文部科学大臣 馳浩
×
APAグループ代表 元谷外志雄
1961年富山県生まれ。星稜高校3年生の時にレスリングで国体優勝。1984年専修大学文学部国文学科卒業後、母校星稜高校で国語科の教員に。またレスリング・グレコローマン90kg級のオリンピック代表として、ロサンゼルス・オリンピックにも出場する。1985年プロレスラーに転身。1995年に参議院議員に初当選。2000年に衆議院議員として初当選。2015年10月に文部科学大臣として初入閣。
元谷 少し遅くなりましたが、文部科学大臣にご就任、おめでとうございます。いずれは要職に就くと思っていましたが、文科大臣という大臣の中でも重要なポストでの初入閣ですね。
馳 ありがとうございます。思い返すと、代表には一九九五年、平壌でお会いしたのが最初でした。
元谷 以来二十一年ですか。プロレス大会の北朝鮮で会ってしばらくして、選挙に出るという連絡をいち早くもらいました。そしてとうとう大臣に。
馳 その間長かったのか短かったのか、自分でもよくわかりません。自分としては、今回大臣になれたのは、非常に良いタイミングだと思っています。
元谷 馳さんは文教族と言っていいのでしょうか。
馳 そうですね、教員経験もありますし、スポーツもやっていましたから。
元谷 それでは念願のポジションですね。私が馳さんについていつも感心しているのは、議員立法の多さです。相当法案を出してますよね。
馳 これまで二十六、七本は出しています。
元谷 もちろん過去に一番多く議員立法を行ったのは田中角栄さんでしょうが、馳さんも相当多い。国会議員の中には、議員立法を行ったことのない人もかなりいます。この多さは馳さんがきちんと政治活動を行っていることの証です。
馳 私がプロレスラーだったということで、最初の頃は畑違いだというようなことを、いろいろと言われたのです。立法は、日本国憲法第四一条に「国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である」と明記されているように、国会議員が果たすべき重要な役割です。国会議員となった以上変な後ろ指を指されたくないので、一つひとつ丁寧に立法活動を行ってきました。
元谷 また国語の先生だった馳さんといえば、俳句ですね。
馳 詠むとウケるので…。時々川柳になっています(笑)。
元谷 私の「APA的座右の銘」と同じで、継続は力というか、続けることで価値が出ています。長い文章よりも短い文章に思いを込めるのは、俳句でも同じだと思いますが、大変難しいですね。
馳 「APA的座右の銘」は、的確な言葉ばかりです。代表の経験と時の情勢が巧みに融合されています。私は昔のApple Townに掲載された「APA的座右の銘」を読み返すことがあります。自分の現状と照らしあわせて、励みにしたり、戒めにしたりしています。
元谷 活用していますね。ありがとうございます。私は幼い頃から活字に親しむ生活を送っていました。父親が新聞を熱心に読む姿を幼い時から見ており、その父が結核で倒れてから、小学生ながら長男の私が一家の主にならなければと、見よう見まねで新聞を広げているうちに、読むのが大好きになりました。
馳 代表は新聞をどこから読むのでしょうか。
元谷 最初は見出しの大きな記事からでしょうか。次に興味のある分野を集中的に読んでいます。しかし小学生にはわからない単語だらけ。今ならスマホでネット検索でしょうが、当時ですから、現代用語の基礎知識でいちいち調べていました。さらに好奇心が芽生えてきて、次第に哲学用語、医学用語など現代用語の基礎知識を単元別にまるごと読んでいくようになったのです。
馳 知識欲・好奇心の旺盛さは、子供の頃から変わらないのですね。
元谷 親父譲りかもしれません。父の病気のため、私自身は父とじっくり語り合ったという経験もなく、私が父に似ているかどうかはわかりません。私の母の妹のご主人が父の工場で働いていたのですが、その人が私は父にそっくりだと、よく言っていました。
馳 代表の決断力や構想力も、お父様譲りなのでしょうか?
元谷 そうですね、父も私も実業家としてゼロからスタートしましたから。父は十五、六から仕事を始め、元谷木工製作所を作り、最盛期には百名もの従業員を雇っていました。父の工場は、戦争中は軍需工場として船の舵輪を作っていました。当時は軍関係の仕事をしていると、様々なことで優遇されたそうです。戦後は桐箪笥を作るなど、民需の工場に転換しました。しかし父は頑張り過ぎたのか、その頃は多かったようですが、結核になってしまったのです。この親父譲りの好奇心が原動力となって世界を見て歩きましたし、いろいろな国の要人とディベートも行ってきました。これらが事業成功に繋がっていると思います。
馳 海外を飛び回る代表を見ていると、仕事をしているのか趣味なのかわからない時がありますね。
元谷 仕事しながら遊ぶがモットーです。私は二兎を追う者は二兎とも得るという考えで。一生懸命仕事をしたからといって、上手くいくとは限りません。であれば、仕事の中に極力楽しみを見出すべき。一方遊んでいるように見えることもあると思いますが、その中には必ず仕事のヒントが入っています。何か一つの専門家になるというよりは、いろいろな事に興味を持つようにしています。
馳 なるほど。
元谷 そういう志向からすると、日本の新聞ほど素晴らしいものはありません。新聞は日本はもちろん世界のことまで、政治から経済、文化、学問までを網羅しています。ニュースに対して判断力がある人、自分をしっかり持っている人が読むと、これほど面白いものは他にはないでしょう。しかし知識のない人が読むと、新聞の論調に一方的に染まってしまう恐れがあります。希望を言えば、新聞がもっと様々な観点で考えるようになり、偏っている傾向を是正してくれれば…と思っています。国会での高市総務大臣の答弁を巡って、様々な報道がされていますが、すべての新聞が同じ論調で報道するのは避けるべきです。そもそも新聞社がテレビ局を保有している実態もおかしい。民放テレビのニュースのコメンテーターは皆母体の新聞社の人間です。GHQが定めたプレスコードは、当時はテレビは存在しませんから当然新聞だけを縛るものだったのですが、自主規制で今も効力を持っており、さらに新聞を経由してテレビにまで伝わっています。
馳 最近「保育園落ちた日本死ね!!!」というブログが話題になり、国会でも取り上げられました。この現象は、ネットというメディアが、旧来のマスメディア並の力をつけてきた象徴かなと私は感じています。
元谷 私はこのブログを大きく取り上げるマスメディアがあったから、ここまで大きな問題になったと考えています。あのブログを英雄視するようなメディアの論調にも同意できません。特に都市部では保育所の数が足りておらず、希望者全員が入れなくて、不幸にして落ちる人もいます。これが現実です。それを「日本死ね」とか「国会議員を半分にしろ」とか、個人的な暴言をブログで表明するのは個人の表現の自由の範囲ですが、なぜメディアがわざわざ取り上げるのかが理解できません。
馳 確かにあのブログの文章は、国語という観点から、文科大臣として非常に問題があると言わざるを得ません。同時に、どういう意図でマスメディアが取り上げたかにも関心を持っています。ネットは匿名で言いたい放題、垂れ流しの世界です。それをマスメディアが取り上げたとたん、その編集によって政権叩きにもなるし、保育所不足という都市部の問題提起にもなります。そのことをマスメディアがちゃんと理解しているのかが、問題点だと感じているのですが…。
元谷 誰が書いたかが全くわからない過激発言を、マスメディアが取り上げるのは異様でしょう。
馳 ただネットの世界では、匿名の個人のブログでも、真実が含まれていれば喝采が送られます。これがこれまでのメディアにはなかったことです。マスメディアは朝日新聞とかNHKとか、どこも自社の看板を背負って報道を行ってきたのですから。ネットメディアの自由性と危険性の両方を、この「保育園落ちた日本死ね」事件は示していると思います。
元谷 しかし全員が満足する社会を築くのは無理です。満足する人がいれば、満足できない人も出るのもしかたのない現実でしょう。満足できない人が愚痴を言うのは、かつての井戸端会議であればその場で終わったのですが、今はネット経由で世界中に拡散します。ネットの場合、見ようと思う人しか見ないのですが、テレビが報道することによって、見ようと思わない人にまで広がるのです。こういう意味で、ネット時代のマスメディアの責任はむしろ高まっており、一定の配慮が必要ではないでしょうか。少なくとも、匿名の意見を大半の国民の意見のように報じるのは、明らかにミスリードでしょう。
馳 確かに代表のおっしゃる通りです。マスメディアにネットが入り込んでいる現象を今後どう考えるかは、政治家としても無視できないことです。しかし私達日本人には、節度や恥というものがあったはず。お母さんが「日本死ね」という表現をするのは、どうかと思います。
元谷 またマスメディアもそのような「日本死ね」と言った過激な匿名の声など取り上げませんでした。それも節度でしょう。ところでブログに載せた人はわかったのでしょうか。
馳 一部メディアが書いた人を突き止め、取材を行ったようです。
馳 そういえば、アパホテルもマスメディアからの批判を浴びたことがありましたね。通常の場合、あのような集中砲火を浴びれば、事業が危機的な状況に陥るのですが、代表は常に荒波を乗り越えて来られました。
元谷 向かって来る相手に対して、堂々前向きに対処しているからでしょう。熊は逃げると追いかけてきます。だから止まって体を大きく見せて、ゆっくり後ずさりするのです。マスメディアへの対応も同じで、逃げずに何を批判しているのかを冷静に問い直すのです。
馳 当時の記者会見を見ていても、代表は逃げずに自ら真実を見出そうとしていました。
元谷 自ら会見を開き、非があれば認め、問題があれば早急に解決するのです。一番悪いのは、嘘を言うことでしょう。本当のことが言えない場合もあると思いますが、嘘はいけない。逃げるためについた嘘は、致命傷になるかもしれません。
馳 そういったリスクに対する対応の見事さが、企業経営にも反映されているのでしょう。生まれつきの感覚なのでしょうか?
元谷 ゼロから事業を大きくしてきた経験からでしょう。自然と身についた知恵です。
馳 代表のような人物をいかに育てるか。それが文部科学省がやらなければならない人材育成の姿です。大学、高校、中学、小学校、幼児教育での人材育成は何のためか。一義的には自分の為でしょうが、最終的には家族や暮らしているコミュニティ、所属している会社、そして国家の為でしょう。代表のように国や企業への使命感を持った人材を育てる教育を行っていかなければなりません。
元谷 将来何になりたいかと聞かれて、明確に答えることのできる人が少ないですね。
馳 正にそのことが参議院の文教科学委員会で話題になりました。将来の夢は「正社員」という子供がいるそうです。悪いとは思いませんが、夢なのですから、サッカー選手になりたいとか、社長になりたいとか、大人から見て微笑ましいものになって欲しいのですが。
元谷 「尊敬する人はお父さん」という人にも少し違和感を抱きますね。もっと広い視野を持って欲しい。
馳 代表の子供の頃の夢は何でしたか?
元谷 小学校の時の卒業文集に、世界連邦の大統領になりたいと書きました。当時、ハマーショルド事務総長の国連に日本が加盟するというニュースを新聞で読んでいたのです。将来、戦争が一切なくなり世界連邦ができた時に、民主的に選ばれる大統領になりたいと思いました。
馳 小学生で世界連邦とは、代表らしいですね。
元谷 中学生の時には「逆境こそ光輝ある機会なり」と書きました。中学二年の時に父が亡くなりました。厳しい状況こそ男を磨く絶好の機会だと感じたのです。この言葉は、昨年出版した私の半生を書いた本のタイトルにもなりました。その後進学校である小松高校に進み、進学コースにも入りました。しかし家庭の事情を考えると、一刻も早く地元で事業を興したかった。事業の為に金融の勉強もしたかった。だから信用金庫への就職を決めたのです。しかしこれからは学歴社会になるという予感もあったので、親にも教員にも相談もせずに、慶應義塾大学経済学部の通信教育部に入学しました。
馳 卒業は?
元谷 信用金庫で働いていましたから、スクーリングに行けなかったのです。それもあって、送られてきた膨大な教科書でかなり勉強をしたのですが、卒業はしていません。この時得た経済学の理論は、今でも役に立っています。
馳 代表は今でも毎日勉強されてますね。
元谷 耳学問に近いですが。今日の馳さんとの対談のように、いろいろな人とディベートをして、自分の常識を確かめているのです。専門的な知識を持つ方と話をして、自分の雑学の幅を広げていくことも多いですね。
馳 最近、文科省でも従来の講義形式とは異なる「アクティブ・ラーニング」という手法を重視しています。単に座学で講義を受け身的に聞くのではなく、自分から自主的にコミュニケーションを行って、表現力とか決断力を磨きながら、知識と能力を身に付けていく。正に代表の学び方と同じです。
元谷 就職活動のシーズンに入りました。アパグループでは採用の最終面接は私が行うのですが、その時に大学時代の話を聞くと、七割がアルバイトのこと、残りの大半がクラブやサークル活動のこと、勉強の話をする人が一割もいません。特に文系の大学生はほとんど勉強をしていないのではないでしょうか。本もほとんど読んでいませんし、わからないことはスマホで検索するので、思考が途切れ途切れのデジタルです。その場しのぎではいいのですが、様々な事象の繋がりで考えるアナログ的発想ができないのです。
馳 確かにネット検索の弊害というのはありますね。
元谷 そんな勉強しない学生もいる一方で、前文科大臣の下村博文さんのように、あしなが育英会第一期生として奨学金をもらいながら、新聞配達で学費を稼いで、早稲田大学を卒業した人もいます。
馳 私の尊敬する人の一人です。
元谷 私も尊敬しています。いろいろな環境の若者に教育の機会を開くのが文科大臣の役割です。例えば授業料免除の特待生制度を国として制定するとか。
馳 はい、その通りです。あと奨学金の借り換えが容易にできる制度も検討しています。
元谷 勉学の機会を多くの人に与える政策をぜひ実行してください。
馳 わかりました。
元谷 世界八十一カ国を巡ってわかったことは、歴史は勝者が作るもので、現在の世界史は西洋列強のキリスト教徒が作ったもので、日本史はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が作ったものとも言えますね。本当の日本は昔も今も非常に優れた国だということです。それなのに事実ではない歴史で貶められています。これはどこの国の人が悪いという話ではなく、日本人の中に戦後敗戦利得者という「敵」がいるのです。本当の歴史を取り戻し、誇れる祖国・日本の再興を果たさなければなりません。そのためにも、教育とマスメディアの是正が急務です。今のマスメディアは偏っています。安保法制の番組でも、反対意見に九割以上の時間が割かれ、賛成意見は一割程度しかありません。首相官邸前でデモを行う一部の過激な人々の声を、あたかも国民の大多数の声として伝えています。公共の財産である電波を利用する以上、もっと公平に、バランスの取れた報道を望んでいます。
馳 私は今は政府の一員ですから、メディアの報道には粛々と対応するのみです。
元谷 また私は日本が変わるためにも、できるだけ長く安倍政権が続くべきだと考えています。今の自民党規約に従えば二〇一八年九月までが最長の任期ですが、今年の参院選と近いうちに行われるであろう衆院選に勝利して、そのご褒美として三年延長して首相を続けて欲しい。今、せっかく真っ当な国へと向かう兆しが出てきているのですから。
馳 最初の安倍政権で首相を辞任した時、安倍首相は人生最大の挫折を味われたと思います。五年して復活されたのは、精神的な強さとぶれなさの賜物です。
元谷 私はその挫折が結果的には良かったと感じています。あのまま政権を続けるよりも、一旦辞任したという経験が、安倍首相を強くしました。最初に首相になったのは、父親の安倍晋太郎さんが首相直前で非業の死を遂げたということへの同情票もあったのだと思います。一年後に辞任した後の五年間、勉強もし胆力も鍛えた安倍首相が再登板したことは、日本にとってとても良いことです。また馳さんも、いろいろ厳しい時もありながら、一九九五年の初当選からずっと議席を維持してきています。
馳 代表のおかげです。
元谷 一度も落選議員にならなかったというのは、大きいですよ。今回は文部科学大臣として、これまでやれなかったこともできる環境が整いました。いよいよ馳さんが大活躍する時代の到来です。日本が真っ当な国になるように、日本のために力を十分に生かして頑張ってください。私もずっと応援をしていくつもりです。
馳 はい、わかりました。私も代表に倣って、逆境に負けずに勉強を続けます。
元谷 今日は本当にありがとうございました。
馳 ありがとうございました。