ピーター・アデルバイ氏
1959年パラオ共和国最大の都市、コロール生まれ。1983年、アメリカのグアム大学政治学部を卒業、グアムでの教員や新聞記者のキャリアを経てパラオ共和国の外交官となり、2002年公使参事官として日本に、2012年特命全権大使として台湾に赴任。その後建設会社社長やアイライ州議会議員を歴任し、2022年6月より現職。
福島の処理水放出にも賛成
元谷 本日はビッグトークにご登場いただき、ありがとうございます。三年前には前大使のフランシス・マリウル・マツタロウ氏とこのビッグトークで対談をさせていただきました。アデルバイさんは、いつ日本に赴任されたのでしょうか。
アデルバイ 今日はお招きいただき、ありがとうございます。私は二〇二一年八月に公使参事官として来日、二〇二二年六月七日に皇居で信任状の捧呈を行い、駐日特命全権大使となりました。
元谷 大使になられて、一年と一カ月ということですね。
アデルバイ はい、そうです。また、パラオ共和国はアメリカから独立した一九九四年に日本と国交を結んでいて、来年で三十周年を迎えます。
元谷 まずパラオという国について、基本的なことを教えていただけますでしょうか。
アデルバイ はい。パラオは日本から真っ直ぐ南に約三千二百km行った赤道近くにある、三百四十以上の島々からなる国です。これら島々の面積を全て足し合わせても、日本の屋久島と同じぐらいにしかなりません。人口は約二万人で首都はマルキョク、公用語はパラオ語と英語で、アメリカドルが通貨になります。
元谷 アメリカドルが通貨というのは、パラオの歴史に理由があるのですね。
アデルバイ パラオは十九世紀にスペインの植民地となり、その後ドイツの植民地となります。第一次世界大戦の時には、日英同盟に従って連合国となった日本がパラオを占領、一九二〇年に国際連盟が承認する日本の委任統治領となりました。第二次世界大戦の終了に伴ってアメリカに占領され、今度は国連の太平洋信託統治領としてアメリカの統治下にありました。住民投票の結果、一九八一年に憲法を制定し、一九九四年にアメリカとの自由連合盟約(コンパクト)に合意して、独立を果たしたのです。
元谷 三十一年間日本の委任統治領だったということで、日本とは非常に関わりの深い国になります。国旗も日本と似ているような気がするのですが。
アデルバイ パラオの国旗は明るい青地に黄色の円が描かれていて、確かに日本の国旗と似ていますが、独自の意味があります。この円は月を意味するのです。パラオ人は海洋民族で自然との繋がりを大事にしていますが、特に大切にしているのが、潮の満ち引きに影響する月の動きです。かつての主力産業は漁業で、月の形で潮の満ち引きを、さらにはサンゴ礁のどの辺に魚が集まっているかを読んで、漁に出ました。昔は冷蔵庫がなく獲った魚を貯蔵しておくことはできなかったので、お祭り等どうしても魚が必要な時には、この潮を読む技術が大変重宝されました。パラオの人々が大切な時だけ食べるウミガメも、月に伴う潮の満ち引きに従って繁殖を行っています。パラオでは家を建てる時に樹木を伐採するタイミングも、さらにその木を運んだり、実際に建設したりする時期も、月の満ち欠けで決めるのです。そして新居に入るのは、新月か満月の時と決まっています。パラオは人間と環境との調和を、月を目安に維持してきました。月は太陽を照り返して光りますが、パラオが月なら太陽は日本です。これが日本とパラオの理想的な関係だと考えています。私自身も二〇〇二年から二〇一二年に駐日大使館で勤務したこともあり、かなり長い時間を日本で過ごしてきています。
元谷 それでは日本を、いろいろと巡ってこられたのではないでしょうか。
アデルバイ はい、その通りです。例えば今年六月には、パラオのウィップス大統領が来日、私も随行して事故を起こした福島第一原発を訪れました。この夏に予定されているALPS処理水の放出について、多くの太平洋諸島諸国が反対をしていますが、パラオは日本の計画を支持しています。そして太平洋諸島諸国でも国家元首が事故現場まで訪れたのは、ウィップス大統領だけです。
元谷 海底トンネルを使って、少し沖に処理水を放出するのですね。
アデルバイ はい。その辺りの説明も全てお聞きしました。放射性物質について、トリチウム以外はALPS処理水から除去されており、トリチウムも規制基準値以下になっていますし、国際原子力機関(IAEA)も安全基準に合致していると発表しています。私達は科学を信頼しています。ウィップス大統領は福島を訪問した後、岸田首相と首脳会談を行い、夕食を共にしました。
元谷 素晴らしいスタンスだと思います。
しないことが
日本人観光客数に影響
アデルバイ 先日、ウィップス大統領が日本財団会長の笹川陽平さんと面会した際に同席したのですが、笹川さんは我々に、会長をパラオに招待した方がいいと仰っていました。私もその通りだと思っています。将来、アパホテルをパラオに建設することを検討する意味でも、ぜひお越しいただきたいと考えています。私の日本での最大のミッションは、会長をパラオにお招きして、歓待することなのです。
元谷 パラオは、二〇一九年十一月に一度訪れています。海がとてもきれいでした。パラオ国際空港のあるパラオ最大の島・バベルダオブ島から、橋で繋がっている商業の中心・コロール島へ渡り、さらに船で二番目に大きい島・ペリリュー島へ行きました。先の大戦中の一九四四年九月、この島で日本軍の守備隊とアメリカ軍の激戦が展開したことで知られている島です。守備隊長の中川州男大佐は島の民間人を事前に全員他の島に移していて、一人の犠牲も出しませんでした。島を徹底的に要塞化した中川大佐は、アメリカ軍が三日で攻略できると考えていたペリリュー島を、七十一日間に亘って守り、最後は多くの将兵を失い自決しました。この時の司令部や戦車等、多くの戦いの「遺跡」がまだ残っており、見学することができました。日本人には是非訪れて欲しい場所です。日本からパラオへの観光客がどんどん増えていけば、アパホテルが進出する可能性もあると思います。
アデルバイ パラオは今、観光が基幹産業となっていて、コロナ禍前は年間十万人程度の入り込みがありました。その内の三割から三割五分が日本人観光客で、その数は非常に安定していました。今会長が仰った第二次世界大戦の遺跡もありますし、太陽(sun)、海(sea)そして砂(sand)の三つのSで象徴されるような、ダイビングスポットやサンゴ礁で作られたラグーン、様々な美しい海洋生物等、見どころが沢山あります。しかしコロナ禍によって、多くの観光客を失いました。以前は日本航空と全日空がパラオと日本との間に定期チャーター便を運航、スカイマークも直行定期便を開始する予定でしたが、今は全て飛んでおらず便の再開も困難な状況で、日本からの観光客が激減しています。先日の会談でも、ウィップス大統領は岸田首相に、この状況の改善を手助けして欲しいとお願いしました。
元谷 確かに直行便がないと、日本からの観光客の増加はなかなか見込めませんね。
アデルバイ はい。また日本人観光客の減少には、航空便の問題に加え昨今の円安も影響しています。一方、中国からパラオに来たいという観光客のニーズは年々高まる一方です。ただ私達としては、やっぱり深い縁のある日本からの観光客に来て欲しいのです。コロナ禍後に新しく就航した航空便として、ニューギニア航空のブリスベン→ポートモレスビー→パラオという、オーストラリアとパラオをパプアニューギニア経由で結ぶ便があります。この便を利用して、パラオとニューギニアの両方を巡る旅行が提案できないかと考えています。
元谷 今現在、パラオに行くとしたら、どのようなルートが良いのでしょうか。
アデルバイ ユナイテッド航空がグアム経由便を毎日運航していますが、チャイナエアラインの台湾経由便が良いと思います。チャイナエアラインはパラオ・台北便を週二便、運航しています。便の時間の関係から、どうしても台北で一泊する必要がありますが、これが一番便利にパラオにいらっしゃれるルートだと思います。
元谷 パラオを訪れる季節としては、いつが良いのでしょうか。
アデルバイ パラオ全域が熱帯雨林気候で、年間平均気温が二十八℃、雨期が七月~十二月、乾期が一月~六月になります。一般的には乾季の方が良いですが、気候変動によって近年は雨季の最中でも晴れた日があるなど、状況が変わってきています。
元谷 良い季節に、もう一度訪れてみたいですね。
今でも日本語が残っている
アデルバイ 先程会長からペリリュー島のお話がありましたが、私は、ペリリュー島は過酷な戦いがあったことから、沖縄と似ていると思っています。実は日本統治時代のパラオには沖縄出身の方が一万三千人ほど暮していて、「比嘉」等沖縄系の名前が今でもパラオ人に残っているのです。現在のパラオ人の二五%以上が日本人の子孫になっていて、日本語もまだある程度使われています。パラオでも最初の男の子を「チョウナン」と言いますし、「エモンカケ」等も普通に使われています。またパラオの国技は野球になります。日本の委任統治時代、南洋庁に勤務していた日本人、コウノ・モトジさんがパラオ人に野球のルールや技術を伝えたと言われています。競技の名前も「ヤキュウ」ですし、もはや日本語となっている英語の野球用語も、同じように使われています。プレーに対して「ナイス」とか「ヘボ」とかも言うのですよ(笑)。
元谷 年配の方の中には、子供の頃に日本語教育を受けた方もいらっしゃるのでしょうね。
アデルバイ 私の両親は日本語教育を受けていたので日本語を話すことができ、カタカナを書くことができました。戦後パラオの統治を行ったアメリカよりも、日本の方が両親は好きでしたね。
元谷 そのような国から日本にいらっしゃって、最も感動した場所はどこになりますか。
アデルバイ やはり信任状を捧呈した皇居です。周囲に巨大なビルが立ち並ぶ中に、お堀に囲まれた慎ましやかな宮殿があることに、とても感銘を受けました。中に入るまでが複雑で、要塞のようになっているのにも驚きました。
元谷 外堀通りはその名の通り元々お堀だったのです。昔はもっと守りが硬かったのでしょうね。日本に来て出会った方で、最も印象深い人物はどなたでしょうか。
アデルバイ それはもちろん元谷会長です。ここまで大きなホテルチェーンを築いたことも素晴らしいですが、月刊Apple Townや著書での言論活動も、私には非常に勉強になっています。幕張のアパホテルは、是非一度宿泊してみたいホテルです。
元谷 アパホテル&リゾート〈東京ベイ幕張〉は、ホテル単体としては日本最高層の五十階建てのホテルです。購入時はセントラルタワーの一千一室だけだったのですが、その後イーストウイングとウェストウイングの二棟を増築し、今は二千七室の客室を誇るホテルになっています。またアパホテル&リゾート〈横浜ベイタワー〉は、二千三百十一室と日本最大級の客室数です。パートナーホテルを含むアパホテルネットワークは全国四十七都道府県に及び、客室数は十万室を突破しました。ただ営業効率を考えて、多くのホテルを東京に集中させています。私は全く徒手空拳で起業して、ここまで会社を成長させてきました。直営のホテルに関しては、基本全て所有しているのがアパホテルの強みです。マリオットやヒルトン等世界的なホテルグループは、所有はせずにブランドを貸しているだけで、運営もサードパーティーに依頼しているケースが多いのです。アパホテルは所有、運営、ブランドの全てを自社で賄っていますから、他のホテルチェーンの三倍の利益率を誇っています。
アデルバイ 私はずっと外交畑の人間だったので、政府関係者や経営者など数多くの人々とお会いする機会に恵まれてきました。
元谷 これだけの規模になりましたが家族経営で、全株式を家族で保有しています。今は長男がCEO、次男が専務、妻がホテル社長という体制です。とにかくここ数年は低金利時代でしたから、銀行は貸し倒れリスクを取ることができず、貸出先を限定してきました。こういう時代は優良貸出先であるアパグループには、非常に有利です。実際、借入を行う際には、より低い利息を提示した銀行から借りるようにしています。
アデルバイ そうした戦略も凄いと思います。
パラオと日本の絆
元谷 既にかなり日本全国に行かれているように思うのですが、これから行きたい場所はありますでしょうか。
アデルバイ まず長崎ですね。かつて訪れたことはあるのですが、滞在したのは非常に短時間でした。今度はじっくりと古い港町を探索してみたいと思っています。もう一つ行きたいのは、岩手県の山田町です。江戸時代の一八二〇年、ここで魚や大豆を積み込んで江戸へ向かっていた帆船・神社丸が途中遭難、操船不能となった船は流されて、当時はペラホと呼ばれていたパラオに漂着したのです。空腹になれば芋や魚を食べ、争いもなく平和に過ごすパラオの人々は神社丸の乗組員を助け、彼らは四年間一緒に暮しました。出港時は十二名だった乗組員は、パラオに辿り着くまでに二名、パラオ滞在時に二名が亡くなり、八名になっていました。丁度日本に向かう外国船に乗ることができ、パラオの人々と別れを惜しみながら、乗組員達は中国経由で長崎に向かいました。彼らは長崎から故郷の岩手に戻ったのですが、その途中、小倉で西田直養という学者に会い、遭難のこと、パラオのことを話したものが、記録に残っています。この二百年前の出来事が、パラオと日本の関係の始まりだと思います。
元谷 前大使のマツタロウさんにもその話はお聞きしました。日本ではあまり知られていない歴史です。
アデルバイ はい。それもあって、二〇二二年に在パラオ日本大使館が「神社丸物語」というアニメーションを制作、YouTubeで観ることができるようになっています。パラオの大統領官邸の近くには、神社丸のモニュメントもできています。この歴史があるので、私は一度山田町に行きたいと思っているのです。
元谷 それは一度、山田町を見ておきたくなりますね。
アデルバイ 以来二百年、日本とパラオは密接な関係を維持してきました。私が非常に感謝しているのは、最初の日本での勤務の最後の年である二〇一二年に、発電所火災で電力危機に陥っていたパラオに対して、日本政府が緊急無償資金協力の一環として、三菱重工製のディーゼルエンジン式の発電機四台を供与してくれたことです。今後も良い関係が継続するよう、両国が協力していければと考えています。
元谷 その通りですね。最後にいつも「若い人に一言」をお聞きしています。
アデルバイ パラオと日本の友好関係の維持に大切なのは、人と人との交流だと考えています。そのためにも、是非多くの若い人々にパラオを訪れて欲しい。日本の若い人をパラオに招待して、パラオの若者と一緒に過ごすことも行ってみたいと思っています。今世界は試練に満ちています。しかしそれでも世界は繋がっていて、友好関係こそが平和を促進するのです。パラオは英語で書くと“Palau”です。私達はこの最初のPはpeace(平和)、真ん中のlはlove(愛)、最後のuはuseful(有用)を示すと言っています。今後の予測のしにくい世界情勢の中、パラオは平和と愛の大切さを主張し続けていきます。
元谷 今日は素晴らしいお話をありがとうございました。
アデルバイ こちらこそ、ありがとうございました。