日本を語るワインの会238

ワイン238恒例「日本を語るワインの会」が会長邸で行われました。小樽商科大学で修士号、北海道大学で博士号を取得した駐日ウズベキスタン共和国大使館特命全権大使のムクシンクジャ・アブドゥラフモノフ氏、農業大学校卒業後農業高校の教員だった衆議院議員の池畑浩太朗氏、名古屋で大学院生活を送った駐日ウズベキスタン共和国大使館領事のハサノフ・アスカラリ氏、東京大学農学部出身で自然環境問題と国防をライフワークにするジャーナリストの葛城奈海氏をお迎えし、発展を続けるウズベキスタンの近況や日本の教育問題などについて、語り合いました。
政府の振興策で高まる
ウズベキスタンの観光熱
 ウズベキスタンはどんどん変化している。かつては魚を食べる人は少なかったが、ここ五〜六年で川魚を中心に魚類の消費がどんどん増えていて、魚の養殖事業を始める人も増加した。その理由は牛や羊を育てる畜産農家が減少して肉の輸入が必要になっていることと、肉に偏った食生活は肥満と高血圧の原因となるために、政府が魚を食べることを奨励しているからだ。
 インフラの整備も進んでいる。これまでも四つ星ホテルが四つあったが、最近初の五つ星ホテルがオープンした。二〇一五年に開業したタシケント・サマルカンド高速鉄道はスペイン製の車両を使用していて、観光で有名なサマルカンドまで快適な列車の旅が可能になった。航空機の運航路線網も充実してきており、これまで一旦タシケントを経由しなければ行けなかった地方空港同士の路線も就航が相次いでいる。タシケントの住民でサマルカンドに行ったことのない人が大勢いたが、交通網の充実を背景に国が休みを長くしたり、観光旅行の費用のキャシュバックを行う等の観光奨励政策を実行中。徐々にウズベキスタン国民の観光熱が高まってきている。タシケント〜成田間の直行便も三月十四日に復活。最初は週一便だが、夏に向けて増便が予定されている。ウズベキスタン経験者の多くが美味しかったと言うのは、ザクロジュース。ウズベキスタンの主食は基本パンだが、お祝いの時などは「プロフ」と呼ばれる日本のピラフのようなお米の料理が食べられる。
 ウズベキスタンは中央アジアの国々の人口の約半分(約三千五百万人)を占める大国で、軍隊もこの地域で最強だ。兵役があり、男性は十八歳〜二十八歳の間に最低二カ月、最長で一年、軍隊に行かなければならない。ただ兵役を済ませると、大学に入るのが楽になるなどの特典がある。
 日本とウズベキスタンの交流は長い。先の大戦後、ソ連によるシベリア抑留で日本人二万五千人がウズベキスタンに移送された。マイナス四十五度にもなるシベリアとは異なり、ウズベキスタンの気候は暖かく、人々も親切なので日本人抑留者はとても喜んだ。日本人抑留者の工兵部隊は、大戦の勃発で建設が止まっていた首都・タシケントのナヴォイ劇場を完成させた。一九六六年のタシケント地震では七万八千棟もの建物が倒壊したが、ナヴォイ劇場は無傷で、市民の避難場所となった。それもあり、一九九六年に日本人の功績を讃えるプレートが劇場に設置された

何としても守りたい
先祖からの日本の価値観
 安倍晋三元首相は会長が最も信頼している政治家であり、まだまだ長生きして欲しかった。会長は第一次安倍政権の前に、安倍晋三を総理にする会の副会長を務めており、新型コロナ陽性者の療養施設としてのアパホテルの一棟貸しも、当時首相の安倍氏から会長の携帯にダイレクトに要請が入り、会長が即決して実現したものだ。三回目の首相登板も期待されていたのに残念なことだ。今年の正論大賞の特別賞に安倍氏が選ばれ、授賞式には安倍昭恵氏が出席してスピーチを行い、安倍氏死去に伴う四月の補欠選挙には、懇意にしていた下関市議の吉田真次氏を後継とした旨を語っていた。本来であれば昭恵氏が立候補するのが良かったが、やむを得ないことだろう。
 葛城奈海氏はそもそも自然環境問題をライフワークに活動していて、国防等は興味がなかった。二十代後半、埼玉県所沢市で、有志が休耕田を復活させて有機栽培で米を作る水田の活動に参加していた時のこと。指導役の農家の老人が溜池の管理作業として、池周辺の木を伐るという。そのままにしておくと落ち葉が池に堆積して、米を育てるのに不可欠な水を溜めることができなくなるからだ。老人が伐る木の前に酒と塩、米を供えて「命をいただきます」と感謝の祈りを捧げたことに、葛城氏はとても驚いた。これが日本人と自然の付き合い方の原点だと感じ、こういったものを残していかないとと思ったのだ。それまでは国を守るというと国土と国民を守るという認識しかなかったが、さらに先祖から受け継がれてきた価値観や自然観、アイデンティティをも守ることなのだとこの時理解した。以降、戦後教育によって悪いと思い込んでいた軍隊や天皇、靖国神社等への思いが一変、自ら国民と自衛官の架け橋になろうと考え、予備自衛官にもなった。今は国防も葛城氏のライフワークの一つとなっている。
 葛城氏は『[復刻版]初等科国語[中学年版]』(ハート出版)という戦前・中の国民学校初等科三〜四年生の国語の教科書の復刻版で、解説を書いた。天照大神の天の岩屋から始まる教科書は、今の教科書から抜けている。国民と軍隊と天皇の三位一体の協力が必要なこともしっかりと描かれていて、このような教科書で学んでいたからこそ、強い日本人が生まれたのだということが良くわかる。しかしこのような教育はGHQによって意図的に変えられた。なんとか教育を日本人の手に取り返さなければならない。
 池畑浩太朗氏は農業高校、農業大学校で学んでいたが、二十歳頃まで母方の祖父が田中角栄と同期当選で、衆議院議員を五期務めた大上司であることを知らなかった。農家の五男坊だった大上は、大変な苦労をして国会議員になったという。これを知った池畑氏は、将来は国会議員になると決めた。農業大学校を卒業後は九年間農業高校で教鞭を執った。妻もおり一歳と三歳の子供もいたが、志を貫きたく、反対されるのを覚悟で教員を辞めることを妻に伝えると、予想に反して「よっしゃ、いこう!」と賛成されたという。
国に貢献したい思いから
会社をたたみ外交官に
 ムクシンクジャ・アブドゥラフモノフ氏は小樽商科大学の大学院修士課程で学んだ。大学は丘の上にあり、大学行きのバスは一時間に二本しかない。学生達は知らない同士でも小樽駅からタクシーに乗り合って、降りてから精算という習わしになっている。日本語がまだ未熟で、知らない同士がタクシーに乗っていることを知らなかったアブドゥラフモノフ氏は、バスを待つ時間も惜しく、三十分歩いて大学まで通っていたという。
 博士号を取得、一旦はウズベキスタンに帰って仕事に就いたアブドゥラフモノフ氏だったが、さらなる学びの意欲が芽生えて再度来日して北海道大学へ、また二〇〇八年に札幌で貿易会社を興して、二〇一七年まで経営していた。二〇一六年に十六年間の長期政権を続けていたカリーモフ大統領が亡くなり、新しくミルジヨーエフ大統領が就任して、改革路線がスタート。アブドゥラフモノフ氏も政府の仕事で国に貢献したい思いから帰国、フェルガナ州副知事等を経て、二〇二一年に駐日大使となって日本に戻ってきた。
 ハサノフ・アスカラリ氏はウズベキスタンの大学を卒業した後、日本の名古屋の大学の大学院で学び、その後の二〇一三〜二〇一九年に駐日大使館で勤務。二〇一八年の会長らアパグループのウズベキスタン旅行もアレンジした。
世界を目指す同志として
JFAとスポンサー契約!
 二月二十八日にアパグループは二〇二二年十一月の連結決算を発表、売上高は前期比約五〇%アップの一千三百八十二億円、経常利益が前期の約四・七倍となる三百五十三億円と大幅な増収増益となった。これは行動制限が無くなり、秋以降全国旅行支援も始まって、日本人の宿泊ニーズが高まったことと、訪日外国人旅行者が復活してきたことが大きな要因だ。この状況が継続すれば、今期も増収増益が見込めると思われる。
 二〇二三年三月一日〜二〇二六年一二月三一日の約四年間の期限で、アパホテルはJFAとサッカー日本代表パートナーシップ契約を締結、CEOとホテル社長がJFA会長の田嶋幸三氏、元日本代表でJFA専務理事の宮本恒靖氏と共に三月七日に記者会見を行った。これはアパホテルが、一業種一提携となっているサッカー日本代表のスポンサーになるということだ。アパグループは二〇〇九年から子供達のサッカー技術向上と普及を目的に、十年連続でサッカークリニックを開催。またアパ名蹴会レジェンドカップアンダー一一サッカー大会も実施していた。このような草の根のサッカー振興活動が認められたのと、何よりも田嶋会長がアパホテルのファンだったこともあって、今回の契約になった。二〇二六年にはアメリカ、カナダ、メキシコ共催のFIFAワールドカップが開催される予定で、北米にコーストホテルチェーンを展開するアパホテルとしては、それとのシナジー効果を期待している。
 世界の頂点を目指すというベクトルを、アパホテルもサッカー日本代表も共に持っているということも、この契約の推進力になった。アパホテルは、客室数による世界ホテルランキングで十九位に食い込んでいるが、上位ホテルの客室数は一桁違う。しかしそれは業務がホテルの運営のみだからだ。アパホテルは土地・建物の所有、経営、運営の三位一体のホテルが九〇%を占めていて、形態が全く異なる。しかし少しでもランキングを上げていくために、可能な限りの手立てを取っていく。
 まず予定しているのはライトユーザー向けのアパアプリキャンペーンだ。これによって、現在のダウンロード数三五〇万人から七〇〇万人への倍増を目指す。二月一日のアパホテル&リゾート〈大阪梅田駅タワー〉、三月一日のアパホテル〈浅草 蔵前北〉等開業が相次ぐ中、一ホテル一イノベーションを掲げて、アパホテルは進化を続けていく。