前原 誠司氏
1962年京都市生まれ。京都大学法学部を卒業後、1987年松下政経塾に第8期生として入塾。1991年京都府議会議員選挙で初当選。1993年衆議院議員総選挙で初当選、現在10期目。民主党では幹事長代理、代表等を歴任、2009年からの民主党政権では、国土交通大臣、外務大臣等を歴任。野に下った後の2017年民進党代表に就任、現在国民民主党代表代行。
国会議員を目指すように
元谷 今日はビッグトークへのご登場、ありがとうございます。前から一度お誘いしようと思っていたのですがなかなか機会がなく、ようやく実現しました。二〇一〇年に私がチュニジアを訪問した時、そこで前原さんをお見かけしたことがあるのです。
前原 お招きいただき、ありがとうございます。チュニジアへは外務大臣として、日本・アジア経済フォーラム出席のために行ったのです。その時会長も、いらっしゃっていたのですね。
元谷 はい。その直後にアラブの春が始まって、ベン・アリ大統領が失脚、チュニジアはしばらく混乱したのですが。前原さんについては多くの方がよくご存知だと思うのですが、一応自己紹介からお願いできますでしょうか。
前原 はい。生まれは京都市内の左京区で、比叡山の麓になります。両親は共に鳥取県出身で、父が境港市、母が日南町の生まれでした。父は立命館大学を卒業して、そのまま京都の家庭裁判所に就職、母とお見合いで結婚して、姉と私が生まれたのです。しかし私が中学二年生の時に父が急逝、それ以降は母が一人で姉と私を育ててくれました。
元谷 中学二年生で父を失ったというのは、私と全く同じですね。
前原 そうですか。ただ私は全く苦労がなく、学校にもそのまま登校し、好きな野球も高校三年生までやっていました。さらに受験を失敗して浪人までしたのです。大学は授業料免除で返済が必要な奨学金で卒業しましたが、予備校費用は母が支払いました。本当に母には感謝しています。
元谷 二度目の挑戦で、京都大学法学部に合格するのですね。
前原 はい。浪人時代は駿台予備校京都校に通っていたのですが、現実逃避のために近くの本屋によく出入りしていました。受験とは関係ない本を…と手に取ったのが、国際政治学者の高坂正堯先生が書かれた『国政政治‐恐怖と希望』(中公新書)という本でした。この本で書かれていることで今も感銘を受けているのは、昭和十四(一九三九)年に約八カ月だけ政権を担当した平沼騏一郎首相のことです。ノモンハン事件で日本とソ連が軍事衝突している真っ最中に、日本との同盟を協議している段階だったドイツがソ連と不可侵条約を結んだことに対して、平沼内閣は「欧州の天地は複雑怪奇」という声明と共に総辞職したのです。そしてこれに対して高坂先生が、国際政治は各国が国益に基づいて行動するので、複雑怪奇は驚くにあたらないとこの本の中で述べていて、そこにとても感銘を受けました。この先生に学びたいと思い調べたら、高坂先生は一年目に私が不合格だった京都大学法学部の先生だったのです。これで二度目の受験勉強に拍車が掛かり、無事に合格しました。専門課程は三回生からなのですが、二回生の時から高坂先生の授業に潜り込み、理解できないながらも講義を聞いて、授業後も数人の学生と一緒に残って質問をしていました。先生も非常に丁寧に教えてくれましたね。ゼミも当然高坂先生のところへ。進路を決める際、大学院に行ってさらに先生の指導を…とも考えたのですが、先生から前原君は大学院に行く程頭は良くないし、勉強もしていない。興味を持っている政治家には向いているようだから、自分が理事をしている松下政経塾を受けてみたらと。推薦状を書いていただき、松下政経塾に第八期生として入塾することになったのです。
元谷 松下幸之助さんから直接指導を受けたりしたのでしょうか。
前原 私が入塾した時には幸之助さんはまだご存命でしたが、喉を痛めてらっしゃって、もうお話ができない状態でした。かつては百二十歳まで生きると仰っていたのですが、結局九十四歳で亡くなられました。お会いしたのはその一年前に、大阪の松下記念病院の最上階の病室に塾生皆でお見舞いに行った時だけです。幸之助さんが望んだのは「政治に経営感覚を」ということで、政治屋になるのではなく、国家経営、地域経営を行うつもりでやれというものでした。また、共産主義だけは止めて欲しいが、後は自由にやってくれという主義でしたね。それもあってか、松下政経塾には政治家の子息は入ってきません。私のように何も持っていないが、とにかく政治に情熱のある人間ばかりです。塾のカリキュラムというのは特になく、研修の内容は自分で考えるのです。どのタイミングで選挙に出馬するかも自分次第。松下政経塾というところは、そこに属したことによるネットワークの恩恵と、幸之助さんの意志と四年間の時間を与えてくれるところなのです。
元谷 報酬が出ると聞いていますが。
前原 研修資金として月々十二、三万円いただけますが、到底それだけでは生活できません。母には四年間で百万円ぐらい支援を受けました。本当に足を向けて眠れませんね。
元谷 塾生は皆一緒に政治家になろうと、連帯感が強いのではないでしょうか。
前原 何もないところから政治家になろうという志を持った人間が集まっていますから、確かに強い連帯感がありました。また先輩も政治家になり始めていて。高坂正堯ゼミと松下政経塾の両方の先輩としては、今自民党の参議院議員をされている山田宏さんがいらっしゃいます。私が塾生の時は東京都議会議員で、山田さんが二回目に出馬された時には、選挙区の杉並区に泊まり込んで、選挙のお手伝いをしました。良いところも悪いところも選挙の実態を見せてもらって、勉強になりました。
三十一歳で国政の舞台へ
元谷 そしていよいよ出馬ということになるのでしょうか。
前原 松下政経塾は最長でも五年間しか在籍できないのです。四年経った時に丁度統一地方選があり、二十八歳で地元の京都市左京区から京都府議会議員に立候補しました。
元谷 京都市というのは、共産党が伝統的に強い地域ではないでしょうか。
前原 その通りです。定数が五で、私が出る前の選挙では、一位と二位当選が共産党、後は自民党、公明党、社会党という顔ぶれでした。そこに私は保守系無所属で挑戦したのです。共産党が強く、さらに対抗馬に自民党の元職もいて、同じ保守系として私は自民党からいろいろと嫌がらせをされました。ただ競争の成果というのでしょうか、私は結局三位で当選したのですが、自民党が危機感を持って頑張ったことで、一位と二位が自民党、後は共産党、公明党という結果でした。
元谷 前原さんは保守政治家なのですから、自民党から出たいと思うことはなかったのでしょうか。
前原 この最初の選挙で自民党が私を徹底的に排除しようとしたこともあって、私は自民党に代わり得る保守を模索するようになったのです。その時に細川護熙氏の日本新党が結党され、まだ私は京都府議会議員の一期目の途中だったのですが、細川さんに国政に出ないかと誘われて、三十一歳で中選挙区の京都一区から衆議院議員総選挙に出馬したのです。私がというよりは日本新党ブームの風に乗って、定数五のところ、二位当選を果たすことができました。一位はやはり共産党でした。
元谷 それは凄いですね。中選挙区制の末期の選挙でしょうか。
前原 中選挙区最後の選挙でした。国際政治への興味から政治家を志したのですから、当然いつかは国政という思いは強かったのですが、予想以上に早くチャンスが巡ってきましたね。
元谷 選挙資金はどのように工面したのでしょうか。
前原 よく選挙には地盤・看板・鞄(資金)が必要と言われますが、私は全部無い段階から出馬しました。府議会議員選挙の時には、手持ち資金が十万円しかなかったのです。一番資金の面でお世話になったのが、ワコールの創業者で松下政経塾の理事、当時は京都商工会議所の会頭もされていた塚本幸一さんでした。東京の松下政経塾を出て、京都に戻ってご挨拶に行ったのは塚本さんと京セラの稲盛和夫さん、裏千家の千玄室さんでした。中でも積極的に動いていただいたのが塚本さんで、いろいろな方にお声掛けしていただくと同時に、ご自身からもポケットマネーを出していただきました。
元谷 それは前原さんの政治的な主義・主張に共鳴されてということなのでしょうか。
前原 そうではないのです。まだ私は二十八歳の若造でしたから、塚本さん曰く、俺は松下幸之助さんに大変世話になった。幸之助さんの亡くなった息子も幸一という名前で、俺は幸之助さんの息子のつもりだ。だから松下政経塾を出ただけのどこの馬の骨かわからないお前だけど、面倒を見てやるというのです。随分支援していただいたのですが、結局それでも足りなくなって、もう一回塚本さんにお願いに行ったら、いい加減にしろと言われまして。どうしても足りないのなら、貸してやると仰るので、三百万円お借りしました。それでなんとか選挙を継続して、当選することができました。当選した翌日に塚本さんに真っ先にお礼も兼ねてご報告に行ったのですが、すぐに三菱銀行出町支店の口座番号を渡されて、これから議員としての給料が出るだろうから、貸した三百万円、月々三十万円を十カ月で返せと仰るのです。その通りに返済をして、終わった時にお礼にと、七万円のセーターを買ってお持ちしました。着ていただけるかどうかはわからなかったのですが、その後ばったりお会いした時にそのセーターをお召しになっていて。涙が出るほど嬉しかったですね。
元谷 いい人との出会いにも、恵まれていたのですね。
前原 本当にそう思います。運が良いのですね。
元谷 実力があってこそ、運がついてくるのです。前原さんには実力があったということでしょう。
自国を自分で守る能力を
元谷 国会議員になった後、民主党政権時代もあって今に至るわけですが、日本を良くするためには、健全野党と与党が競い合う環境が必要です。今前原さんは、その一翼を担っていることになると思います。
前原 仰る通りです。民主党を作って政権交代にまで漕ぎ着けたのですが、経験不足もあってなかなか上手くいきませんでした。今、野党がばらばらなのには、私にも責任があります。もう一度なんとか強い野党を作って、自民党と競い合いたいと考えています。
元谷 前原さんは外交と安全保障が専門で、特に安全保障については、私と同じ考えだと思います。
前原 私の安全保障観の原点は、二〇〇三年にワシントンを訪れたことにあります。二〇〇一年のアメリカ同時多発テロの後、テロリストとの戦いを始めたアメリカは、二〇〇三年に明確な証拠がないまま、大量破壊兵器の開発を理由にイラク戦争を始めました。当時私は民主党の「次の内閣の防衛大臣」という立場だったのですが、ワシントンへ行って国務副長官のリチャード・アーミテージさんと話をしたのです。彼は日米関係を非常に大切にする人なのですが、それもあって私は証拠がないのにイラクへの攻撃を始めるのは反対だと率直に言いました。するとアーミテージさんは、北朝鮮が日本にミサイルを撃ってきたら、君が大臣ならどうするのかと聞いてきたのです。当時の日本はまだミサイル防衛(MD)システムが整備されていませんでしたから、飛んできたミサイルを撃ち落とすことすらできません。反撃能力もなく、それはアメリカにお願いするしかない。日本はできることをやり、その上で日米安保に基づいてアメリカに支援を要請すると、私は答えたのです。するとアーミテージさんは満足げに、そんな事態になったらアメリカは自国が攻撃を受けたと見做して、北朝鮮に対して適切な処置をとるから、安心しろと言うのです。彼が何を言いたかったか。日本単体では国を守れないから、アメリカに助けを求める。だったら、イラクのことで余計なことを言うなということなのです。この体験から、自分の国は自分で守れるようしなければならないと、強く思ったのです。
元谷 まず自らで戦う姿勢を見せないと。その上で、同盟国が応援を要請するべきなのです。自分で戦わずに支援のみを期待するのは無理です。
前原 全く同感です。民主党政権下の二〇一〇年、私が外務大臣になる直前に、中国の漁船が海上保安庁の巡視船に衝突するという事件がありました。中国人船長を逮捕したことで、日中関係の緊張感が高まりました。私は野党時代からワシントンを何度も訪問して人脈作りをしていたのですが、外務大臣になってすぐに、旧知の仲の国務次官補のカート・キャンベルさんに会ったのです。それまでアメリカ政府の閣僚レベルの方々は、尖閣諸島への攻撃があった場合、アメリカが関与することを一切明言していませんでした。私はキャンベルさんに、クリントン国務長官にこの点を言及してもらえないかと、中国への牽制の意味も含めてお願いしたのです。その結果、クリントン国務長官が閣僚レベルで初めて、尖閣諸島は日米安保第五条の対象だと言ってくれたのです。
元谷 それは素晴らしい業績だと思います。
前原 ただ尖閣諸島で紛争が起きた時に、本当にアメリカが軍を動かすかどうかはわかりません。アメリカは民主主義国家であり、大統領の考えや彼もしくは彼女に人気があるのか、議会の勢力図がどうなっているのかによって、動きが全く異なるでしょう。そこで思い起こすのは、高坂先生の「複雑怪奇」に対する評価です。当てにしていたアメリカが助けに来なくても、「複雑怪奇」で済ましてはいけない。あらゆることを想定して、日本がきちんと自国の領土を守ることができるようにしておかなければならないのです。
元谷 その通りですね。アメリカは大事なパートナーですが、そこに期待し過ぎるのは駄目だということです。
安全保障と外交の軸の維持
元谷 また、日本ではまだ戦力を持つことですら「悪」だと思う風潮があります。
前原 戦わないことが基本ですが、戦う能力はしっかりと保持していることが重要なのです。
元谷 戦争抑止力としての戦力保持ですね。
前原 その通りです。戦う能力を持つことは、抑止力を高めると同時に、外交における交渉力の源泉にもなるのです。
元谷 ただ、かつての民主党には、「戦力を悪」と考えていた人が多かったのではないでしょうか。
前原 民主党には左から右まで、いろいろな人がいましたから。今は立憲民主党と国民民主党では考えが異なり、国民民主党は安全保障では現実主義であり、今般の政府の防衛力強化の姿勢にも賛成という立場です。ただ非核三原則と専守防衛という理念は、引き続き維持するべきです。自国を守る能力を充実させて、足らざる部分は日米同盟でアメリカにお願いする。ただあくまで日米同盟は「従」であり、日本自身が「主」であるべきなのです。
元谷 国民民主党はそういうスタンスということですね。
前原 はい。そして政権交代は必要ですが、安全保障や外交の基本の軸はぶれてはいけないと、私は考えています。ここを野党もしっかりと持っていないと、国民の不安を掻き立てることになり、逆に政権交代が難しくなるのです。
元谷 そうです。私の言う健全野党とはその軸をきちんと保持し、日本を独立国家と考える政党のことです。そうした政党が勢力を拡大できるよう、そして政権交代ができるように育てていかなければならないと考えています。
前原 勢力拡大には選挙で勝つことが重要なのですが、何度も選挙戦を戦った結果、私は九六三の法則を見つけ出しました。まず自分の党の支持者の九割を固め、無党派層の六割を押さえる。そして自民党の支持者の三割を取れば、野党から出ても小選挙区で勝てるのです。自民党支持者の三割を取るためには、外交と安全保障政策はリアルな考えじゃないと無理です。
元谷 自民党支持者からも票を獲得する。政府・与党になんでも反対ではなく、そのように考える野党議員が増えると、健全野党が育っていくのではないでしょうか。
前原 Apple Town六月号のエッセイで、会長は海洋基本法について触れられていましたが、あの法律を議員立法で作ったメンバーの一人が私なのです。今も海洋基本法フォローアップチームの共同座長を務めています。高坂先生は著書「海洋国家日本の構想」の中で、海洋資源が今後重要となるので、日本はその調査に力を入れるべきだと説いています。それを現実とするために海洋基本法を作り、日本近海の調査を進めてきたのです。日本近海にはメタンハイドレートや海底熱水鉱床、コバルト等、様々な資源が眠っています。
元谷 問題は、海洋資源は採掘コストが嵩みすぎて、採算がとれないということでしょう。
前原 その通りです。メタンハイドレートは天然ガスがシャーベット状になったもので、日本近海には日本が使う天然ガス百年分の量があります。しかし今は輸入した方が安い。しかし、このメタンハイドレートを採掘する技術の開発は進めておいて、海外からの調達が困難になった時に備えておくことに意味があるのです。安全保障には軍備も大切ですが、海洋基本法にも書いたエネルギーと食料も安全保障の重要な要素です。二〇〇七年の海洋基本法立法時には夢物語だった洋上風力発電も、今は実現しようとしています。
元谷 自国のエネルギーを自国で賄える体制を築くことも、安全保障として非常に重要ですね。最後にいつも「若い人に一言」をお聞きしているのですが。
前原 若い人には無限の可能性があります。失敗を恐れず、何事にもチャレンジを。私は中一から高三まで数学の塾に通い、数学の本質を理解して得意科目にすることができ、それが受験の自信に繋がりました。自分に自信を持てるよう、得意なことを極めることが大事だと思います。
元谷 私も高校時代は「理数の元」と呼ばれて、理数科目が得意でした。だから、世の中は全て確率で考えるべきという主義なのです。確率で考えないと効率が悪い社会になる。国民民主党も確率に基づく政策を提案していって欲しいですね。今日はいろいろと良い話をありがとうございました。
前原 確率の話、これだけ事業に成功された方の言葉には強い説得力があります。今日はありがとうございました。