日本を語るワインの会211

ワイン211二〇二○年十二月九日、代表邸で恒例「日本を語るワインの会」が行われました。かつては戦闘機パイロットとしてF‐4ファントムで大空を駆け巡っていた元航空自衛隊空将で織田コンサルタント代表の織田邦男氏、仏ソルボンヌ大学卒業のエリート外交官でありながら、日本で大ブレイクしたタレントのオスマン・サンコン氏、そのサンコン氏の活動を支える歌手で一般社団法人日本ギニア友好協会会長の北山みつき氏、サンコン氏や千葉真一氏のマネジメント業務の他、九州でホテル経営も行う株式会社アストライア代表取締役の鈴木哲也氏をお迎えし、日本の外交や防衛について、激論を交わしました。
航空自衛隊の基地を使えば
イージス・アショアは可能
 防衛省の制服組の官僚は自分が自衛隊を支配している感覚があり、自身の保身ばかり考えている。イージス・アショア断念に関して、その経緯も酷いが、結局誰も責任を取らず、イージス艦を増やすという話になろうとしている。だが、そもそものイージス・アショアの目的である「二十四時間、三百六十五日の警戒」が忘れられていないか。ブースター落下の問題が断念の一つの理由になっているが、配備場所を陸上自衛隊の基地に限定しなければ、青森県の車力、秋田県の加茂、山口県の見島、福岡県の芦屋等、PAC3を配備している航空自衛隊の高射隊基地も候補となる。これらにイージス・アショアを配備すれば、ブースターは海に落ちるのだ。またそもそも実績があり価格も安いレーダー・SPY6ではなく、開発途中で価格も高いSPY7を選定したことも間違いだ。防衛官僚は検討したと言いながら、全く何も検討していない。
 航空自衛隊の次期主力戦闘機であるF‐35は一機二百億円だ。現在の主力戦闘機であるF‐15は国内でライセンス生産をしていることもあるが、それでも一機百億円と非常に高価。アメリカはこういうことはビジネスライクだ。しかし日本は国益のみを考えて、アメリカを上手に利用することを考えるべきだ。様々なアメリカ軍の技術を導入しているイージス艦は、アメリカ海軍に納入されるのとほぼ同じ金額で海上自衛隊に納められていて、戦闘機と状況が全く異なる。それは海上自衛隊がいわばアメリカの第七艦隊の一部として運用されていて、これがないと米艦隊全体が機能しないからだ。
 日本では社会全体が左に傾いているので、世界では中道とされる考え方が、右翼と呼ばれる。しかし昔に比べればかなり様子は変わった。織田氏が防衛大学に入った一九七〇年、防大生は税金泥棒と罵倒された。今防大生をそう呼ぶ人はいないし、災害時の活躍も知っていて、自衛隊を頼りにしている人も多いだろう。早く憲法を改正して自衛隊を国軍とし、真っ当な国にならなくてはならない。しかし安倍首相でも憲法改正は無理だった。病気で任期途中で辞任した安倍氏だが、体調は随分回復したようだ。代表は安倍氏が最初に首相になる前から懇意にしており、よくディベートを行っていた。安倍氏は頭が良く、言うことが的確だ。今後日本と周辺国との関係がにっちもさっちもいかなくなれば、安倍待望論が出るのではないか。桂太郎の前例もあるので、再々登板も夢物語ではないだろう。防衛大臣の岸信夫氏は安倍氏の弟だが、これまで大臣経験がなく実績がない。だから防衛官僚の言いなりになっている。やはり防衛大臣をやるには自信と知識が必要であり、それを得るためには勉強をするしかない。
 アパホテルは、新型コロナウイルス感染症の軽症者および無症状者の受け入れ施設として、政府からの要請を受け真っ先に手を挙げた。代表はオープン直前や間もない新しい大型ホテルを提供したが、これが「新しくて気分が明るくなる」「部屋数が多いと効率的に管理できる」と感染者にも管理者にも非常に好評だった。
「社会信用システム」で
中国政府は国民を統治
 中国がどんどん力をつけてきて、尖閣諸島を狙っている。何か手を打たなければならない。今すぐにできるのは、アメリカ軍の射爆撃場としての利用を認めている尖閣諸島の久場島と大正島で、日米が爆撃の共同訓練を行うことだ。中国に相当の圧力を掛けることができるだろう。これは日米合同委員会で決定できることだから一日で決められる。アメリカ軍も、F‐4時代にはよく実施していた久場島と大正島での演習を長く行っていないが、それは主力戦闘機がF‐15に変わり、ミッションが爆弾投下から空中戦闘に変わったからだ。
 中国は力の信奉者だ。自国の力が弱い時は揉み手をしてくるが、力を持つと掌を返す。本当に品格がない。習近平主席は十年早く掌を返してしまった。鄧小平が根付かせた韜光養晦(とうこうようかい)で中国は成長、あと十年耐えていたらアメリカを凌駕できたのに、習近平路線がアメリカに火を付けた。こうなるとアメリカは徹底的に中国を叩き潰すはずだ。これまでの主席の十年の任期を撤廃した習近平主席は辞めれば殺されるから、もう一生辞められない状況だ。天安門広場の毛沢東の写真を自分のものとすげ替えるまで、主席を続けるだろう。
 十四億の国民を統治する中国政府の大きな味方となっているのが、IT技術だ。新疆ウイグル自治区で使われているような至るところにある監視カメラと、顔認証による監視システムは一帯一路で輸出され、世界の独裁国家の必需品となっている。しかし中国人は「治安が良くなった」と、この監視システムを支持しているから驚きだ。信号無視しても万引してもわかってしまい、「社会信用システム」での自身のスコアが落ちる。このスコア次第でパスポートが認められたり、借金の金利が下がったりするのだ。
アメリカの空母では
毎日のように事故がある
 独裁者が独裁者でいられるのは、国民の生活が今日より明日、明日より明後日、と豊かになっているからだ。中国もそれで人々を統治してきたが、経済が右肩下がりになると危険だ。中国には農村戸籍と都市戸籍があり、農村戸籍は自由が制限されていて格差を生み出している。都市戸籍の人が約四億人、その中の約八千万人が共産党員であり、彼らが農村戸籍の人々から収奪した甘い汁を吸っている。また農村戸籍の人々も諦めの境地でその状況を変える気概もない。しかし長年一人っ子政策を実施した中国は、今後日本以上の超高齢社会になり、人口ボーナスも失ってこれまでのような経済成長が望めなくなる。
 二〇〇七年、中国を訪問したアメリカ太平洋軍司令官のキーティング海軍大将が、「中国が空母開発を決めれば、アメリカも協力する」と発言し報道された。その真意を改めてハワイのキーティング大将本人に確認すると、如何に空母運用が難しいかを教えてあげようとしたという。実際、一九四九〜一九八九年の四十年間で、アメリカ海軍は空母において一万二千機の戦闘機を失い、それに伴って八千五百人のパイロットが亡くなっている。アメリカ海軍が凄いのは、毎日のように戦闘機が落ちている中でも屍を乗り越えるように、パイロット達がトップガンを目指して技量を磨く気概を維持していることだ。戦闘機が空母から発進する際には、カタパルトという射出機を使用するが、それが近年蒸気駆動から電磁駆動に変わった。しかし電磁駆動は故障続き。カタパルトの故障と発進の失敗は、パイロットにとっては即、死を意味する。今アメリカ海軍では、空母のカタパルトを蒸気駆動に戻そうとしているという。
 真珠湾攻撃でドックや石油タンクを攻撃しなかったのはなぜか。それはやはり非戦闘員は殺さないという武士道だったのだろう。帝国海軍の潜水艦は民間輸送船を沈めていない。しかし逆にアメリカの潜水艦に日本は輸送網を壊滅的に破壊された。
「専守防衛」という
軍事用語はあり得ない
 一九九九年の航空自衛隊入間基地のT‐33の墜落事故では、エンジントラブルとなった機体を民家を避けて入間川に持っていくため、パイロットが最後まで操縦を続けた。そのためにベイルアウト(脱出)が間に合わず、二名の航空自衛官が殉職した。それ以前にあったF‐86の事故の時もパイロットがぎりぎりまで機を川に誘導し、ベイルアウトでパラシュートが開くと同時に着地して一命をとりとめたということがあった。一方一九七七年、厚木基地を飛び立った直後にトラブルとなった米海兵隊のF‐4の場合、乗員はすぐにベイルアウト、機体は住宅地に墜落し、子供三名が死亡、その母親は大火傷を負った。当時防衛施設庁の次長だった織田氏のおじをはじめとする四十二人が、母親に移植するための皮膚を提供した。すぐにベイルアウトするかしないかは、お国柄の違いなのだろうか。一九六九年には航空自衛隊小松基地のF‐104が、落雷が原因でエンジンがストップして墜落した。冬の北陸は雷が多く危険だ。名古屋の小牧空港はすぐ近くに民家の密集地があり、現役時代の織田氏はここを離陸する時、エンジンが止まったらあの山に突っ込もう、この空き地に突っ込もうなどと常に考えていたという。
 護衛艦「いづも」の空母化は愚の骨頂だ。日本が空母を保有するのであれば、その目的は太平洋の制空権、他国へのパワー・プロジェクション(戦力投影)、威信の三つだ。しかし「いづも」はそのどれをも満たさない。たった十四機の搭載機では、太平洋の制空権など維持できない。戦力投影もそれ用に作っていないので無理だ。空母化は素人の政治家が考えたこと。専門家の意見をしっかりと仰ぐべきだ。これは中国と同じ過ちであり、中国の空母も役に立たない。
 「専守防衛」という言葉は止めるべき。これは本来は「戦略的守勢」と呼ぶべき概念で、相対的に相手より先に立たないという意味だ。相対的であるから、相手にこちらが迎撃できないミサイルを撃ってくる兆候があれば、そのミサイル基地を攻撃することも戦略的守勢の範囲内だ。絶対に敵地に入って攻撃してはいけないという話ではない。そもそも「専守防衛」は英訳できない。こんな軍事的な概念はあり得ないのだ。
 今年で代表とホテル社長は結婚五十年、不動産と建築の事業を始めて四十九年、ホテル事業を始めて三十六年になる。サンコン氏が来日したのが四十八年前で、大使として天皇陛下の認証を受けたのがその翌年だった。