加賀電子株式会社 代表取締役会長 塚本勲
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APAグループ代表 元谷外志雄
1943年石川県金沢市生まれ。金沢市立工業高校を中退後上京し、電子部品メーカーに就職。工場内作業、営業などを経て1968年に加賀電子を創業。代表取締役社長に就任し、1997年に東証一部上場。2007年、代表取締役会長に就任。
面白さを感じて独立・起業
元谷 本日はお忙しい中ビッグトークにご登場いただき、ありがとうございます。
塚本 よろしくお願いします。
元谷 塚本会長は私と同じ石川県の出身。私は石川県出身の実業家の中で最も成功した人だと考えています。加賀電子の売上高は、連結で約二千五百億円にも及びますから。もちろん昔から名前はよく知っていたのですが、私よりもずっと年上だと思っていました。
塚本 私も代表の方が年上だと思っていましたよ(笑)。
元谷 お互いそう思っていて、実際に会ったら同い年でした(笑)。
塚本 私が九月生まれで代表が六月生まれ。代表の方が三カ月先輩です。
元谷 私は一九七一年に二十七歳で起業したのですが、塚本会長はその三年前の一九六八年に起業しています。
塚本 二十四歳の時でした。二月に個人創業して、九月に株式会社にして、十二月に五歳年下の家内と世帯を持ちました。加賀電子は今期が四十九期で来年は五十期を迎えます。金婚式もやらなければと思っているのですが(笑)。
元谷 百億円企業になったのも、塚本会長が三年早い。アパグループが一九八三年でしたが、加賀電子は一九八〇年でしたから。単身東京で起業して、ここまで立派な企業に育て上げたのは、本当に素晴らしいことです。
塚本 東京で起業したのは、勉強が嫌いで遊ぶのが好きだったためです。親父に就職先に困らないからと言われて、金沢市立工業高校の電気科に相当な倍率をくぐり抜けて入学したのですが、一年で辞めてしまったのです。当時、中学校を卒業して働く人が学年で三分の一ぐらいいました。中学時代の遊び仲間の多くが社会人になっていて、ご馳走してくれたり一緒に遊んだり。自分も早く稼いで遊びたいと思ったのです。そこで東京で働いていた叔父に頼んで、中野にあった電子部品メーカーを紹介してもらい就職したのが上京のきっかけです。
元谷 事業家である父が工場を経営していて、私が小学校に入学する直前に病気になり、長く闘病生活を送った後、中学二年生の時に亡くなったのです。病気になってから父は工場を閉鎖して細かく区割りして貸間業を始めました。その家賃の集金と貸間広告のビラ貼りなどを小学生だった私も手伝っていました。父が亡くなった後は、長男の私が一家の主だという意識を持って、金は自分で稼ぐものと自転車預かり業など様々な小さな事業をやっていました。それらが全部今の商売に繋がっています。父が健在だったなら、私は普通に大学に行きそれなりの会社に就職し、静かに定年退職を迎えていたでしょう。父には悪いですが、早くに死に別れたことが私にとっては運が良かった。成功の要因となったと思っています。また父が病床で私によく、これからの家は合板や新建材で建てることになるという話をしていました。もし父が長生きしていれば、きっと住宅業界に進出したのではないか。そう思うと、住宅からスタートして今に至る私のビジネスも、父が導いてくれたのかとも考えます。
塚本 苦労されていますね。
元谷 本人にとっては、大したことではなかったのですが。塚本会長は東京で就職後、いち早く独立しています。それはどんなきっかけだったのでしょうか。
塚本 就職した電子部品メーカーは一つの商品しか扱っていませんでした。私は営業担当もやっていたのですが、商売相手である問屋さんに通っていると、そこでは何千点という電子部品が商われている。これら全てを取り扱う仕事ができれば面白いと思うようになったのです。そこで秋葉原で電子部品を扱う商社として起業しました。独立するにもお金がなく、実家から二十万円を貸してもらいました。結果的には、秋葉原という場所も今日の成功の要因になっていると思います。
元谷 家電から電子部品まで、電気といえば秋葉原でしたから。
塚本 今や秋葉原は、世界的なデジタルの拠点というだけではなく、アニメやメイド喫茶など日本のサブカルチャーの総本山へと、様変わりしてきました。
ゲーム・玩具業界でも活躍
元谷 アパホテルは昨年十一月にアメリカ・ニュージャージー州にアパホテル〈ウッドブリッジ〉をオープン、さらにカナダ・アメリカに三十九ホテルあるホテルチェーンをM&Aで取得し、今年合計四十ホテルによる海外展開をスタートしました。私はまず北米で、その次に経済成長の早さと人口の多さからアジア市場に進出しようと考えています。しかし加賀電子は非常に早い段階から海外へと展開していますね。最初にアメリカから拠点をスタートしていますが、それも私と共通するものを感じます。
塚本 近年はメーカー機能も充実させていますが、加賀電子のビジネスの基本は電子部品の商社です。以前は国内をはじめ台湾、韓国、中国、欧米諸国などへ電子部品を販売するというビジネスモデルでした。そこから協力工場などで完成品の生産を請け負うようになり、アメリカに子会社を設立して、コンピューター用モニターなどの販売を自社ブランドで展開したのです。
元谷 最初にアメリカに行かれたのは一九七〇年代だと思うのですが、当時はまだ観光で海外に行く人も少なかったですね。
塚本 ビジネスの人は結構いました。しかしまだ円が固定相場制の三百六十円の時代で、外貨の持ち出しも規制されていました。
元谷 私は一九七〇年に結婚したのですが、パスポートを取得して、神戸のアメリカ領事館でビザを発給してもらって、神戸から船で当時はまだアメリカ統治下だった沖縄に新婚旅行に行きました。それから海外に頻繁に行くようになり、これまで世界八十一カ国を巡っています。
塚本 それは凄い。私はまだ三十一、二カ国です。アメリカに続いて、ヨーロッパではイギリス、チェコ、ドイツなどに海外拠点を作りました。中国には十箇所近く拠点がありますし、その他アジアでは、韓国、インドネシア、シンガポール、タイ、マレーシアなど多くの国に進出しています。海外子会社は今全部で二十七社になります。EU離脱を決めたイギリスにも拠点はありますが、今後も拠点を置く意義があるのかどうかは、検討しなければならないでしょう。
元谷 イギリスがEUに残留する可能性も、私はまだあると思っています。
塚本 そうかもしれませんね。このように電子部品の商社から始まった加賀電子ですが、電子部品以外のビジネスでも年間五百億円以上の売上を上げるようになっています。取り扱う分野はコンピュータ・周辺機器の販売、ゲームソフトやCG(コンピュータグラフィックス)の開発などエンタテインメントの分野からゴルフ用品の販売まで様々です。例えば、玩具が次第に電子化する時に、玩具メーカーに電子部品を買ってもらったのが最初で、次第に電子玩具の開発も加賀電子がお手伝いするようになりました。今でも黒子として加賀電子がいろいろと開発などのお手伝いをさせていただいています。電子部品も近年は家電向けが減少し、無線通信、スマートフォン、タブレット、そして自動車関連です。今、自動車部品の六割が電装品関連の部品になっています。
元谷 自動車の電子化は著しいですからね。自動運転システムもどんどん実用化に向かっていますし。
塚本 そうなのです。秋葉原で起業して五十年、当時同業企業は千社を数えましたが、今ではおおよそ二百社しかありません。なぜ多くの同業企業がなくなったのか。時代はアナログからデジタル、そして複合化、小型化へと進んでいきました。この変化に応じて取扱商品を変える必要があったのです。加賀電子はそれができたのですが、できなかった企業は消えていきました。
元谷 非常によく分かるお話です。アパグループも戸建て注文住宅から建売住宅、賃貸マンション、分譲マンション、ホテルと主力商品を変えてきました。今は売上の八割がホテル事業です。会長が言うことは、どの業界でも同じですね。
塚本 その通りです。経営者も社員も変化に対応できる社風にしなければならない。そこで創業以来の行動指針として、加賀電子では「F・Y・T・」(ファイト)を掲げています。FはFlexibilityで市場の変化への柔軟な対応、YはYoungで発想と行動は常に若々しく、TはTryで果敢な挑戦を忘れないという意味です。これを無理やりファイトと読んで、皆で頑張ろうと。
元谷 私も当時社名が信開だったころ、「GATS」(ガッツ)信開運動と言った、元気で明るく、楽しい信開を目標に掲げ、会長と同じように事業を展開してきました。
アパホテル快進撃の源泉
塚本 ホテル事業はいつから始められたのでしょうか。
元谷 一九八四年に金沢市の繁華街・片町スクランブル交差点近くに建設したアパホテル〈金沢片町〉が第一号です。先を行く業種に学ぶというのが私のポリシーなのですが、アパホテルの場合も飛行機の予約の考えを導入、他のホテルにはない「早割制度」などを実行しました。業種が変われば真似ではありませんから(笑)。
塚本 今度、小松市のアパホテル〈小松グランド〉にお世話になります。あのホテルは何棟目だったのでしょうか。
元谷 二棟目で一九八六年に開業しました。私が小松出身ということから、地元から宴会場のあるホテルを作って欲しいと陳情を受けてオープンしたのですが、やはり宴会場とか料飲部門が多くあると儲からない。アパホテルは基本、宿泊に特化していますから。一つのホテルだとマイナスだが、さらにマイナスを掛ければプラスになるはずと、目の前にもう一棟、宿泊特化のアパホテル〈小松〉を建設したところ、どちらも黒字になりました。
塚本 小松市に行く時には、いつもお世話になります。昨年リニューアルして、きれいになりましたね。
元谷 築年数が古いホテルも増えてきていますので、常にどこかのホテルでリニューアルを行っています。タイミングが遅れると、稼働率にてきめんに反映しますね。東京や大阪では新しく建築するのですが、地方では既存のホテルを買収してアパホテルとしています。良いホテルなのにリニューアルを逸して時代遅れになっているところが多いですね。改装して五十インチのテレビを入れてアパホテルとしてリニューアルオープンすると、稼働率が格段に上昇します。時代の先を行くと言えば、アパホテルでは第一号の〈金沢片町〉からトイレにウォシュレットを完備していました。
塚本 アパホテルの良い所は大きなテレビもそうなのですが、私にとってはベッドサイドで照明から空調まで全て操作できるのがいいですね。
元谷 ありがとうございます。使う人を考えると、照明のオンオフのために部屋をうろうろするのは苦痛です。またアパホテルを多く利用するビジネスマンは、チェックインした後に商談に出かけたり、飲みに行ったりして、ホテルに戻って風呂に入ってテレビを見て寝る。後は朝食が美味しければいいと。テレビやベッドは大きく、大浴場もできれば造るなど、ビジネスマンのニーズの基本の部分で快適さを追求しています。また私は最初からホテルチェーンを作るつもりでしたから、最初のアパホテル〈金沢片町〉開業時から会員システムを作りました。会員になれば五万円分宿泊すれば、五千円のキャッシュバックがあります。宿泊代は会社持ちですが、キャッシュバックしたお金は自分の懐に入るというのも、アパホテルの人気の理由の一つです。
塚本 よく考えられていますね。料金やキャッシュバックも良いですが、私はやはり大浴場がアパホテルの一番の魅力だと思っています。
元谷 一定の部屋数以上のホテルであれば、大浴場を作った方が水や燃料費などのランニングコストが安くなるのです。
塚本 それは盲点でした。
元谷 アパホテルは、一般のシティホテルに比べて炭酸ガスの排出量が三分の一の環境対応型となっています。コンパクトな部屋でホテルによってはエアコンを間欠運転とし、窓には断熱カーテンが掛かっています。浴室のシャワーは空気を混ぜて勢いは維持したまま水量を減らす節水型、浴槽も水量を節約する卵型になっています。環境対応にすることで、コストも抑えることができ、アパホテルの利益率は業界ナンバーワンです。
塚本 今度、広島にも大きなホテルをオープンされるとか。
元谷 はい。中四国地区最大級の七百二十七室を擁するアパホテル〈広島駅前大橋〉を十月六日にオープンします。全国のアパホテルの中で、アメリカ、オーストラリア、カナダなど欧米系のお客様が一番多いのが広島でした。核兵器廃絶を訴えた演説で二〇〇九年にノーベル平和賞を受賞したオバマ大統領ですが、自分の任期の中で必ず被爆地・広島を訪問すると私は読んでいて、この大型ホテルの建設を決断しました。オバマ大統領が来れば、今でも多い欧米からの観光客が激増すると考えたのです。その読みが今年見事に的中、オバマ大統領の広島訪問が実現しました。〈広島駅前大橋〉が繁盛するかどうかはこれからですが、駅前立地で大湯殿もあるので、ビジネスニーズで一定の稼働率は見込めると考えています。
塚本 幕張のホテルもこの秋にまた客室が増えるそうですね。
元谷 アパホテル&リゾート〈東京ベイ幕張〉は、十月十二日に増築したイーストウイングのプレオープンを迎えます。これで〈東京ベイ幕張〉の客室は二千七室と当初の倍以上となります。この後も六本木、横浜などホテルのオープンラッシュが続きます。首都圏でホテルの所有にこだわっているのは、毎年減価償却をすることで節税になり、簿価利回りが上がってくるからです。ホテル事業を三十二年間行ってきて、今や日本一のホテルチェーンとなり、アパグループの売上高もこの十一月の決算で一千六十九億円を見込んでいます。一番の強みは会員が一千万人以上いることでしょう。このおかげで、どこにホテルを作っても、高稼働率が見込めます。
塚本 加賀電子の社員も会員になっていますよ。
元谷 ありがとうございます。
時代の先を見た事業戦略
元谷 いろいろな会社を見て来ましたが、売上利益の最大化を目指す企業は必ず潰れています。理由は簡単で、一兆円企業を目指していてそれを達成すれば、次は二兆円企業を目指すしかない。どんどん高いリスクを取る方向に走らざるを得ず、当然の帰結として最後は倒産するのです。
塚本 私も同感です。
元谷 私は売上利益の最大化を目指さず、アパグループを良い会社にしようとしてきました。そして次第に自分の会社だけが良い会社になればいいのかと思い始め、日本という国自体を良くしなければと、言論活動を始めるようになったのです。海外では皆が日本のことを賞賛するのに、日本国内ではテレビも新聞も日本の悪口ばかりです。それも本当のことならまだしも、捏造されたことばかりです。本当のことを知れば皆保守になると、このApple Townを創刊してペンネーム・藤誠志でエッセイを書き続け、「真の近現代史観」懸賞論文や勝兵塾を始めました。今年の第九回「真の近現代史観」懸賞論文は八月締め切りなのですが、昨年を上回る勢いで応募論文がきています。毎年レベルも上がっていて、入選作を選ぶのに困るぐらいです。三箇所で開催している勝兵塾も全部で百六十回を数え、のべ一万一千人を越える方々が参加しています。事業と言論の両輪があるからこそ、事業も伸びていますし、私の主張することを聞いて評価してくれる方も増えていると考えています。
塚本 私も勝兵塾の塾生です。
元谷 今度ぜひ勝兵塾で、十分間のスピーチをお願いします。
塚本 わかりました(笑)。
元谷 塚本会長のこれからの夢はなんでしょうか。
塚本 加賀電子も既に社長は三代目。人は有限なのですが、企業は無限です。加賀電子の業種は将来的にも悪くないと私は思っていますから、その中でどうカメレオンのように変化しながらグローバルに生き残っていくかだと思うのです。今後成長する分野としては、高齢化する社会に合わせて、医療、美容、健康、介護だと見ています。実際にチームを作って検証させてみたのですが、この分野へのデジタル技術の応用には様々な可能性があります。
元谷 例えばどのようなアイデアがあるのでしょうか。
塚本 介護士が足りないと言われていますが、効率良く人手が少なくて済む見守りシステムも考えられます。この辺りには、まだまだビジネスチャンスがありますね。
元谷 時代の先を見て、ビジネスチャンスを掴むということですね。今後のご活躍に期待しています。最後にいつも「若い人に一言」をお聞きしています。
塚本 私の好きな母の言葉に「怠るな 子どもの手本に 歳はなし」というのがあります。会社においては「怠るな 社員の手本に 歳はなし」でしょうか。部下は上司の後ろ姿を見ているものです。幹部社員になったとしても、常に襟を正して公私混同をしないように。そして、チャレンジ精神をいつまでも失わないことも大切です。「我人生に怠らず 枯らしてならぬ あすなろの木」ですね。特に若い人には、無形の財産を形成しろと言っています。人脈、業界知識、友人などが無形の財産です。私がお金がなくても起業できたのは、これらがあったからです。
元谷 その通りです。今日は含蓄のあるお話をありがとうございました。
塚本 こちらこそ、ありがとうございました。
対談日2016年8月30日