大塚 達也氏
東京大学大学院を卒業後、大塚製薬株式会社を経て、1990年アース製薬株式会社に入社。社長時代には、モノづくりやお客様とのコミュニケーションで次々と新たなアイデアを取り入れて売上高を飛躍的に伸ばし、東証一部に上場させた(現・プライム市場上場)。2014年3月より現職。現在は女子プロゴルフツアー「アース・モンダミンカップ」の主催、および一般社団法人日本ゴルフツアー機構(JGTO)の理事として、ゴルフ業界の発展に邁進している。
事業を初めた祖父
元谷 今日はビッグトークへの登場、ありがとうございます。
大塚 お招きいただき、ありがとうございます。よろしくお願いいたします。
元谷 大塚さんは今、アース製薬の会長ということですが、アース製薬に資本参加している大塚製薬の創業者の末裔ということなのですね。
大塚 はい、そうです。私が十二歳の時に七十八歳で亡くなった祖父の大塚武三郎が、大塚製薬の創業者になります。
元谷 創業されたのは大正時代と聞いています。どこかで薬のことを学ばれて、製薬業を立ち上げたのでしょうか。
大塚 そうではなく、塩からのスタートなのです。祖父は、徳島県鳴門市の海沿いの里浦地区の人でした。昔は水田地帯だったのですが、今は「なると金時」という美味しいさつまいもが特産品になっています。瀬戸内海沿岸は塩作りが盛んなのですが、祖父は今も続いている鳴門塩業という会社の釜炊き職人でした。当時の塩作りは海水を原料に、太陽熱と風で水分を飛ばして塩分濃度を増したかん水を作り、それを炊いて塩の結晶を取り、にがりや硝酸マグネシウム等の不純物を洗い流して塩を精製するものでした。そうして塩は出荷されていくのですが、工程の途中で取り出した不純物は残ります。これを何かに活用できないかと祖父は考えたのです。そこで、その不純物の中の炭酸マグネシウムを出荷する商売を行うようになりました。当時炭酸マグネシウムはゴムの発泡剤として利用されていて、これによって泡の入ったゴムは、リアカーや航空機の車輪として使用されていたのです。弾力性がありパンクもしないのですが、とにかく重かった。初代の祖父は、軍需もあって細々と炭酸マグネシウムの商売をしていました。
元谷 そういう成り立ちだったのですね。軍需といえば、私の父は石川県小松市で元谷木工製作所という、桐箱や桐箪笥等を製造する工場を経営していましたが、戦争中は軍需工場として船の舵輪を作っていました。軍需工場に勤めると、準軍属として徴兵が遅くなるということで多くの人が就職を希望、最盛期には従業員が百人にも及びました。食料不足の中でも軍需工場への配給は優先されたため、父は従業員に空の弁当箱を持ってこさせ、昼はそれで食事をさせ、帰宅の際にはそこにご飯やおかずを詰めさせて、家族が食べられるようにしたと聞いています。
大塚 お父様は素晴らしい経営者ですね。祖父の始めた事業ですが、その長男で私の伯父に当たる大塚正士が事業に関わるようになり、銀の化合物を三井物産を通じて富士写真フィルムに納入するようになりました。写真フィルムは合成樹脂に銀の化合物を塗って、光が当たると銀の化合物が銀になる反応を利用して画像を残すものなのです。この事業拡大によって、経営は大きく安定しました。しかしその後、第二次世界大戦が始まりました。武三郎の子供は男の五人兄弟で、父は五男でした。長男の正士から徴兵されていき、終戦によって父が召集されることはなかったのですが。次男の伯父はビルマで戦死しました。跡取りの長男・正士が戦死することを恐れた祖父は、正士が外地に行かないように手を回していました。しかし、東京大空襲等で内地でも危ないと思った正士は軍隊から脱走、捕まれば銃殺もあった中、取引先だった帝國製薬のオーナーに匿ってもらって、香川県で終戦を迎えたそうです。
元谷 それは凄いお話です。私の父の場合は、海軍の航空基地がある小松市が空襲されるかもしれなかったので、同じ石川県にある生まれた場所、勅使村(今の加賀市作見)に工場を一時的に移しました。この疎開時代の一九四三(昭和十八)年に私が生まれたのですが、四人目の子供がようやく男の子だったということで、父は大変喜んで近所の神社に手水鉢を奉納したのです。これが今もまだ神社に残っています。
大塚 戦争中のことも、会長はお父様からずいぶんとお聞きになっているようで。会長の人格形成に、お父様がかなり影響されているように見受けられます。
元谷 そうかもしれません。ただ、私の父は終戦後まもなく結核になり、その後十年間闘病生活を続け、私が中学二年生の時に亡くなったのです。
大塚 そのタイミングは、ペニシリン等抗生物質が日本で普及するかどうかの時期ですね。
元谷 そうなのです。もっと早くペニシリンで治療することができれば、父は助かっていたかもしれません。
大塚 イギリスの医師、フレミングが一九二八年にペニシリンを発見、画期的な抗菌剤として、第二次世界大戦中にアメリカの負傷兵に盛んに使用されていました。戦後日本にも入ってくるのですが、もう少し早ければ…という話は多いですね。簡単に治るような病気で命を落としてしまうのは社会の損失ですから、フレミングがこの発見によって、一九四五年にノーベル生理学医学賞を受賞したのも当然のことでしょう。私も大塚製薬に入社した時にも、抗生物質よりもさらに強力な抗菌剤の開発に携わっていました。
から予備校講師
で荒稼ぎ
元谷 大塚さんは、元々薬の研究者だったのでしょうか。
大塚 薬ではありません。中学、高校の時には私は医者になるつもりで勉強をしていたのですが、父に反対されたのです。私の父の大塚正富は、大塚製薬から大塚化学を経て、一九七〇(昭和四十五)年に大塚製薬が資本参画したアース製薬の社長に就任していました。
元谷 お父様としては、アース製薬の経営を継いで欲しかったのでしょうね。
大塚 そうだったのでしょう。そこで私は大学では農芸化学の有機化学を勉強して、大学院にも進み、最終的には博士号を取得しました。
元谷 素晴らしい学歴ですね。
大塚 いえいえ、博士課程ではろくに研究をしていなくて。でも指導教員の教授の覚えはめでたかったのです。その理由は学業ではなく、宴会の盛り上げ役とかとにかくなんでも屋として便利だったのでしょう。博士論文も情実で通してもらったようなものです。大学院での研究よりも、河合塾の仕事を熱心にやっていました。
元谷 河合塾と言えば、名古屋が本拠地の大学受験予備校ですよね。
大塚 はい。その河合塾が、私が大学院生の時に東京に進出してきて、講師を募集していたのです。そこに私はまず助手として採用されました。予備校ですから大学受験のテクニックを教える場所で、基本的には座学が中心なのですが、当時の河合塾は予備校にしては珍しく、教えたことを実験で実地に示していたのです。生徒の中には高校の授業でも実際に見たことがない人もいて、現象を自分の目で見ることで、一層学習効果が上がるという目論見だったのでしょう。例えばスズに塩酸を掛けて水素を発生させ、それに火をつけて爆発させたりとか。私はその実験の助手として、実験道具や試料を揃えていました。河合塾の講師に対する評価は厳しく、しかもその評価は授業を受けた生徒がアンケートを通して行うのです。この評価の良し悪しで翌年の契約が決まるのですが、私がサポートしていた講師が、評価が思わしくなく首を切られ、翌年から私が昇格して講師になったのです。
元谷 大学院生でありながら、予備校の講師でもあったということですね。
大塚 はい、そうです。河合塾の講師は給料も良く、一般のサラリーマンの倍はありました。でも忙しい。大学院での研究・実験もしなければなりませんから、研究室の反応釜に試料を入れて放置して、その間に自分の机で河合塾の授業でのテストの採点をしたり、模擬試験の問題作りをしたりしていました。
元谷 それでも博士号を取得したのですから、大塚さんは優秀です。
大塚 いやもうお恥ずかしい限りで。研究者として私は明らかに失格でしたが、予備校で人に勉強を教える講師としては優秀だと、自分で自信を持っていました。博士号取得後も講師を続けたかったのですが、やはり両親に反対されて、まず大塚製薬に就職することになったのです。配属先は合成研究所でした。ここは薬品の開発を行うために、様々な物質を組み合わせて今までになかった化学物質を作り出す部署です。大学院で有機合成に関する研究を行って博士号を取得したという前提があって、即戦力として研究所に配属されたのです。
新聞は行間を読めとの教え
元谷 大塚さんの博士論文のテーマは、何だったのでしょうか。
大塚 蚊の誘引フェロモンの研究です。タイ等東南アジアに棲むネッタイイエカは水の上に卵を生むのですが、そこからフェロモンが出ます。それを感知した別のメスが、またその場所に卵を生むのです。ニセのフェロモンを化学的に合成して漂わせれば、その場所に蚊を集めて一網打尽にすることが可能です。まず研究では天然のフェロモンの構造の解析を行い、それと同じものを試験管の中で合成するのです。私の大学院の研究室では教授が研究プランを全部考えてくださって、学生はただそれを実行するのみでした。こういった化学物質を人工的に合成する手法は、フェロモンでも香料でも薬でも同じです。まず設計図を書いて、化学物質の一部の元素を変化させるなどの化学修飾を行って、新しい化合物を合成する。その化合物を実験動物のねずみに与えて、血圧が上がるか下がるか、精神病が良くなるか、殺菌効果はどうか等の効果を測定する仕組みが既に構築されています。私の仕事は新たな化合物を作って、動物実験の担当に渡す事でした。博士号を持った即戦力として期待されていた私ですが、教授の手足として動いて得た学位で、新しい物質をデザインする能力などないままでしたから、アイデアが全くありません。懸命に諸先輩に教えを乞うて、なんとか仕事を進めていました。
元谷 そのようにして薬の開発を進めていくと、途中人体によるテストもあるのですね。
大塚 はい、そうです。ただ薬の場合は一般に募集するのは難しいので、社内で募集します。薬を服用したり注射したりして、その後の血中濃度を測定するなど経過を見ていきます。社員だからといって無給ということはなく、例えば一晩宿泊して十万円の場合もあって、非常に割の良いアルバイトになっています。当然応募者も多い。私も応募したのですが、心電図のQTで引っかかり、採用されませんでした。正常な人に投与して、安全性に問題がないか、副作用はないかを見るテストですから、異常があると駄目なのです。
元谷 やはり薬の開発はそれによって命を救われたり、人生を全うできる人がいるわけですから、非常に価値のある仕事だと思います。私の父は結核で寝込んだために工場を閉鎖することになり、その工場を細かく仕切って貸間に、また別に家があったのでそこを貸家にして、家計を賄っていました。私も家賃の取り立てに行ったり、貸家・貸間ありますという張り紙を電柱に貼って歩いたりしました。今の商売はその延長線上のようなものです。
大塚 これだけ成功された会長ですが、小さい頃から商売が身に付いていたのでしょうね。幼い頃からゴルフを習って、プロになった選手のように。他の人にはなかなか真似ができないと思います。
元谷 私が中学生の時に父が亡くなりましたから、高校には奨学金で通い、卒業後は信用金庫に勤めながら、慶應義塾大学経済学部の通信教育で学びました。勤めている時に大蔵省財務局から出向してきた信用金庫の会長に提案して、日本初の元利均等返済の十五年の長期住宅ローンを商品化したのです。当時は一般の人向けの住宅ローンはなく、あるのは元金均等の一般融資だけでした。
大塚 凄い実績ですね。そのまま信用金庫にいても、会長にまで上り詰めたのではないでしょうか。
元谷 最初からいずれ独立して、父のように実業家になるつもりでしたから、会長になる気は全くなく。実業家には金融の知識が必要だと考えて、信用金庫に就職したのです。住宅ローン制度が実現した後それをひっさげて独立、「十万円で家が建つ」のキャッチフレーズで注文住宅の事業を始めました。多くのお客様が待ちかねたように申し込んできましたよ。
大塚 会長は人の欲しがるものがちゃんとわかるのですね。今であれば、国民栄誉賞ものの快挙です。
元谷 元利均等返済の長期住宅ローンというのは、信用金庫の職員向けには制度としてあったのです。それを一般向けに拡大しました。
大塚 発想力の勝利ですね。
元谷 もう一つ、私の成功の要因は、小学校五年生から新聞を読むのが趣味だったことです。父が地方紙、全国紙、経済紙と三種類の新聞を購読していて、それを父が入院しても継続していました。私は毎日その三紙を熟読して、わからない言葉があれば、「現代用語の基礎知識」で調べていたのです。これで知識が随分付きました。学校の先生は授業の最初にその日の新聞の話をすることが多いのですが、いつも私が先にオチをばらしていました。
大塚 強制されたわけではないのに新聞を読むとは、会長は知識欲が相当強かったのですね。
元谷 それは父親譲りかもしれません。父は好奇心が強く、知恵のある人でした。新聞を読む時も、三紙を比較して、どういう意図でその新聞はその記事を掲載しているのか、行間を読めとよく言われました。
人モノ金&情報が集まる
大塚 私の父は業績不振だったアース製薬の立て直しのため社長に就任したのですが、一九七三年に「ごきぶりホイホイ」という大ヒット商品を生み出すことで、一気に業績を回復させることに成功しました。今こういうものを作っているとか、昔こんなことがあったとか、父は私が小さい頃から仕事についてよく話す人でした。またお前はこの商品をどう思うかと聞かれることもありました。父は今年の二月に亡くなったのですが、いわば家業である事業を発展させなくてはと必死だったのでしょう。それもあって、自分の経験や考え方を私に伝えようとしていたのだと思っています。いろいろと失敗商品もありましたが、やはり父が生み出した「ごきぶりホイホイ」は今のアース製薬の基礎となっています。一方、私は自分の子供達には、そういったことを一切語ってきませんでした。そのためか、家業を引き継ごうという意志は一切なく、全く異なる道を歩んでいます。やはりそこは計画的に養成するべきだったかと。
元谷 そこはなかなか難しいですね。
大塚 今私は会長なのですが、実務は全てアース製薬生え抜きの川端克宜社長が行っています。本当によくやってくれていて、血の繋がりはないですが、実の弟のように思っています。
元谷 信頼しているのですね。年齢差はどれくらいなのでしょうか。
大塚 十五歳です。会社が大好きで、自分のウチのように思っているのです。私もできるだけ、自分の経験を伝えていこうとしています。
元谷 いい後継者ができましたね。
大塚 自分が若い時にも会長や社長の様々な話を聞いて、感銘を受けたことがあります。そういう人の下で修行してみたい、経験を積んでみたい思われることが重要なのではないかと。私は会社の発展には、経営者の人間力が大事だと考えています。
元谷 全く同感です。私もそういった経営者の知恵を広める場として、十一年前に「勝兵塾」という私塾を始めました。この塾の名前は、孫子の兵法の「勝兵は先ず勝ちて、而る後に戦を求む」から取ったものです。有料会員と特待生が集まり、東京、金沢、大阪で毎月一回の月例会を行っています。この塾の特徴は、毎回一人が長く話すのではなく、いろいろな人が十分間の短い講演を行うというところです。その方が、聞く人が自分でいろいろと考えを巡らすことができるからです。経営者からサラリーマン、学者や政治家等、様々な人々が参加しています。
大塚 とても重要な活動だと思います。また「勝兵塾」では政治や歴史のお話もされていると聞いています。
元谷 はい。私の座右の銘の一つは「二兎追う者は二兎も得る」です。事業と言論活動が両輪となって、どちらの活動にもお互いがプラスになっているのです。ホテルも引き続き増え続けていますし、総資産は一兆円を超えています。
大塚 またどのホテルも立地が良いです。そんな土地を見つけてくる、情報収集力が素晴らしい。
元谷 世の中一番のところに人もモノも金も、そして情報も集まってくるものです。だからまず一番というのが、非常に重要になります。
大塚 いい話と同時に変な話も来ませんか。
元谷 それを一瞬で見分ける目は持っていないと駄目でしょうね。そういった選球眼でセレクションをしてきたため、今のアパホテルは優良物件ばかりです。また他のホテルチェーンはブランドと運営、所有がばらばらなケースが多い。しかしアパホテルは、基本所有しているホテルをアパのブランドで運営しています。そのために非常に高い利益率を維持することが可能になっているのです。最初は融資を受けて建築したホテルでも、高収益のために早い段階で返済を完了することが可能になっています。そういう意味で、財務状況は極めて健全です。
大塚 稲盛和夫氏亡き後、経済界を牽引するのは会長でしょうか。
元谷 いやいや。そうなれるように努力はしたいですね。最後にいつも「若い人に一言」をお聞きしています。
大塚 リーダーになるために、人間力を高めて欲しいですね。お金を儲けることや人を使うことも大切ですが、人間力を磨いていれば自然と人がついてくる。困った時にも助けてもらえるのです。
元谷 今日はいろいろと興味深いお話をありがとうございました。
大塚 ありがとうございました。