マリエタ・アラバジエヴァ氏
ブルガリア共和国ヤンボル市生まれ。1999~2000年日本の文部省の国費留学として大阪外国語大学の日本語・日本文化研修留学生に。1995~2001年ソフィア大学日本学学士号、修士号を取得。2001年ブルガリア外務省に入省。駐日および在中国各ブルガリア大使館で次席・政務部長等を経て、2021年3月よりブルガリア人女性として初の現職。ブルガリア語の他に、日本語、英語、スペイン語、ロシア語を話す。
長い歴史と文化を誇る国
元谷 本日はビッグトークにご登場いただき、ありがとうございます。アラバジエヴァさんは日本に赴任されてから、どれくらいになりましたでしょうか。
アラバジエヴァ 今日はお招きいただき、ありがとうございます。私が赴任したのは昨年の三月でしたから、約一年が経過したところです。
元谷 ブルガリアは、日本ではあまり知られていない国の一つのように思います。今日はいろいろとお国のことを語っていただき、読者に少しでもブルガリアのことを知って欲しいと考えています。
アラバジエヴァ 某食品メーカーのヨーグルト製品のおかげで、「ブルガリア」という国名は日本人の誰もが知っています。ありがたいことなのですが、それ以上のことは、皆さん知らないと思うのです。ブルガリアについて情報発信することと、私の国について日本の皆さんにより多く知ってもらうことに私は今、非常に注力しています。若い世代との繋がりは、その後長く続けることができますから、日本のどこに行く時でも、必ず大学や高校で話をする機会を設けるようにしています。
元谷 仰る通りで、もっとアピールして日本人観光客が増えるようにするのも、大使として大事なお仕事だと思います。例えば、ブルガリアはワインでも有名だとお聞きしているのですが。
アラバジエヴァ その通りです。今現在美味しいワインを生産している国だというだけではなく、ブルガリアのワイン造りには六千年の歴史があります。ブルガリアを含むバルカン半島南東部には、かつてトラキア人の文化が栄えていました。そこは世界最古のワイン製造場所の一つで、宗教儀式もワインと密接に関係していたのです。
元谷 ワイン製造にそんなに歴史があるというのは驚きですね。
アラバジエヴァ 私達は今、娯楽としてワインを飲んでいますが、昔の人にとってワインは宗教的に大切だったのです。アジア系の遊牧民族であるブルガール人が今のブルガリア人の先祖と言われています。そのブルガール人と、先にこの地に住んでいたトラキア人やスラヴ人との混血が進みました。この地域は途中五百年間、オスマン帝国による支配を受けますが、ブルガリアはその名称や言語、そしてその他の独自の文化を維持し続けて今に至ります。この文化の維持に大きく貢献したのは、ブルガリア正教の修道院の神父達でした。今の公用語はブルガリア語、主たる宗教はブルガリア正教です。
元谷 人口はどれくらいなのでしょうか。
アラバジエヴァ 日本の約三分の一の広さの国土に、約七百万人が暮らしています。
元谷 正教というのは、カトリックともプロテスタントとも異なるものなのでしょうか。
アラバジエヴァ キリスト教が西のローマ・カトリックと東の東方正教に分裂したのは、十一世紀のことです。宗教改革によってプロテスタントが誕生したのは十六世紀ですから、それよりも随分前の話になります。
元谷 キリスト教の信仰を維持しつつも、異なる民族も受け入れて、豊かな文化が形成されていったということでしょうか。混血が進むところには、聡明な人や美しい人が多いといいます。
アラバジエヴァ はい、ブルガリア人はそう言われています(笑)。
元谷 日本でも元からいた人々に加えて大陸や海から人々が集まり、大和民族を形成していきました。陸続きのユーラシア大陸では、さらに様々な交流があったのでしょうね。
アラバジエヴァ ブルガリアはヨーロッパとアジアの間にあるのです。十字軍もブルガリアを通過して、コンスタンティノープルに向かいました。さらにオスマン帝国の五百年の支配が、ブルガリアにオリエンタル文化の影響を与えました。ブルガリアは長い歴史の中で、様々な文化を時間を掛けて受け取っているのです。ですから、観光で見るべきものも非常に豊富です。ブルガリアは七世紀に建国したヨーロッパで最も古い国家の一つです。
それを次世代に伝えている
元谷 ところで少しアラバジエヴァさん個人のことをお聞きしたいのですが。非常に日本語が堪能なのですが、どこで学ばれたのでしょうか。
アラバジエヴァ ブルガリアで一番歴史のあるソフィア大学の日本語学科を卒業しました。日本の文部科学省の奨学生として、大阪外国語大学でも一年間学びました。大阪外国語大学はその後大阪大学と統合され、大阪大学外国語学部となっています。ここでは現在、ブルガリア語も教えているのですよ。
元谷 日本でブルガリア語が学べる大学はいくつあるのでしょうか。
アラバジエヴァ 五カ所です。大阪大学の他には、北海道大学、東京外国語大学、創価大学、神戸市外国語大学になります。
元谷 どの大学もブルガリアから来た先生が教えているのでしょうか。
アラバジエヴァ 関西の二つの大学はそうですね。北海道と東京の大学では、ブルガリア語を学んだブルガリア専門家の日本人の先生が教えています。
元谷 ブルガリア語を学ぶ日本人学生が増えるといいですね。
アラバジエヴァ 私もそう願っています。一方、ブルガリアは非常に親日の国で、何十年も前から小学一年生から日本語が学べる学校もあります。ヨーロッパで日本語を勉強している学生が人口あたりで一番多い国が、ブルガリアなのです。
元谷 それは素晴らしいことです。日本政府もブルガリアの日本語教育を支援しているのでしょうか。
アラバジエヴァ はい、行っています。またボランティアで日本語教師となっている日本人もいます。
元谷 そもそもどうして、ブルガリアには日本に興味がある人が多いのでしょうか。
アラバジエヴァ それをいつも聞かれるのですが…。ブルガリアと日本は地理的には非常に離れていますし、言葉も全く異なります。これは私の個人的な意見なのですが、地理的条件や言葉、文化を越える何らかの精神的な繋がりが、日本とブルガリアにはあるように感じてならないのです。
元谷 どちらの国も、長い歴史があることが関係しているのかもしれません。先程紀元前のトラキア人からの歴史をお聞きしたのですが、日本も今年で皇紀二千六百八十二年と、紀元前からの歴史が伝えられています。戦略理論家のサミュエル・ハンチントンが世界の主要な文明の八つの分類の中の一つに日本文明を挙げるほど、ユニークな文明を歴史によって築いてきたのです。
アラバジエヴァ 私は自分の意志で日本語を学び、日本との関わりは二十五年にも及びます。では、日本のどこが好きなのか。今の日本はとてもモダンな国なのですが、古くからの伝統をきちんと維持し、次世代に上手く伝えている国だと思うのです。そこを非常に尊敬しています。
元谷 確かに日本人は伝統を大切にしますね。
アラバジエヴァ ブルガリア人も、自国の長い歴史を誇りに思っています。世界で一番古い金細工がどこで発見されたかご存知ですか。実はブルガリアなのです。このことは全然日本では知られていません。黒海に面したブルガリア最大の港町ヴァルナにある銅石器時代墓地で、一九七二年に発掘された金の副葬品がそれで、紀元前四千六百年に作られたものだと言われています。高度な技術で作られた、非常に美しいものですよ。
元谷 内陸国ではなく、黒海に面しているということで、多くの文明との交流が活発だったのでしょうね。
アラバジエヴァ そうかもしれません。黒海はボスポラス海峡しか出口がない、湖のような海です。九世紀にブルガリアが最も領土を広げた時には、黒海、エーゲ海、アドリア海の三つの海に面していました。この頃がブルガリア文化の黄金時代と言えるでしょう。
元谷 そんな時代もあったのですね。
動物だけではなく人間も
アラバジエヴァ またブルガリア人がもう一つ誇りにしていることに、キリル文字の発明があります。当時、文字が使用されていなかったスラヴ語圏の国々に正教を布教するために、九世紀にキリルとメフォディの宣教師兄弟が考案しました。ブルガリア帝国の庇護を受けながら、キリル文字はすぐに広く普及していきました。
元谷 音声だけの言語では、語り部を作る以外に次世代に文明を残す方法がありません。文字の誕生というのは、一つの文明にとって非常に大きな意義があったと思います。そして周辺国にも、文字を通して文明が広がっていく。日本の場合もそのような形で大陸から様々な文化が流入してきたのですが、纏足や宦官などの制度は入ってこなかった。これは海を隔てることで、日本に合うものだけを選別することができたからではないでしょうか。ヨーロッパであれば、イギリスと同じなのかもしれません。他の文明からいいものは取り入れて、長い時間を掛けて日本独自の文明を発達させてきたのです。ヨーロッパは海に囲まれた日本以上に鬩ぎ合いが激しかったですから、生き残るには相当な知恵が必要だったでしょう。
アラバジエヴァ どの国も他国からいろいろな影響を受けますが、一番大切なのはそれを吸収する柔軟性ではないでしょうか。日本もブルガリアもそれがあるのだと思います。
元谷 もう赴任して一年以上ですから、日本国内をいろいろと巡られたのではないでしょうか。
アラバジエヴァ 新型コロナがありましたから、思ったようには行けなかったです。昨年の十一月には沖縄でヨーロッパ十カ国の観光と物産展があり、ブルガリアもワインやローズヒップジャム、陶器を出品しました。それ以外では徳島、栃木、群馬、福島の各県も訪問しました。どこに行っても温かく歓迎され、とても感謝しています。
元谷 広島には行かれましたか。
アラバジエヴァ 大阪外国語大学に留学している時に行きました。京都や奈良、神戸や姫路もその時に訪れることができましたね。今年は広島の平和祈念式典にも参加する予定です。
元谷 日本で行かれた所で、特にお好きなのはどこでしょうか。
アラバジエヴァ どこも素晴らしかったのですが、京都はやはり大好きですね。東京の近くであれば、伊豆が気に入っていて家族で何度か訪れています。海岸の雰囲気がブルガリアに似ている感じがするのです。ブルガリアの東部の黒海沿いには、約三十kmごとにそれぞれ特徴を持った街が出現して、飽きることがありません。またブルガリアは、ヨーロッパで二番目に温泉が多い国なのです。
元谷 温泉が多いとは、そこも日本と似ていますね。温泉が多い国は火山国であることが多いのですが、ブルガリアもそうなのでしょうか。
アラバジエヴァ ブルガリアの温泉は火山性ではないのです。ですから幸運にも、火山も地震もブルガリアにはありません。源泉が二百以上あり、ホテル等が整備されています。そこへ日本と同じように、家族や友達と一緒に訪れるのです。温泉療養も盛んに行われています。一番高温の温泉では一〇三度のお湯が噴出していて、卵があっという間に温泉卵になります。
元谷 日本でも箱根の大涌谷の「黒たまご」のような、温泉で作るゆで卵の名物がありますね。火山も地震もないのに温泉があるのは、羨ましいです。ところで、日本とは別の国に赴任されたことはあるのでしょうか。
アラバジエヴァ 中国にいました。北京に二年、上海に三年でしたね。
元谷 中国と日本は国の地理的距離は近いですが、文化が全く異なりますし、考え方が違います。私はあまり好きな国ではないのですが。いいところだけを見る観光とは異なり、どの国でも何年かそこで暮らすと、歴史や人々の気質等いろいろな側面が見えてくるのではないでしょうか。日本はずっとほぼ一つの民族だけで成り立ってきた国で、他の民族に占領されたことも、先の大戦直後の七年間以外はありません。そのため、天皇制がずっと継続してきました。天皇の血筋が途絶えなかったのも、いろいろ内紛はあったにせよ、基本は争い事にかまけないで、一つにまとまっていこうという意思があったからではないでしょうか。温暖で四季のある気候風土で食べ物も豊富と、不自由が少なかった日本ならではの、一体感のある文明が築かれたのだと思います。砂漠のような資源を奪い合う環境であれば、もっと競争的な文明になるでしょう。北欧を訪れた時にバイキング記念館に行ったのですが、地中海にまで遠征して略奪行為を行ったことを、誇らしげに展示してありました。これも寒くて農作物が育たなかった国ならではの文化なのでしょう。こう考えると、弱肉強食なのは動物だけではなく、人間もそうです。
アラバジエヴァ そうかもしれませんね。
日本との共通点の一つ
元谷 ヨーロッパは周辺に様々な民族や国があり、鬩ぎ合いで生き残るのが大変だったのでしょう。今もそうですが、戦いに強いことよりも、そもそも敵から攻められないような力を持つことが大事なのです。その点日本は、周囲が海という天然の防御網と武士という軍事を担う層が政権を運営する時代が長かったことも、国の防衛に役立ったのだと思います。しかし大陸国家の存続は、本当に大変でしょう。
アラバジエヴァ 今でも複雑な問題はあります。しかし国の地理的な場所を変えることはできないので、できるだけのことをするしかありませんね。
元谷 ブルガリアにも軍隊はあるのでしょうか。
アラバジエヴァ はい、あります。またEUとNATOのメンバーにも入っています。
元谷 それでは安心ですね。
アラバジエヴァ ソ連崩壊の後、例えば隣国では紛争が勃発したのですが、ブルガリアではそのような戦いはなく、平和裏に社会主義から民主主義に移行しました。
元谷 力のある政治家が、巧みに政権運営を行ったということでしょう。
アラバジエヴァ そうだと思います。そして今でも非常に安定した国です。このことは観光客にとっても、ビジネスマンにとっても大変重要なことだと思います。
元谷 経済的にはEUという市場があるのが大きいですね。ヨーロッパは鬩ぎ合いの場から助け合いの場に変わったということでしょうか。
アラバジエヴァ その通りです。ブルガリアの人口は約七百万人でしかありませんが、ここを通して五億人のEU市場にアクセスすることができます。またブルガリアは昔から農業が盛んで、食べ物が美味しいことで知られています。ワインの他にもチーズやはちみつ、ジャムが有名です。また近年IT産業も盛んで、IT専門家が世界で三番目に多い国にもなっています。
元谷 それは凄いです。
アラバジエヴァ ブルガリアはそもそも多くのエンジニアや数学者を輩出している国です。世界初のコンピューターとされる「ABC」を一九三九年に制作したのは、ジョン・アタナソフというブルガリア系アメリカ人の大学教授でした。
元谷 それも知りませんでした。技術に強いことも、ブルガリアと日本の共通点かもしれませんね。いつも最後に「若い人に一言」をお聞きしています。
アラバジエヴァ ブルガリアのことをもっと知って、そして是非訪れてみて欲しいです。
元谷 ブルガリアはどのように訪れれば良いのでしょうか。
アラバジエヴァ 航空機の直行便はないので、ヨーロッパのどこかの都市でトランジットをする必要があります。私の個人的なオススメはイスタンブール経由です。イスタンブールからブルガリアの首都・ソフィアまでは、飛行機で一時間です。ブルガリア人は皆親切ですし、日本人観光客は大歓迎です。
元谷 今年は難しくても、来年には是非行ってみたいと思います。
アラバジエヴァ 六月初旬のバラの季節がいいですよ。非常に貴重で「液体の金」とも呼ばれるローズオイルの原料には、ダマスクス・ローズという特殊なバラが使われるのですが、世界のローズオイルの生産量の半分をブルガリアで作っているのです。
元谷 では六月に。今日はいろいろとお話いただき、ありがとうございました。
アラバジエヴァ こちらこそ、ありがとうございました。