空本 誠喜氏
1964年3月11日広島県音戸町生まれ。1987年早稲田大学理工学部卒業、1989年東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程修了、1992年同専攻博士課程修了、博士(工学)を取得。1993年株式会社東芝に入社、エネルギー事業本部に配属。2009年3度目の挑戦となる衆議院議員総選挙にて、民主党公認で初当選。2021年日本維新の会より衆議院議員総選挙に出馬、2度目の当選を果たした。著書に『汚染水との闘い』(ちくま新書)、『二〇ミリシーベルト』(論創社)などがある。
衆議院議員に初当選
元谷 今日はビッグトークへの登場、ありがとうございます。空本さんはかなりユニークな経歴をお持ちということで、まずは自己紹介をお願いできますでしょうか。
空本 お招きいただき、ありがとうございます。私は瀬戸内海に浮かぶ倉橋島の生まれです。海軍兵学校があった江田島の隣にある島で、今は呉市に編入されていますが、昔は音戸町という町だったのです。本州とは音戸大橋、第二音戸大橋という二つの橋で繋がっていて、割と自由に行き来ができます。呉港のすぐ南にあり、人口が三万人を超えていた時代もあったのですが、今は一万五千人ほどが暮らしています。私は十八歳までこの島で暮らしていました。高校は呉市内まで通っていたのですが、その途中、戦艦大和を建造したかつての呉海軍工廠、その時は石川島播摩重工業(IHI)の造船所だったのですが、それを毎日眺めてバス通学していました。
元谷 巨大なドッグを毎日見ていたのですね。
空本 その隣には海上自衛隊の潜水艦基地があり、潜水艦や護衛艦も見ながら高校へ通学していました。
元谷 私は招待されて、自衛隊の潜水艦に体験搭乗したことがあります。海中で海軍カレーをご馳走になりました。ただ、潜水艦は中に入って潜航してしまうと外は何も見えませんから、期待したほど面白い体験ではありませんでした。
空本 私もいろいろ体験で自衛隊の航空機には乗っていますが、潜水艦はまだありません。
元谷 そして大学から東京に出たのですね。
空本 はい。早稲田大学から東京大学の大学院へ行き、一九九二年に博士号を取得して、一九九三年に東芝に入社、二〇〇一年まで原子力発電所を作っていました。
元谷 そんな人が選挙に出馬して国会議員に。選挙に出ようと思ったきっかけは、何だったのでしょうか。
空本 三歳とか四歳の時、親戚のおばあさんに将来はロケット博士になって、総理大臣になって、ノーベル賞を取ると言っていたのです。これが言霊として、自分自身の中にずっと残っていました。ただ高校時代にエネルギー分野に興味を惹かれて、ロケットではなく原子力分野に進んだのですが。
元谷 子供の頃は、大きな夢を描くものです。私は小学校六年生の時の卒業アルバムに、将来は世界連邦大統領になると書きました。一九五六年の日本が国連に加盟したタイミングだったのです。私は世界はいずれ、大きな一つの連邦国家になると思っていましたから、そう書いたのです。世界連邦ができず、私もその大統領にはなれませんでしたが、アパグループのトップにはなれました。思わないことは実現できません。大きな望みを持って、トライすることが大事だと思います。空本さんの場合は、「末は博士か大臣か」を素直に自分で言葉に出して、目指してきたのですね。
空本 はい。小さい頃の言霊通りに、まず博士号を取得しました。次は政治家です。三十五歳ぐらいを目処に、国政に行けるなら行きたいと考えるようになりました。一九九八年、小沢一郎先生の自由党が候補者の一般募集を行い、それに合格したのです。それからしばらくは東芝で働きながら、選挙を手伝うようになりました。尾崎行雄記念財団の咢堂塾にも入塾し、いろいろと研鑽も積みました。二〇〇三年の民由合併で民主党と自由党が合併、その民主党から総選挙に広島四区で初出馬をすることになったのです。それから合計で七回国政選挙を戦ってきました。二〇〇三年、二〇〇五年の選挙では自民党の中川秀直先生に二回とも負けて、比例にもかからず落選でした。二〇〇九年の政権交代選挙では、小選挙区で中川秀直先生に五千票差で勝利して、初当選したのです。
元谷 選挙七回というのは、鍛えられるでしょう。
空本 非常につらいこともあるのですが、やりがいはあります。
元谷 演説が快感になったりしませんか。
空本 慣れてくると、演説前にわくわくしてきますね。
元谷 演説の時には、どのようなことを話していたのでしょうか。
空本 教育も年金・医療・介護についても、お伝えしたいことはいっぱいあったのですが、やはり広島ということもあり、核兵器廃絶を強く訴えていました。私の親戚には原爆で直接亡くなった人も、被爆者としてその後も生き長らえた人もいますから。祖母は爆心地から離れた倉橋島にいたために、原爆の直接の影響は受けませんでした。ただ投下直後に、広島市内にいた甥を探しに行き、散々探したあげく被爆して重傷を負った甥を見つけたそうです。ただすぐに亡くなったそうですが。行方不明のままの人も沢山出ましたし、生き残った人も酷い火傷だったと聞きました。
バックアップ機関を組織
元谷 核兵器を投下されて被害が出たのは、世界で日本だけです。その被害の甚大さを知っている日本人が、世界中のどこででも核兵器が使われないことを願うのは、当然のことでしょう。広島、長崎での原爆から水爆へと破壊力は進化し、一度使われたならそれは全世界に拡大、人類は滅亡に導かれることになります。何としても原爆、水爆を使用しない国際社会を形成する必要があります。
空本 全く同感です。また原子力に携わっている人間には、意外と広島出身者が多いのです。人類に大きな被害をもたらす原爆と、原子力の平和利用というのはコインの裏表です。広島出身の人間は、原爆が使われないようにするために、原子力の平和利用を追求しようと思うのでしょう。核兵器は使わずに安全保障もしっかり、そして原子力の平和利用でエネルギー対策もしっかりというのが、私の目指す方向なのです。
元谷 そのスタンスは良く理解できます。本来は安全保障理事会の常任理事国だけが保有するはずだった核兵器を、今やその他の多くの国々が保有する状況になっています。これを使わせないようにするのが、政治家の最大の責務です。
空本 はい、その通りです。世界で唯一の戦争被爆国である日本が世界をリードして、核兵器廃絶に向けたロードマップを描くようにしていくべきなのです。衆議院の予算委員会でも、私は何度も岸田首相にその趣旨の質問をしてきました。核兵器を人類は、一度は持ってしまった。今後これを手放すことはなかなかできないことです。核兵器を無力化するには、同様に原子核からどうエネルギーを取り出すかを追求してきた原子力の平和利用を、しっかりと進めていくしかないとも思っています。
元谷 今後、原子力は、核分裂から核融合へと向かっていくのでしょうか。
空本 それが正に私が大学で研究してきたことでした。大学院でずっと原子力工学の研究をやっていて、原子力の核分裂も核融合の研究もしていたのです。加速器によって、水素の同位体元素であるトリチウム(三重水素)とデューテリウム(重水素)を衝突させて核融合反応を起こしていました。
元谷 核分裂や核融合すると、エネルギーが出て質量が減るのでは。E=mc2という質量とエネルギーの等価性の公式によると、そうなります。小学生だった時に学校の図書館に「素晴らしい原子力」という本があり、何度も読み返しました。それ以来、核の平和利用の可能性を信じているのです。核分裂から核融合まで、いかに安全にコントロールしてエネルギーを取り出すかがポイントだと思います。
空本 会長はいろいろなことをよくご存知ですね。核の平和利用については、今の岸田政権も原発の小型化や安全な新型化を進めることを表明しています。これから日本の原子力利用は、増えていくと思います。
元谷 福島第一原発事故の際に、放射線被曝線量年間二〇ミリシーベルトが基準となり、避難地域が設定されました。私はこれが厳しかったのではという印象があるのですが。
空本 それは私の専門の話であり、実際に福島第一原発事故の時に私も国会議員として、対応に尽力していました。地震が発生した三月十一日というのは奇しくも私の誕生日なのですが、十五日に官邸に呼ばれて行ったのです。菅直人首相をはじめ、官房長官、官房副長官、総理補佐官や原子力安全委員会委員長の班目春樹氏が詰めていましたが、首相官邸も原子力安全委員会も機能していない状態でした。日立製作所の原子力部門出身の大畠章宏先生が当時の国土交通大臣で、この事態を憂慮、何らかの助言機関を作って官邸や原子力安全委員会をバックアップしないと大変なことになると、私に相談を持ちかけたのです。私は東大名誉教授で内閣府の原子力委員長だった近藤駿介先生にお声を掛けたり、東大教授の小佐古敏荘先生に内閣官房参与になっていただいたりで集まっていただき、さらに細野豪志総理補佐官や福山哲郎官房副長官も加わって、東京からの避難も含めた最悪のシナリオを三月十六日から検討したのです。一番危険だったのは、四号機の使用済み燃料プールでした。他号機の使用済み燃料プールも同様でしたが、これらのプールからもし水が抜けて無くなっていたら、露出した燃料が空だきになって燃料が溶融すると、そこから猛烈な放射能を含んだ放射性物質が大気中に放出される可能性があったのです。偶然の産物もあって、この最悪の事態は免れましたが。この検討グループの成果は、三月二十五日に近藤氏から菅首相に「福島第一原子力発電所の不測事態シナリオの素描」というタイトルで報告されました。
元谷 そういう対応もしていたのですね。
空本 官邸や東電本店だけに詰めていると、視野が狭くなっていくのです。一旦そこを離れて、全体を俯瞰的に見る必要があった。この最悪シナリオは、その任は果たしたと思います。現在福島第一原発の付近のかつての「警戒区域」や「計画的避難区域」は、「帰還困難区域」も依然として残っていますが帰ることのできる区域が徐々に増えてきています。そして年間二〇ミリシーベルトの基準ですが、この設定もなかなか難しいものでした。年間二〇ミリシーベルトの数字で最も問題となったのは、学校の校舎・校庭等の利用の目安の放射線量の件でした。国は計画的避難区域と同様、年間二〇ミリシーベルトを基準にしようと考えたのですが、私たちが大きく反対して、結局自然放射線のレベルに合わせて、年間一ミリシーベルトを目指すことになりました。どの場所であっても、やはり緊急時であっても、子ども達にとって年間二〇ミリシーベルトの基準は高すぎると思います。年間五ミリシーベルトぐらいが妥当でしょうか。それでも将来的には年間一ミリシーベルトを目指すべきなのです。
事故処理の大きな進歩
元谷 ただ世界には自然放射線が強い場所もあり、そんな場所でも人間は普通に暮らしていると聞きます。むしろ自然放射線が強いと、健康的で長生きという話もあるぐらいです。
空本 低線量の放射線ホルミシスという考えですね。あらゆるレベルの放射線が人間に悪影響を与えるわけではありませんし、人間は皆、放射線を出しているのです。
元谷 放射線というのは単に危険というものではなく、共存という考え方もあるものでしょう。安全のための基準値の考え方もいろいろだと思います。
空本 国際的な放射線の基準はあります。ただ三・一一の際には、本来明確に変えるべき緊急時の基準と平時の基準の区別が曖昧だったという反省があります。
元谷 しかしやはり私は、民主党政権の基準は厳しすぎたという思いがあるのです。かなりの地域を無人化してしまったような…。
空本 森林の放射能はなかなか取れないですね。放射線量が下がるには、やはり五十年以上は掛かる見込みです。この五月に出版される『Z世代と原子力博士の野望‥めざせ、ユニコーン企業 めざせ、核兵器廃絶』(論創社)という二十代の田中将真氏との共著で、将来の夢が放射能除去装置を開発して、ノーベル賞を取ることだったことを書きました。「宇宙戦艦ヤマト」に登場する「コスモクリーナー」を作ってみたかったのです。
元谷 福島第一原発の事故で、放射線によって亡くなった人はいたのでしょうか。
空本 原発事故で直接放射線が原因で亡くなった方はいません。ただ事故直後に原発で作業をしていて、その後、白血病などが見つかり労災認定された方がおられます。二〇一八年に肺がんで亡くなった男性についても労災が認定されています。またガス状の放射性プルームを吸い込むことで、ヨウ素一三一という放射性物質が甲状腺に溜まって、子ども達を中心に甲状腺の機能障害などの何らか影響があった可能性があります。
元谷 誰もが経験したことのない事態になったのですから、その対応は大変困難だったと思います。そんな中でも、岸田政権が多核種除去設備(ALPS)処理水の海洋放出を決定したのは、進歩ではないでしょうか。
空本 確かにそうです。世界中の原発でも、希釈すれば環境に影響のないトリチウム入りの処理水は、普通に海洋に放出しているのです。ただトリチウムは、質量は異なりますが化学的性質は水素と同じですので、ALPSでも取り除くことができないのです。
元谷 ただ海洋放出に伴う、主に漁業者への賠償は必要になりますね。
空本 海洋放出に対して限るものではありませんが、賠償については、二〇二二年度補正予算で五百億円の基金も創設されています。それよりも科学的に影響が少ないことを、国民にきちんと広報することが重要ではないでしょうか。また実際の放出も、自然環境に本当に影響がないように、丁寧に行うべきだと考えています。
政策や法律が必要だ
元谷 原子炉自体の現状は、どうなっているのでしょうか。
空本 福島第一原発の事故は、地震による外部電源喪失が起こり、津波によって非常用電源の発電機も止まり、原子炉を冷却する電源が失われたものです。原子炉の中の炉心が融解して、メルトダウンやメルトスルーを起こしました。核燃料とコンクリートが溶けて固まったデブリが原子炉の底にあるのですが、これが固くて取れずにして、困っているのです。
元谷 取るのを断念して、そのまま塞いでしまうという手はないのでしょうか。
空本 石棺で覆うということですね。かつてはそのような提案も行われましたが…。
元谷 多大な費用を掛けてデブリを取り除くより、石棺にして付近一帯を立ち入り禁止にする方が、合理的だと思います。こういう言い方は酷かもしれませんが、思わぬ場所で事故があったというわけではなく、原発を作った段階でこういった状況は、ある程度覚悟すべきだったのでしょう。
空本 そうかもしれません。ただ今付近の立入禁止区域である「帰還困難区域」はどんどん少なくなり、生活圏が戻ってきています。ただ住民がもう長く別の場所で生活していることが、帰還を難しくしている側面もあります。
元谷 一旦離れて別の場所で生活基盤を築くと、戻りにくくなりますね。日本は広島・長崎に原爆を投下され、福島で原発事故がありました。原子力について神経質になるのも、無理はないのかもしれません。
空本 その感覚が風評被害を招く可能性もあります。そこは丁寧に取り除いていかないと。例えばかつては全量全袋検査をしていた福島県の米は、日本で一番安全です。
元谷 そうやって風評の連鎖を断ち切っているのですね。
空本 はい、そうです。私が政治家として今、テーマにしているのは、食料とエネルギー、そして半導体の安全保障です。これらをどう支えていくか。思えば二〇一二年にエルピーダメモリが経営破綻した時が、日本の半導体業界再編のチャンスだったのです。半導体はファブレスと呼ばれる設計のみを行う会社と、工場を持ち製造を行う企業(ファウンドリー)の分業を行うべきでした。今や世界最大級の半導体メーカーとなった台湾のTSMCは、ファウンドリーとして世界各国のファブレスの製造を請け負うことで技術力を蓄積、世界有数の半導体メーカーとなったのです。エルピーダメモリに関しても、例えば東芝が買収して業界をファブレスとファウンドリーに再編していれば、現状は全く異なったでしょう。昨年、国内八社の支援を受けて新しい半導体メーカー・ラピダスが誕生、世界でも最先端の二ナノの量子半導体を製造するファウンドリー事業を立ち上げる予定です。日本はやはり最先端技術で世界に立ち向かっていくべきなのです。
元谷 その通りだと思います。
空本 かつてはリチウムイオン電池もソーラーパネルも日本がナンバーワンだったのですが、韓国や中国にやられています。
元谷 人件費の安いところに工場が流れていったからでしょう。
空本 そうして製造部門を手放したことで、半導体では台湾のTSMCの台頭を招いてしまったのです。ラピダスも工場を北海道千歳市に建設することを発表していますが、これからは国内生産で最先端技術の高付加価値な商品を、世界に送り出していく必要があると思います。
元谷 また日本人技術者が、高額の報酬で海外に引き抜かれていくという話もよく聞きます。
空本 経済安全保障の一環として、人材育成や人材確保、技術が容易に移転できないようにする特許の確保も重要で、法律を整備したり新たな政策を立案したりする必要があるでしょう。
元谷 今後の日本の生きる道は、技術立国と観光立国しかないと思います。最後にいつも「若い人に一言」をお聞きしています。
空本 『Z世代と原子力博士の野望』にも書いたのですが、私は有言実行タイプで、言霊が自分の夢を加速させると信じています。若い人もまず自分の思いをしっかりと持って、それを言霊にして、どんどん実現していって欲しいですね。
元谷 また勝兵塾で、その新刊本の内容について講演をお願いします。今日はありがとうございました。
空本 ありがとうございました。