アンドレ・スピテリ氏
2005年マルタ大学国際関係学部を卒業、2007年日本の文部科学省の奨学生に選ばれ、2010年立命館大学国際関係研究科で修士号を取得。マルタに帰国後、欧州社会基金プロジェクトに関連する業務に就いた後、マルタ外務省に入省。2014年よりマルタ在住の日本大使となり、2020年在日マルタ共和国外交使節団開設に伴い、東京常駐の初代大使に就任。
旧日本海軍が地中海で活躍
元谷 今日はビッグトークにご登場いただき、ありがとうございます。マルタ共和国には、第一次世界大戦時に地中海で亡くなった大日本帝国海軍の戦没者の墓地があり、二〇一七年に安倍晋三首相が慰霊のために訪問したことで知られています。ただ、それ以外のマルタのことについては、多くの日本人がほとんど知らないのではないでしょうか。今日はスピテリさんにいろいろと教えていただければと思い、お招きいたしました。
スピテリ このような機会をくださり、ありがとうございます。仰る通り、マルタのことを知らない日本の方は多いのですが、一部の方には観光地として興味を持っていただいたり、英語を学びにマルタに来る方もいらっしゃいます。
元谷 マルタは地中海の真ん中にある島国で、シチリア島のすぐ近くにありますよね。しかし英語を学びに…となると、公用語は何語になるのでしょうか。
スピテリ 公用語は英語とマルタ語です。今会長が仰ったように、マルタ共和国は、地中海に浮かぶ淡路島の半分ほどの面積の人口約五十万人の島国です。地中海文化も息づいているのですが、一九六四年に独立するまでの約百六十年間イギリス領だったので、憲法や公共制度、教育システム等にイギリスの影響が強く残っています。自動車も左側通行です。
元谷 マルタ語というのもあるのですね。
スピテリ はい、マルタ人は普段は皆マルタ語を話しています。オーストラリア、カナダ、アメリカでも、第二次世界大戦後にマルタから移民した人々の中でマルタ語が話されています。また、やはり近い国の言葉ということで、イタリア語が話せる人も多いですね。
元谷 一九七九年までマルタにはイギリス海軍の基地があり、一九一七年に地中海に派遣された大日本帝国海軍の第二特務艦隊も、マルタを本拠地として地中海での輸送船団の護衛任務にあたっていました。Uボートの雷撃を受けて沈没しつつあるイギリスの兵員輸送船トランシルヴァニアに、第二特務艦隊の所属艦が接舷して救助にあたるなど、護衛任務で数多くの実績を残し、イギリス海軍からも高い評価を受けました。
スピテリ マルタでは第二特務艦隊への補給はもちろん、戦傷者の治療も行っていました。旧日本海軍の軍人は非常に尊敬されていたそうです。活躍はもちろんのこと、鍛錬が行き届いていて礼儀正しかった。マルタに祀られているのは、主に駆逐艦「榊」に乗船していた将兵です。「榊」は一九一七年六月にオーストリア・ハンガリー帝国のUボートの魚雷攻撃で艦首が大破し、艦長以下五十九名が戦死しました。
元谷 そうです。「榊」自体は曳航されて修理を受け、一九三二年まで現役を続けましたが。
スピテリ はい。そして「榊」の戦没者と他の第二特務艦隊の戦病死者十四名の合計七十三名が、一九一八年にマルタに祀られることになったのです。
元谷 オーストリア・ハンガリー帝国は、ドイツの同盟国だったのですね。
スピテリ そうです。当時ドイツとオーストリア・ハンガリー帝国、イタリアの三国同盟があり、それに従ってオーストリア・ハンガリー帝国はドイツ側で参戦していたのです。一方日本の海軍は連合国側として、イギリスやフランスの輸送船を守るために戦いました。イギリスはこのマルタの大日本帝国海軍戦没者墓地以外にも、他の連合国のために慰霊施設を作っています。
元谷 イギリスから独立したということは、今でもイギリス国王を元首とする立憲君主制なのでしょうか。
スピテリ 一九六四年の独立当初はそうだったのですが、一九七四年の憲法改正によって国王のいない共和制に移行しました。ただ、イギリス連邦の一員であることは変わっていません。元首は大統領です。また、一院制の議会があります。
地中海の交通の要衝
元谷 マルタは地中海の真ん中にある海運の要衝ですから、イギリス領となるまでも様々な勢力の支配を受けたのではないでしょうか。
スピテリ その通りです。紀元前はカルタゴに支配され、その後六世紀までローマ帝国の、九世紀までは東ローマ帝国の一部でした。一時期、北アフリカのイスラム勢力によって占領されましたが、十~十一世紀にノルマン人による王朝がマルタを奪還します。十六世紀には、マルタは聖ヨハネ騎士団の統治下に置かれます。聖ヨハネ騎士団は、一五六五年のオスマン帝国による大包囲戦を打ち破り、繁栄しましたが、一七九八年にフランスのナポレオンによって占領されます。ただフランスの支配は不評でマルタ人は反乱を起こし、イギリスに援助を依頼、その結果一八〇〇年にマルタは大英帝国の保護領となったのです。
元谷 それは凄い歴史です。こんな歴史を持つマルタの人々の宗教は、主に何になるのでしょうか。
スピテリ ローマ・カトリックになります。
元谷 それだけ様々な勢力に翻弄されたのに、マルタ語が残っているというのは、素晴らしいことですね。教育もマルタ語で行われているのでしょうか。
スピテリ 学校では、マルタ語と英語の両方で教育が行われています。イタリア語やフランス語、ドイツ語も学ぶことができます。歴史的にはイタリア語と英語が一般的で、この二つが公用語だったのですが、第二次世界大戦でイギリス領のマルタは枢軸側のイタリアと敵対します。そのためイタリア語は敵性言語として排除され、民族の言葉であるマルタ語が公用語となったという経緯があります。しかし国民の七割ぐらいは、今でもイタリア語がわかりますよ。
元谷 マルタの主な産業は何でしょうか。
スピテリ 主要産業は観光です。世界中から年間二百五十万人以上の観光客がマルタを訪れています。日本人観光客も、新型コロナ前の二〇一九年には約二万六千人が訪れました。ただ日本人の滞在期間は短く、南イタリアやシチリアを訪れたついでに来るというケースが多いですね。
元谷 私もマルタを訪れて、レンタカーで島内を一周したことがあります。住みやすそうで、のんびりとした国でした。私が行った時にはまだ日本人は少なかったですね。そして確かに、あまり長くは滞在しませんでした。
スピテリ 日本人は歴史や文化が好き。またマルタは気候が非常に良いですから、きっと満足してもらえると思っています。
元谷 観光で訪れるとしたら、どこがお勧めなのでしょうか。
スピテリ マルタには、ユネスコの世界文化遺産が三つあります。ハル・サフリエニの地下墳墓は、紀元前二千五百年頃作られた三層にわたる地下構造物です。最初は宗教施設として作られたものが、後に共同地下納骨堂に転用されたと考えられています。先史時代の地下墳墓は、世界で唯一ここだけです。マルタの首都であるバレッタの市街も世界遺産です。ここは十六世紀に建てられた「勝利の聖母教会」を中心に、聖ヨハネ騎士団によって計画的に作られた城塞都市です。数々の戦争で損傷することもありましたが、美しい街並みを今でも眺めることができます。もう一つの世界遺産は、マルタの巨石神殿群です。マルタ島とゴゾ島で合わせて約三十確認されている巨石神殿の内、六つが世界遺産になっているのですが、その建造は紀元前四千五百~二千年とされています。マルタ島の北西六kmにあるゴゾ島は近年リゾートアイランドとしての開発も進んでいて、巨石神殿の一つ・ジュガンディーヤ神殿の他、水の青さが美しい海の天然プール・ブルーホールや「奇跡の教会」タ・ビーヌ教会等のスポットがあります。他にも見どころが多いマルタは、ワインや食べ物も美味しく、温暖で太陽が一杯の国です。
元谷 非常に楽しそうですね。今度はマルタ島以外にも行ってみたいと思います。
マルタ産のクロマグロ
元谷 観光以外の産業はどうなのでしょうか。
スピテリ 自動車部品や半導体等電子部品に代表される製造業も盛んで、ドイツやフランス等のヨーロッパ諸国や日本にも輸出をしています。しかし日本に対して最も多く輸出しているのは、魚類と甲殻類、中でも特に有名なのはクロマグロ(本マグロ)です。マルタ島内にマグロの養殖場があり、そこで育てられたものの大半が日本に送られていて、豊洲市場等に並んでいます。大変美味しいと評判で、マルタと日本の貿易での一番の成功例です。またマルタのチーズやオリーブオイル、ワインや蜂蜜も、これからもっと日本の皆さんに食べて欲しいと考えています。実は「マルタ」という言葉は、古代ギリシャ語で「蜂蜜」という意味なのです。マルタでは二千年前にローマ人によって養蜂場が作られ、当時から「蜂蜜の国」として周辺では知られていました。
元谷 食を中心にマルタと日本の貿易が広がっているということですね。
スピテリ 逆に日本から輸入しているのは自動車や機械類です。先程お話したようにマルタはイギリスと同じで左側通行ですから、右ハンドルの日本車は大人気。特にトヨタ、ホンダ、マツダが欲しいという人が多いです。
元谷 製造業が盛んということで、マルタの教育水準は非常に高いように思えるのですが。
スピテリ 国も教育に力を入れています。義務教育は十六歳までで、それまで学費は一切掛かりません。また小さな国ですが、大学もあります。
元谷 スピテリさんはどこの学校で学ばれたのですか。
スピテリ 私はマルタ大学で学士号を取った後、日本の文部省の奨学金で立命館大学の大学院に入学し、二〇一〇年に修士号を取りました。専門は国際関係論です。
元谷 ということは、日本語もおできになるのですね。
スピテリ はい。実は立命館大学に行く前、まだ私がマルタ大学の学生だった二〇〇二年に、交換留学生として初めて日本に来て、関西外国語大学に通っていたのです。日本にいたのは九カ月だったのですがマルタ人は私だけで、他は欧米やアフリカ、アジアから等、世界中からやってきた学生でした。どの国も日本に大使館があったのですが、その時は駐日マルタ大使館がなく、ちょっと不安でしたね。
元谷 そもそもスピテリさんは、なぜ日本に興味を持ったのですか。
スピテリ 非常によく聞かれる質問です(笑)。私が生まれる四年前に亡くなった祖父は、マルタの港で仕事をしていました。日本の船が港に頻繁に出入りするのを見て、祖母に「日本に行きたい」と言っていたそうです。前回の東京オリンピックや大阪万博が開かれた時代ですので、その影響もあったのでしょう。その話を私は父から聞かされていて、自然と日本への興味が湧いていったのかもしれません。
元谷 二〇〇二年当時、日本にマルタ大使館はなかったということですが、外交関係はありましたよね。
スピテリ はい、日本とマルタは、独立した翌年の一九六五年に外交関係を結んでいます。ただ大使館はなく、北京のマルタ大使館が日本も管轄していたのです。私は修士号を取得して日本から帰国した後、EU関連の仕事を少しやって、マルタの外務省に入省しました。様々な仕事を担当した後、二〇一四年にマルタに居住する日本大使となったのです。その時に、馬車で皇居を訪れ信任状捧呈式を行いました。そして日本との関係が今後さらに重要になるという観点から、二〇二〇年に駐日大使館を開設し、私が初代の常駐の大使となったのです。
元谷 今、ロシア・ウクライナ戦争が勃発して、平和の大切さがより一層重視されるようになっています。戦争に巻き込まれないためには、抑止力としての軍備が必要なのですが、マルタにも軍隊はあるのでしょうか。
スピテリ はい、警察とは別の軍隊があります。マルタはNATOには加盟していませんが、二〇〇四年にEUに加盟していて、安全保障面でも他の国と連携しています。マルタはEUの中では最も小さな国ですが、通貨はユーロを採用しています。シェンゲン協定にも加盟していますからパスポートと航空券があれば、マルタに入国した後にEU域内のどの国にも自由に行くことができます。マルタはいわば交通の要衝ですから、飛行機を使ってチュニジアやフランスへは一時間、エジプトへは一時間半、スペインやイギリスには二時間です。ヨーロッパのどこへ行くにも非常に便利な国ですよ。
元谷 日本からマルタに行く場合には、どうするのが良いでしょうか。直行便はありませんが…。
スピテリ イスタンブールを経由するのが一番便利だと思います。イスタンブールとマルタの間は、飛行機で二時間半です。多くの日本人がこのルートを利用しています。フランクフルト、ヘルシンキ、ドバイ、ドーハなどの別のルートもあります。
元谷 なるほど。よくわかりました。
昭和天皇が植樹した桜も
スピテリ 実は日本とマルタの関係は、第二特務艦隊が派遣されるよりも古いのです。幕末の一八六二年、幕府はロンドンで開催される万国博覧会も含む欧州諸国訪問のため、幕府使節団を派遣したのですが、この時通訳として参加したのが福沢諭吉でした。使節団一行は長崎を出てシンガポールを経て、インド洋、紅海を渡ってスエズに到着。そこから陸路でアレクサンドリアに行き、地中海を航海してマルタ島を訪れ、その後マルセイユに行きました。その際一行は感謝の気持ちとして武士の鎧一式を二つ、マルタに送りました。これが今も残っているのです。私は一組を日本に持ってきて修復し、日本政府にお返ししたいと考えています。
元谷 そんなこともあったのですね。是非実現させたいお話です。
スピテリ また一九二一年には、当時皇太子だった昭和天皇がヨーロッパ旅行の途中、マルタに立ち寄られています。その時にはおそらく、大日本帝国海軍戦没者墓地も訪問されたでしょう。この年はマルタで初めて国民議会が招集され、イギリス統治下でありながら自治が認められた記念すべき年でした。また皇太子はその時、首都バレッタにあるサン・アントン・ガーデンズに桜を植樹されました。今でもこの木は大切にされていて、美しい花を咲かせています。私の夢の一つはここに日本庭園を作ること。それを日本とマルタの友好の証としたいのです。
元谷 そんな日本庭園ができれば、日本からの観光客がさらに増えるのではないでしょうか。
スピテリ 私もそう考えています。
元谷 お話を聞いて、機会があればまたマルタを訪れてみたいと強く思うようになりました。
スピテリ 是非お越しください。
元谷 最後にいつも「若い人に一言」をお聞きしています。
スピテリ 日本の若い人は、まず外国に出かけてください。そこで一杯学んで帰国して、日本をより良い国にしていって欲しいと思います。
元谷 今日はいろいろと面白いお話を、ありがとうございました。
スピテリ 楽しかったです。ありがとうございました。