのですから。

元谷 馬場さんのこれからの活躍に期待しています。最後にいつも「若い人に一言」をお聞きしています。

馬場 高度経済成長期には、新しい製品を手に入れたい物質的欲求と明日に期待が持てる精神的欲求の両方が満たされていました。しかし今は、モノへの欲求は充足されていますが、未来に夢が持てない。もっと皆がワクワクドキドキと暮らせるように、政治家が主導して社会を変えていく必要があると考えています。

元谷 そんな政策を期待しています。今日はありがとうございました。

馬場 ありがとうございました。