Big Talk

安倍元首相の遺志を何年掛けてでも実現させるVol.375[2022年10月号]

衆議院議員 務台俊介
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アパグループ会長 元谷外志雄

地方消費税の創設や国民保護法制定等、二十九年間官僚として数々の実績を上げ国政に進出、議員立法の分野でその手腕を振るい続ける衆議院議員の務台俊介氏。日本アルプスの麓で生まれ育ったことが仕事の原動力という氏に、志半ばに凶弾に倒れた安倍晋三氏への思い、ロシア・ウクライナ戦争が伝える日本への教訓等をお聞きしました。

務台 俊介氏
1956年長野県安曇野市生まれ。1980年東京大学法学部を卒業、自治省(現総務省)に入省。茨城県総務部長、消防庁防災課長、大臣官房参事官等を歴任。2008年総務省を退職、2009年衆議院議員選挙に出馬するも敗北。2012年衆議院議員選挙で初当選、現在4期目。岸田内閣の下、環境副大臣、内閣府副大臣を務める。

三位一体改革等に関与
充実した官僚時代

元谷 本日はビッグトークへのご登場、ありがとうございます。務台さんにはまず勝兵塾で講演をしてもらい、ワインの会にも参加してもらって。次は…ということで、今回の登場となりました。

務台 お招きいただき、ありがとうございます。今日はよろしくお願いします。

元谷 務台さんは官僚出身ですよね。

務台 はい、そうです。旧自治省、現在の総務省におりました。

元谷 エリート官僚と言えば、大蔵省か自治省でした。優秀な人しか採用されませんでした。

務台 優秀かどうかはさておき、私は地方自治体関連の仕事がしたいという気持ちが強かったので、自治省を選んだのです。

元谷 務台さんのご出身はどちらなのでしょうか。

務台 長野県安曇野市の出身です。昔の南安曇郡にあった五つの町村が合併して、人口約十万人の安曇野市になったのですが、その中の旧三郷村や旧豊科町で育ちました。務台家は先祖代々この地で続いてきた家です。父もここで生まれて育ったのですが、満州の旅順師範学校に行き、終戦直前に関東軍に召集され、前線に出る前に終戦を迎えました。

元谷 それは良かったですね。

務台 しかし一年十一か月の間、ソ連によってシベリアに抑留されることになりました。一説では、シベリアには六十万人の日本人が抑留され、そのうち六万人が亡くなったと言われています。父は生まれ故郷に帰りたいという一心で、なんとか生き延びて帰ってきたそうです。その後父は教師となり、中学校の校長や豊科近代美術館館長となって天寿を全うしましたが、人一倍故郷を思う気持ちが強かったのです。その血が私に伝わったのでしょうか、長野県で生まれ育った私も、地元の役に立つ仕事がしたいと子供の頃から考えていたのです。そこで東大に行き、自治省に入りました。親戚にも官僚はいなかったので、では一人ぐらいは私が…という想いもありました。

元谷 しかし目指しても、なかなか実現できるルートではありませんね。

務台 それはもう、猛勉強しましたから(笑)。結局役所には二十九年間、お世話になりました。入省して初めて出向した自治体は、広島県でした。最初の出向先は自分で選べたのですが、原爆投下の悲劇に直面した土地に住んで、原爆が人々に与えた影響を身を以て知りたいと思ったのです。実際、最初は原爆のことを語りたがらなかった人が、何度か会って酒を酌み交わす関係になってくると、自分にもケロイドがある等、重い口を開くようになってくるのです。やはり旅行で訪れるのと暮らしてみるのでは、その土地についての情報量が全く異なります。

元谷 それは同感です。

務台 その後も東京の本庁と地方の自治体を行ったり来たりだったのですが、茨城県で総務部長をしていた一九九九年にその対応に携わったのが、茨城県東海村のJCO臨界事故でした。

元谷 核燃料加工施設でウラン溶液が臨界に達して、核分裂連鎖反応が発生、多量の放射線を浴びた作業員二名が亡くなったという事件でしたね。

務台 正規のマニュアル通りに作業をしていれば、あんな事故は起きなかったのです。実際にはマニュアルを逸脱した作業が常態化していたのが、事故の原因でした。「原子力は安全」という信頼は、この事故で崩れたと思います。その後は総務省消防庁の防災課長をやったのですが、当時内閣官房副長官だった安倍晋三さんが「有事法制が必要だ」と言い出したのです。武力攻撃があった時に反撃するのは自衛隊ですが、消防庁や地方自治体は住民を避難させなければならない。これをどのように行うのかを定めた国民保護法を、二〇〇四年の国会で成立させました。これが安倍さんとのお付き合いの始まりでした。この他、国税と地方税の関係を見直す三位一体改革にも携わり、国税から地方税へ三兆円の税源移動を達成することもできました。

元谷 やりがいのある仕事をいろいろと手掛けてきたのですね。

務台 もちろん私は関与した多くの官僚の一人に過ぎませんが、時代の区切りをつけるような仕事に絡むことができたと自負しています。

新人議員時代に
「山の日」制定に奔走

元谷 国政進出はどのような経緯で。

務台 五十歳を過ぎた頃、衆議院議員に出馬しないかとお誘いを受けたのです。当時、私の地元の選挙区には自民党の議員が不在でした。そこで地元志向で地方自治体の業務に精通していて、中央の法案関連でもそこそこの実績を出していた私に、白羽の矢が立ったのです。悩みに悩み、家族の大反対の中を出馬したのですが、これが二〇〇九年の政権交代選挙で、私は当選議員に十六万票対八万票のダブルスコアで負けました。

元谷 あの選挙が初陣というのは、厳しかったですね。

務台 はい。妻にはこんなことで人生を棒に振るな、選挙は止めろと言われたのですが、私にも志がありましたし、後援会の皆さんも一回で止めるならそもそも応援しなかったと言われまして。結局、二〇一二年の選挙で前回敗れた相手を打ち負かして、初当選することができました。

元谷 安倍さんが自民党総裁に返り咲いた直後の衆議院選挙ですね。

務台 ですから私はいわゆる「安倍チルドレン」なのです。二〇一二年の選挙の年に、まだ首相にも、総裁にも返り咲く前の安倍さんが私の選挙区を訪れ、一時間に亘って話をしてくれたのです。私のことをしっかり調べてきていて、メモも見ずに国民保護法や三位一体改革等、官僚時代の私の業績を讃えるのです。さらにその後の安倍政権で実現した政策の中枢部分、例えばアベノミクスや北朝鮮による拉致問題の解決、集団的自衛権の行使等、しっかり語っていただきました。今となって思うと、安倍さんはやらなければならないと一貫して考えていたことを、首相になって本当に実現した政治家なのだと。ですから今回の訃報は非常に残念です。安倍さんに政治の生命を授かったものとして、彼の遺志をしっかりと継いで、この国をさらに元気にしていきたい。それが今の思いです。

元谷 安倍さんは真っ当な歴史観、世界観、国家観と自らの確固たる意志を持ち、さらに力も兼ね備えた稀有な政治家でした。私は昔から支持していて、第一次政権の前に「安倍晋三を総理にする会」を作って、副会長を務めていたことがあります。そこからいろいろとお会いする機会もあり、コロナ禍においては直接安倍さんからお電話をいただいたことが、陽性者の療養所としてのホテルの一棟貸しに繋がりました。もっと活躍して欲しい政治家だったのに、非常に残念です。

務台 本当に。このまま世界情勢が混乱へと進むようになれば、もう一度首相に…という声がきっと上がっていたはずです。
「死せる孔明生ける仲達を走らす」という言葉の通り、多くの政治家が今、安倍さんの思いを今後何年掛けてでも実現しようという気持ちになっています。私もその一人です。

元谷 期待しています。務台さんがこれまでで一番やりがいを感じた仕事は、何だったのでしょうか。

務台 役人としては一九九〇年代に、地方消費税を創設できたことでしょうね。私は地方税担当の課長補佐でした。消費税を三%から五%に引き上げる際に、まだ地方税に残っていた料理飲食等消費税を起源とする特別地方消費税等の間接税を全て廃止して、全部国税にすべきという議論になったのです。そうなると地方税が国税に持っていかれ、地方自治と言いながら地方の独自性を担保するための税源が失われます。消費税の一部を地方消費税として地方に確保しようと、自治省の当時三十代後半の課長補佐達が一致団結、上層部との交渉に乗り出したのです。当然、大蔵省は増税だけで大変なのに、その税を国税と地方税に分けるなど事務手続きが煩雑になると絶対に反対です。賛否両論いろいろあったのですが、当時は村山富市首相の自社さ連立政権で、自治大臣は野中広務さんということもあって、地方消費税が実現したのです。大蔵省を敵に回して、これから役人続けていけると思うなよとまで言われた難題でしたが、脅しに屈しなくて良かったと思っています。

元谷 それは素晴らしい実績です。

務台 政治家としては最初にやりがいを感じたのは、一期目に「山の日」という新しい国民の祝日を作ったことでしょうか。私の出身は日本アルプスの麓で、地元の方々から「海の日があるのに山の日がないのは寂しい」と言われていたのです。駄目元で谷垣禎一さんに相談したところ、「面白い」と。谷垣さんは東大時代、スキー山岳部で山にはまり、八年間大学に行った人ですから(笑)。まず議連を作って活動してみたらとアドバイスを受けました。議連の会長就任を衛藤征士郎さんに快諾していただき、野党の議員も巻き込んで様々な人からヒアリングを行い、議論を始めて一年少しで議員立法によって法案を提出、成立までこぎつけ、八月十一日が山の日となりました。現在、国民の祝日は十六日あり、これは世界でも多い方なのですが、日本人の有給消化率は低いので、強制的に休ませる祝日の意義が大きいのです。また祝日があれば、それと土日の間に有給休暇を入れて、長い休暇を取ろうという人も出てきますし。また、山の日になるとNHKが日本アルプスの特集番組を放送してくれたりして、地域活性のきっかけにもなる祝日だと自負しています。この後、私は消防団基本法や自転車振興基本法、過疎対策特別措置法等を議員立法で成立させてきているのですが、その端緒となったのがこの山の日なのです。

元谷 長野県出身の務台さんらしい祝日ですね。また立法者という国会議員の本分を、しっかりと果たしていると思います。

務台 ありがとうございます。確かに東京出身の議員ではまず言い出さない祝日だと思っています。

消防団基本法の制定で
団員不足解消への道筋を

元谷 衆議院議員になって、今年で十年です。何期目になるのでしょうか。

務台 まだ四期目です。

元谷 参議院議員だと一回当選すれば六年間の任期が約束されますが、衆議院だと解散もあって、任期はかなり短くなります。それでも衆議院議員の方が良いですか。

務台 衆議院議員の方が緊張感がありますね。解散もありますが、有権者に少しでも悪い印象を与えてしまうと、次はありません。常に気を配る必要があるのです。私もいくつかミスをしたことがあるのですが…。

元谷 それでも頑張っている。

務台 自分のためだけだったら挫けていると思います。しかし自分がいなくなったらこの選挙区はどうなるのだ。この麗しく気高い選挙区は、よっぽどの人でなければ任せられないという思いから自分を奮い立たせて、日々過ごしています。

元谷 先程議員立法で成立させた中で挙げた、消防団基本法というのは、どういう法律なのでしょうか。

務台 私が消防庁で働いていたこともあり、消防団の皆さんの強い要望があって、法案作成に携わった法律です。今全国で約八十万人の消防団員がいらっしゃるのですが、それらの方は全員ボランティアなのです。それもあって、今消防団員のなり手が激減しています。もっと多くの人に団員になっていただけるよう、環境を整えるためにこの法律を作りました。非常に高い評価をいただいています。

元谷 消防署はわかるのですが…。消防団というのは、どういう存在なのでしょう。

務台 消防組織には、常備消防と非常備消防の二種類があります。消防署は常備消防で、常勤のサラリーマンである消防士がいる組織です。非常備消防である消防団は、非常勤の消防団員がボランティアで活動している組織です。世の中には常備消防しかない国もあるのですが、日本は常備消防と同じエリアに非常備消防が被さっている形となっています。これは世界でも珍しく、日本とドイツの旧東ドイツエリアぐらいと言われています。

元谷 なぜ日本は、そんな世界でも特殊な消防体制になっているのでしょうか。

務台 日本には自分の地域を自分で守る自主防災の伝統があるのです。私は皇室制度と並んで、この自主防災の意識が日本人の気持ちを統合していると考えています。黒澤明監督の「七人の侍」という映画をご覧になったことがあると思うのですが、あの作品は集落を野盗達から守るために、浪人を雇って自主防災組織を作る話でした。集落ごとにそのような組織があり、また江戸時代の町火消の伝統もあって、明治時代に消防団という形で国がまとまった組織に整理したのです。戦後いろいろ変遷はありましたが、結局今のような地方自治体単位の常備消防である消防署と、非常備消防の消防団という形に落ち着いています。

元谷 消防団員は全くの無給なのでしょうか。

務台 違います。消防団員は一回の出勤に対して報酬が支払われる等、月給ではない形で報酬が支払われています。ただ機器の点検やそれらを扱う訓練等時間を要することも多く、それ故になり手が少なくなっているのです。これに対して処遇を上げてなり手を増やそうというのが、消防団基本法の立法趣旨なのです。今議論しているのは、ボランタリーな参加だけではなく、例えば十八~三十五歳の間の一~二年は消防団に所属することを努力目標とするような制度が導入できないか、ということです。皆が地域の守り手として参加することの意義を問い直したいです。

元谷 徴兵制に近いものでしょうか。

務台 そんな強制的なものではありません。消防団に参加することで、その後の社会生活にメリットが出るような仕組みも考えられます。

元谷 消防団に参加するような意欲の高い人であれば、アパは喜んで採用しますよ。

務台 正にそういうことなのです! 地域の守り手として参加した人を、就職や昇進が有利になるようにできれば。実際消防団の参加はその人のスキルアップに繋がります。AEDの使い方や人工呼吸、包帯やロープの巻き方等を仕込まれますから、どんな組織においても災害時に活躍するのは間違いありません。今の会長のお話を聞いて、まだまだ消防団についての広報が甘いと悟りました。もっと広く実業界にも消防団について伝えるよう努力します。

元谷 それが良いと思います。

日本の安全保障環境は
ウクライナよりも厳しい

務台 ロシアのウクライナ侵略に際して、十二回にわたり私達が松本駅前で行った募金活動の成果を駐日ウクライナ大使館に届けたことが縁で、七月十六日にセルギー・コルスンスキー駐日ウクライナ大使が松本市を訪問、信州大学で講演を行っていただきました。私が大使に何故ここまでウクライナ人はロシアの侵略に対して抵抗し続けるのかと聞くと、大使は帝政ロシアからソ連時代と四百年間、ウクライナはロシアに虐げられてきたと言うのです。四百年の間、民族浄化や言語の使用禁止もあったが、何より一九三三~三四年のホロドモールと呼ばれるスターリンにより引き起こされた人為的な飢餓で、七百万人に及ぶ人々が餓死したことをウクライナ人は皆覚えている。独裁国家に支配されることがどういうことかを骨身に染みて知っているが故に、今回は何が何でも独立を維持しなければならないと、全ての国民が強い意志を持っている。それはゼレンスキー大統領の独善ではなく、国民の総意だと言うのです。だから日本で一部の人が主張するような、「命を守るためには降伏を」などという言葉には、ウクライナ人は一切耳を貸しませんし失礼なことなのです。

元谷 日本人は他民族に長期間に亘って支配され、苦労したという歴史的記憶がないからでしょう。

務台 その通りだと思います。そして大使はウクライナの経験は日本で生きるというのです。ソ連崩壊後の一九九一年、ロシア、アメリカ、イギリスが結んだブタペスト覚書では、核を放棄することを条件にこの三カ国がウクライナの安全を保障しました。この覚書が簡単に破られ、何のペナルティーも講じられない事実からわかることは、「他国の良識を信頼して自国の安全保障を考えてはならない」ことだと大使は強調していました。さらにウクライナにはロシアという敵国しか存在しませんが、日本の周辺にはロシア以外にも中国、北朝鮮が存在している。ウクライナには近くにNATOという三十カ国からなる軍事同盟組織もありますが、日本には日米同盟しかありません。ウクライナ以上に厳しい安全保障環境にある日本が、自衛力を高めず同盟国を増やさず、国民が平和憲法さえあれば安心と言っているのはおかしい。ヨーロッパの現状を見るべきだというお話でした。また一人の高校生が将来国連に勤務したいと言うと、「今の国連の現状では勤務の意味はない。就職するまでに、国際社会の安全保障に貢献できる国連に改革されているか見極めたほうがいい」と手厳しい返事をされていました。

元谷 それだけウクライナは国連に失望しているのでしょう。

務台 私達も日頃、地域を元気にとか、福祉を高めるなどに注力しているのですが、それも国が独立していないと意味のないことです。会長が普段からおっしゃっている安全保障が国の基本という考えは、全くその通りだと思います。これからの国会議員は得手不得手に関係なく、安全保障について語れなくてはならないし、その前提として憲法問題についても真摯に議論できるようにならなければならないでしょう。

元谷 その通りだと思います。最後にいつも「若い人に一言」をお聞きしているのですが。

務台 最近若い人は元気がないと言われていますが、お金儲けではなく社会に役立ちたいという人が増えているように思います。その気持ちを大切に、どうすれば役に立てるかを具体的に実現していくよう、生きていって欲しいと思います。

元谷 私も今の若い人には、非常に期待しています。今日はいろいろと大切なお話を、ありがとうございました。

務台 ありがとうございました。