Big Talk

良いと思ったら徹底的にその世界を極めるVol.338[2019年9月号]

文化庁長官 宮田亮平
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APAグループ代表 元谷外志雄

伝統ある蝋型鋳金作家の家に生まれながら、異なる鍛金の道を極めて評価を獲得、東京藝術大学学長を経て文化庁長官を務める宮田亮平氏。イルカをモチーフとした作品で知られる氏に、芸術家として持ち続けている情熱の根源等をお聞きしました。

宮田 亮平氏

1945年新潟県佐渡市に蝋型鋳金作家の2代目宮田藍堂の3男として生まれる。1970年東京藝術大学美術学部を卒業、1972年東京藝術大学大学院美術研究科工芸専門課程鍛金専攻修了。2005年より東京藝術大学学長として2期10年に渡り大学経営を務めた後、2016年文化庁長官に就任。イルカをモチーフにした「シュプリンゲン」シリーズなどの作品で知られ、「日展」内閣総理大臣賞や「日本現代工芸美術展」内閣総理大臣賞、第68回日本芸術院賞など受賞多数。

金属を叩いて造形する芸術
「鍛金」を極める

元谷 本日はビッグトークにご登場いただき、ありがとうございます。ここで対談するのは国会議員や各国の駐日大使など、政治や外交関連の方が多いのですが、今日は芸術という私の最も弱い部分のお話をお聞きしたくて、宮田さんをお招きしました。

宮田 ありがとうございます。

元谷 私と同じく北陸地方の新潟県のご出身というのも親しみを感じます。私は、北陸は新潟県、富山県、石川県、福井県の四県と考えていて、新潟での事業も積極的に展開してきました。

宮田 新潟県民としては嬉しいですね。北陸三県と仰る方が結構多いものですから。

元谷 新潟県は全国の都道府県の中で面積が五番目に大きく、人口が約二百三十万人に上ります。この新潟県を加えずに三県というのはおかしいと思うのです。

宮田 その通りだと思います。

元谷 日本海側に位置する北陸地方は大陸に近く、また北前船が運航されていましたから、情報も人も物も、全てこのエリアを経由していったのです。歴史的に見れば「表日本」のはずなのですが、なぜか今、裏日本と言われます。

宮田 確かに北前船は重要なインフラでしたね。

元谷 今でもそうですが、船は安全に遠くまで大量の物資や人を運搬することができます。先日、私はベトナムに行ってきたのですが、ダナン近くのホイアンという古都にも立ち寄りました。十六世紀には御朱印船がこの街と日本とを行き来し、日本人町もあったとかで、その時代に日本人が作った屋根付きの橋も残っています。御朱印船の模型も見たのですが、鎖国令が出る前にあの程度の船で海外と交易をしていたのかと思うと、かつての日本人は非常に勇気があったなと感じました。十六世紀にはまた、キリシタン大名の名代として送られた天正遣欧少年使節が、ローマなどヨーロッパを訪れています。

宮田 その通りです。その頃の日本人の勇気には驚かされることが多々ありますね。

元谷 私は日本人の良いところは、海外から流入するものでも日本に合うものは取り入れますが、合わないものは取り入れないことだと思います。また日本文化は全て外国に由来するのではなく、日本で独自に発達したものも多いでしょう。

宮田 日出ずる国、シルクロードの終着点でもあることで、私も日本人の選択眼は常々凄いと感じています。遺伝子にそれが組み込まれ、今にまで続いているのではないでしょうか。

元谷 ところで、宮田さんの芸術家としての専門は何になるのでしょうか。

宮田 私の実家は佐渡で代々、地域独自の伝統工芸である蝋型鋳金という、蝋で作品の原型を作って、それを土で覆い乾かし、蝋を溶かして流出させた空洞に銅合金を注入するという技術を使って、作品を制作しています。しかし私は金槌を使って金属を加工する鍛金という技術を東京藝術大学で学び、金属加工の幅広い技術を駆使して、それで作品を作っています。

元谷 鍛金の技術は日本だけで発達したものでしょうか。

宮田 鍛金というのは、石器時代に物を叩いて造形したことから始まっていますので、その起源は世界中どこにでもあり、それぞれに特徴を持っています。日本で鍛金技術が進んだ理由は、資源が少ないことに帰するところにあります。叩いて造形する鍛金は、金属資源を有効に活用することができるのです。また、金属は種類によってその性格も全く異なり、だからこそ多様な表現ができることも大きな魅力です。

元谷 日本刀を鍛えるのも鍛金の一種なのでしょうか。

宮田 はい、そうです。

元谷 私は日本刀の制作技術は、世界最高だと思っているのですが。

宮田 他に類を見ないのは間違いありません。強さと柔軟性を兼ね備えるという、理屈に適った造りになっているのです。

元谷 私は常々、経営者も日本刀のように剛柔を兼ね備える必要があると感じています。

宮田 なるほど、まさしく代表が築き上げてきた哲学と重なるものがありますね。

人とは異なる道を行き
勝ちパターンを築く

宮田 そして、創業からもうすぐ五十周年だとお聞きしています。

元谷 再来年で五十年になります。私もいつのまにか年齢を重ねてしまいました。自分ではいつまでも三十八歳のつもりなのですが、良い年齢となりました。

宮田 三十八歳に何か意味があるのでしょうか。

元谷 私は二十七歳で起業し、三十代で今の事業の基礎を築いたのですが、これは波乱万丈で阿修羅のごとく立ち回る必要のあった時代でした。この時の戦いを勝ち抜いたから、今があると考えています。

宮田 人生の興味深い戦いだったのですね。どういう戦いだったのでしょうか。

元谷 弊社の場合、注文住宅から建売住宅、賃貸マンション、分譲マンション、そしてホテルと事業を展開してきたのですが、不動産を扱うに際して、どうしてもその土地で幅を利かせている「顔役」との折衝が必要となるのです。彼らの縄張り意識の根拠は、伝統とか宗教など非常に曖昧でした。不動産を取り扱うには、宅地建物取引業の免許を都道府県知事か国土交通大臣から受けることが必要です。私はまず石川県知事の免許を得たので、「石川県はオレの縄張りだと県が保証してくれている」と公的なお墨付きによって、顔役らに対抗したのです。こうして戦いに生き残って創業地である石川県の小松市から金沢市、北陸全域を経て、東京、全国へと事業を広げてきました。また他の人と同じようなことをしていては潰されますから、違うことを行って勝ちパターンを作らないと。私は県下有数の進学校だった県立小松高校にいたのですが、大学は慶應義塾大学経済学部の通信教育課程で学ぶことにして、小松信用金庫に入社しました。大学で学ぶだけでは時間の無駄と考え、理論は大学で、実践を信用金庫で学ぼうと考えたのです。

宮田 私も五十年、教育の世界におりましたが、一般的に大学はやはり実践に欠けます。理論が立派になればなるほど、それをどう活用するかが難しくなるのです。一方で東京藝大では理論と実践が両立する教育に取り組みました。卒業後に学生に自立してほしい、制作した作品の社会からの評価を知ってほしいとの思いから、学長時代には学生や教員によって制作された作品を展示・販売する施設である、「藝大アートプラザ」を開設しました。

元谷 私の最大の強みは住宅産業に参入したことです。創業当時は、男は厄年までに自分の家を建てるというのが「男の甲斐性」と言われていました。。皆早く家を建てたいのですが、当時の仕組みでは建築資金の半分が現金で貯まらないと、残り半分の資金を銀行から借りることができなかったのです。しかも返済条件は元金均等で、若くて給料が少ない時に多額の返済を行わなければならない不合理な形でした。手元にお金がなくても、そして返済額が一定のローンで家を建てられるようにすればきっとヒットすると考え、元利均等返済の長期住宅ローン制度を作ったのです。

宮田 私も金利にはとても嫌な思い出が。若い時にローンで家を購入、一生懸命返済してようやく終わったかと思ったら、完済したのは利子だけだったことがわかり、愕然としたことがあります。

元谷 昔は今と違い、借金の利率も非常に高かったですからね。

宮田 その住宅ローンに目を付けたことが素晴らしい。しかし、よくそんな制度を作ることができましたね。

元谷 当時の大蔵省と折衝して創設したのですが、これには理由がありました。その頃、大蔵省は地方の金融機関を減らすために、合併を促進する方針を立てていました。そこで小松、美川、石川の三つの信用金庫を一つに合併すべく密命を受けた方が、大蔵省北陸財務局から私が当時勤務していた小松信金の副理事長としてやってきたのです。一方私は労働組合の執行委員長で、北陸一体の信用金庫の労働組合の上部団体の最年少副議長も務めていて、合併が実現するかどうかは、私に懸かっていたのです。やってきた大蔵官僚も私にやられたと言って、手ぶらで帰っては将来の出世の芽が失われます。そこで私は彼と、合併と引き換えにいくつかの条件を「握った」のです。長期住宅ローン制度創設の他には、名前の借用です。私の新しい会社は「信金開発」と名付けました。また大蔵官僚には取締役会長になってもらい、私が「代表」取締役専務となりました。株式も私が六〇%、信金が四〇%保有となっていましたが、信金分は名義株で実質私の一〇〇%出資の会社でした。そうやって信用金庫の信用を借りて、住宅事業をスタートさせたのです。当時の住宅産業は大工見習いからか、工務店の営業職から参入する人が多かったのですが、私のように金融機関から参入した人は珍しかったですね。

宮田 痛みを肌身で感じた立場としては、とても魅力ある交渉力ですね。

元谷 創業した会社は大成功しました。私は当初、信用累積型経営を志していました。住宅産業でもまず社名を知ってもらわないと…と、テレビCMを行ったのですが、料金が高いですから深夜枠しか確保できず、実際には誰も観ていません。しかし営業時にテレビで宣伝している信金開発ですと言えば、お客様からの信用は増すのです。嘘は絶対に駄目ですが、「CMは実は深夜の放送で…」など、何から何まで本当のことを言う必要もありません。

無駄な金は使わないが
必要な金はきっちり出す

宮田 お聞きしていると代表の人生はドラマそのもの。シナリオを書いて、監督兼主役で映画を作ってみてはいかがでしょうか(笑)。

元谷 昔、将来何になりたいかと聞かれて、レーサーか映画監督と答えたことがあります。海外旅行が好きなこともあって、洋画も大好きでした。それもハリウッド映画ではなく、フランスやイタリアの映画ですね。アラン・ドロンにも憧れていて、彼の主演した「太陽がいっぱい」など、何度も観ました。またデザインに興味があって、ファッションや自動車、それらの広告もよく参考にしていました。事業は最初、注文住宅からスタートしたのですが、収益性が良い建売住宅に移行していきました。多くの住宅業者は同じ形の家をずらりと建築するのですが、一つなら素晴らしいデザインも、同じものが並ぶと気持ち悪いのです。私は街並みを考えて、異なるデザインの家が連なる建売住宅を販売したのです。

宮田 いわば街をデザインしたということですね。最も弱いとおっしゃっていましたが、代表も十分芸術に造詣が深いですね。立派な芸術家です。

元谷 また事業で大切なことは「勝てる相手と戦え」。弱い者いじめのように聞こえるかもしれませんが、勝利の確信の下に戦争をすべきということです。

宮田 そのためには圧倒的な情報量が必要です。

元谷 私は小学校から新聞が趣味で、読んでいてわからないことがあればすぐに「現代用語の基礎知識」で検索し、最後には「現代用語の基礎知識」を最初から終わりまで読み通していました。この習慣が、今の知識のベースになっています。新聞を読み始めたのは、中学生の時に亡くなった父が、食事の際に全国紙と地方紙の両方を読んでいたからです。考えてみると、私の成功の最大の要因は父が早くに亡くなったことかもしれません。

宮田 それはどういうことでしょうか。

元谷 父がいればその権威に従わざるを得ず、高校を出て就職とか起業なども、自由にできなかったかもしれません。昔は家父長制ですから、父の死後は長男の私が家長だという意識で生きてきました。子供の頃から自ら金を稼ぎ、一家の家計のやり繰りをしてきたのです。一番儲かった仕事は、自転車預かり業でした。家の近くに大相撲や陸上競技、花火大会等様々なイベントが行われる末広競技場があったのですが、人々の主要な足だった自転車の置場が整備されていませんでした。ここに目を付け、一台十五円で自転車を預かったのです。次第に利用者が増え、多い時には一日二百台を預かることになりました。売上三千円は当時のサラリーマンの平均的月給に近いもので、それが一日で手に入ったのです。地元のヤクザがみかじめ料を求めてやって来たこともありました。引いたら負けだと心に決めて、「元谷家の主として、生計のためにやっているのだ」と譲らなかったら、ヤクザは帰っていきました。こうして金は自分の創意工夫と力で稼ぐものだという考えが子供の時から染み付いたことが、後の事業に役立ったのだと思います。

宮田 そんなこともあったのですね。

元谷 建売住宅で儲かるようになったのですが、起業後の十年間は利益を信用に、融資を増やすことで事業を拡大していきました。十年経った後は、蓄積した資産を背景に事業を展開しようということで、それまでの賃貸マンション事業から分譲マンション事業に転換しました。マンションが完売すると一気に大きな利益が生まれますから、節税のためには利益を減価償却で損益通算する事業が必要になってきます。それがホテルだったのです。どうすれば儲かるホテルを作ることができるのか。まず誰をターゲットにするのかを考えました。一週間で一番多いのは平日です。平日に利用するのは出張での宿泊客です。そこからターゲットをビジネスマンに絞りました。また宿泊費は会社の経費で賄われますが、ホテルを選ぶのは宿泊客本人です。宿泊客にご褒美をあげるようにすればお客様が集まるのではと考え、五万円分宿泊すれば、宿泊客本人に五千円のキャッシュバックがあるという会員システムを当初から導入しました。この目論見は見事的中しました。

宮田 私はアパホテルの大浴場が好きなのですが、部屋数の多いホテルの場合には大浴場を作った方が、水道代などが安くなると以前お聞きして、驚きました。

元谷 三百室以上のホテルだと、大浴場を作ったほうが光熱・水道費が安くなります。しかも大浴場付きのホテルは人気があります。

宮田 またAPAのロゴも、私達芸術家の目から見ても非常に目立って美しく、覚えやすくできています。

元谷 ブランディングの世界的な企業であるサンフランシスコのランドー社にCIを依頼して作成した社名とロゴです。ネット社会の到来を考え、短く覚えやすく、五十音でもアルファベットでも最初に来る名前にしました。

宮田 またJAPANからJとNを取った真ん中にあるのがAPAです。これも素晴らしい。

元谷 無駄金は使わない主義なのですが、出す時には出すというのがポリシーです。それに従って、多額の費用を必要とするランドー社にCIを依頼したのですが、その価値は十分にあったと考えています。

宮田 その考え方は、私達芸術家が物事を決断する時に似ています。

自分に自信を持って
失敗を恐れず行動する

元谷 宮田さんの素晴らしい作品の中で最も人々に馴染みがあるのは、東京駅の銀の鈴ではないでしょうか。

宮田 そうですね。待ち合わせ場所として、いつも多くの方が利用されています。初代の銀の鈴は一九六四(昭和三十九)年に東海道新幹線が開通し東京オリンピックが開催され、東京駅の利用者が急増し、乗客の待ち合わせの目印となるものがなかったことから、駅員さんが制作したものです。今の私が二〇〇七年に制作した銀の鈴は四代目になります。

元谷 この銀の鈴にもあしらわれているイルカのモチーフは、いかにも宮田さんらしい意匠ですね。

宮田 十八歳の時の冬でしたが、実家の佐渡から大学受験のため、新潟に向かう連絡船に乗っていました。「試験に落ちたら帰れない」と悲壮感に包まれていたその時、船の脇を何十頭ものイルカが猛スピードで、飛ぶように泳いでいるに気づき、まるで私を励ましてくれているように感じました。その後、四十歳代半ばで一年間ドイツに派遣され、帰国した翌年、佐渡に帰省していた途中で、当時の鮮明な記憶が蘇り、あの躍動感を表現したいと、イルカをモチーフとした「シュプリンゲン」(ドイツ語で「飛翔」)シリーズの制作を始めることになりました。

元谷 そういう制作経緯だったのですね。宮田さんのイルカには強い生命力を感じます。

宮田 二〇〇四年に日本橋三越本店の新館のエンブレムを制作しました。七メートル×四メートルの大きさの作品です。三越ですから普通はライオンだと思うのですが、やはり「越」のマークの周りをイルカが泳ぐデザインにしてしまいました(笑)。

元谷 好きなものを制作して仕事になる。これ以上の喜びはないですね。

宮田 それは代表も同じではないでしょうか。

元谷 その通りかもしれません。羽田空港から飛び立つ時に自分が建設したホテルやマンションが見えると、あれもこれも作ったなあと嬉しくなります。今三十階建て以上を四棟、二十階建て以上を六棟等、同時に五十二棟、一万九千室のホテルを建築・設計中です。そして業績は絶好調。遊びを仕事に、仕事を遊びにしている感覚です。

宮田 素晴らしいことです。

元谷 好きなことをやって、好きなことを言って、誰が何と言っても信念を曲げない自信があります。中国政府にホテルの部屋から、南京大虐殺はなかったと記した著書を撤去しろと言われても、応じませんでしたし。

宮田 良いと思ったら徹底的にその世界を極めることが大切です。それは芸術においても、ビジネスにおいても同様ではないでしょうか。

元谷 一旦極めると、今度は「破格」が評価されるようになります。ピカソもいきなりあのような抽象画を描いたのではなく、若い時に具象画を極めた上での抽象画だと聞いています。まず極める、そして外す。全部に整合性があるのではなく、極めたところに外しが生まれて、初めて一流と言われるのではと思ったりするのですが。

宮田 確かにピカソの若い頃のデッサン力には恐ろしいものがありますね。

元谷 だからこそ世界のピカソになったのでしょう。

宮田 私もそろそろ外さないと(笑)。

元谷 宮田さんが今後も素晴らしい作品を作られることに期待しています。最後にいつも「若い人に一言」をお聞きしているのですが。

宮田 一番大事なのは自分を信じて自信を持つことです。当然失敗はありますが、まず行動しないことには成功も失敗もありません。常に行動をすることを念頭に、どんな仕事をしていても、自分の決めたことをやり抜いていくことが大事だと思います。

元谷 やりたいことをやり尽くして生きるのが、人間としては一番の幸せですね。

宮田 代表とお話をすることで、私は私なりの道を進んできて良かったのだと、再確認することができました。非常に有意義な時間をありがとうございました。

元谷 こちらこそ、貴重なお話をありがとうございました。

対談日 2019年7月5日