今年も余すところ少なくなった十二月初旬、サンパウロへの機中にてこの原稿を執筆している。今年の総括を行うこの時期に、私は明治維新からの日本とアジアと西欧列強との歴史に思いを馳せている。一八五三年六月、ペリーが指揮をする黒船が浦賀に来航した際、「泰平の眠りを覚ます上喜撰、たつた四杯で夜も眠れず」という狂歌が詠まれたように、大砲を備えた蒸気船という近代科学兵器に驚き慌て、結局幕府はアメリカと不平等条約を締結することになった。当時既に世界の多くの地域が西欧列強の植民地とされていたが、その波がヨーロッパから最も遠い「極東」にまで及ぶようになったのだ。
北から迫るロシア、中国分割に狂奔するイギリスやフランス、太平洋を越えてやってくるアメリカと、日本にのしかかる開国圧力は凄まじく、一日も早く市民革命で幕藩体制を倒して国を近代化しなければ、日本も西欧諸国の植民地になってしまうという思いが、日本の知識階級の間で強くなった。彼らは長崎の出島のオランダ人を通じて、アフリカ、中南米、アジアなど有色人種国の植民地化、一八四〇~一八四二年のアヘン戦争後の中国の悲惨な結果などを聞き、最後の有色人種の独立国日本が植民地化されれば、有色人の世界はこの先数百年にも亘って植民地支配を受け続けてもおかしくないという危機感を感じていたのである。
考えてみると、江戸時代までの日本の歴史の中では、戦いという戦いはほとんど内戦だった。侵略してきた外敵と戦ったのは、一二七四年と一二八一年の二回に亘る蒙古襲来の時だけだ。この時は「いざ鎌倉」と日本の武士団が鎌倉幕府の下に結集し、モンゴル帝国と高麗の連合軍と戦い、その侵攻を阻止した。その後、徳川幕府は軍事的にも宗教など精神的にも日本を侵そうとする諸外国との交流を断つべく、鎖国政策を行った。しかし長い鎖国の末に黒船がやってきて、日本に衝撃が走ったのだ。もし武士がいなければ、西欧諸国は黒船を使って日本上陸を行い、幕藩体制を崩壊させて日本を植民地にしただろう。当時の日本には独自の文化が花開いており、武士階級には藩校、町民には寺子屋という教育システムがあって、多くの人々が文字を読み書きしたり、計算をすることができた。このことは他の植民地化された国と異なり、日本が独立を維持できた理由の一端を担っているだろう。
徳川幕府は三百年近くに亘って日本を統治することに成功したが、日本には二千六百年を超える歴史を誇る天皇家がある。薩摩藩、長州藩などの脱藩下級武士を中心に始まった尊王攘夷運動は、やがて天皇への大政奉還で立憲君主制をとり、江戸城の無血開城に成功し、明治維新を成し遂げた。明治政府が誕生した後、朝鮮半島を巡って日本と清国との対立が激しくなっていく。日本に圧力を掛けようと清は「属国」である朝鮮半島の支配強化を目論み、日本は清との緩衝地帯とするために朝鮮半島の独立維持を望んだからだ。これが結局、一八九四年の日清戦争に繋がり、日本が勝利。一八九五年、日清戦争の講和会議によって下関条約が締結され、清は朝鮮が独立国であることを認め、日本に遼東半島、台湾、澎湖諸島などを割譲、更に多額の賠償金を支払った。しかしその後、ロシア、フランス、ドイツの三カ国が、日本に遼東半島を清に返還せよという勧告を行い、まだ列強に抗する軍事力のなかった日本はそれに従わざるを得なかった。この後、列強は中国分割支配を加速化、ロシアは遼東半島の大連と旅順を租借した後に半島全域を占領し、旅順に一大軍港要塞を築いた。ロシアの狙いが朝鮮半島であることは明白であり、ロシアに朝鮮半島を占領された場合、日本の独立は風前の灯火となる。
三国干渉の屈辱に臥薪嘗胆を貫いた日本は、ロシアからの圧力に対抗すべく国家の近代化と軍事力の増強に努め、ついに日本は一九〇四年、数十倍の軍隊を持つロシアに戦いを挑んだ。日露戦争の勃発である。ロシアの朝鮮半島への進出は、当時七つの海を制覇していたイギリスとの全面対立を意味する。それを恐れたイギリスと日本の利害は一致し、日露戦争に先立つ一九〇二年に、日英同盟が結ばれた。ロシアを同じように警戒していたアメリカも日本を支持、軍艦の建造費などのために日本政府が発行した多額の外債を、アメリカの鉄道王であったユダヤ系のエドワード・ハリマンなどが引き受けた。ハリマンの目的は、日本が勝利した暁には必ず得るであろう満州における鉄道の敷設利権だった。
ロシアとの戦いは苦難を極めた。旅順口攻撃と仁川沖で開戦したロシアの太平洋艦隊が要塞化した旅順港に逃げ帰り、バルト海からやってくるバルチック艦隊を待ちわびていた。この二つの艦隊が合流することは日本にとって大きな脅威となるため、先に太平洋艦隊を殲滅する必要があったが、そのためには艦砲射撃の砲弾の着弾点を修正することができる高台を占拠しなければならなかった。この高台の条件に合致した二百三高地を、乃木希典率いる第三軍は自身の次男乃木保典を含む累々とした戦死者の山を築きながらも決死隊を繰り出し奪取。旅順港内の軍艦を砲撃によって撃滅、旅順要塞を陥落させた。その後の金州城外の南山の戦いで長男の乃木勝典が戦死した。しかし、第三軍が駆けつけることで日本軍は奉天会戦も辛勝し、この戦争の決着はバルチック艦隊と日本の連合艦隊による日本海海戦に委ねられることになった。
バルチック艦隊の針路を対馬海峡と予測した連合艦隊司令長官・東郷平八郎は、ここに艦船を集中して待ち伏せ、決死の敵前大回頭、丁字戦法で先頭の旗艦スオロフとオスラビアに一斉砲撃で集中砲火を浴びせて火だるまにして、バルチック艦隊を殲滅させた。一方、連合艦隊の損害は水雷艇三隻のみという海戦史上稀に見る大勝利を得た。全てを出し切り余力がなくなった日本だったが、このタイミングでアメリカが仲裁に入り、ポーツマス条約を締結した。しかし、メディアが期待を煽ったこともあり、日清戦争とは異なり十分な領土や賠償金などが取れなかったことで、日本各地で暴動が起こった。外債を引き受けた鉄道王・ハリマンは、日本がロシアから獲得した南満州鉄道の日米共同経営の約束を桂太郎首相と交わしていたが、ポーツマス会議に日本側の全権大使として参加していた外相の小村寿太郎は、メディアの批判を恐れて大反対したことによって約束は反故にされた。このことが、親日的だった米国が反日に変化するきっかけだったと言えるだろう。ここから西欧列強の世界植民地化計画の最終章は、「日本を支配すること」になった。この流れで、アメリカは対日戦争計画である「オレンジプラン」を作成し、実行のタイミングを見計らうことになる。
日清日露戦争に勝利した後、朝鮮側の要請もあり一九一〇年、日韓併合条約が締結された。そして一九一四年に第一次世界大戦が勃発し、ヨーロッパ諸国が初めて遭遇する「総力戦」の余りの犠牲の多さに苦しむ中、日英同盟に従って日本は地中海に帝国海軍を派遣し、ドイツのUボートと死闘を繰り広げた。この時の帝国海軍の犠牲者は、マルタ島のイギリス海軍基地に今でも葬られていて、以前私も訪れて慰霊してきた。ヨーロッパはこの戦いで疲弊する一方、軍需物資の供給によってアメリカは一気に経済力を増す。そして一九一七年には疲弊したロシアに共産革命が起こり、一九一九年にはコミンテルンが結成され、世界赤化の動きが加速する。第一次世界大戦の処理のために結ばれたベルサイユ条約は、あまりにも過酷な賠償金をドイツに課し、ドイツ国民の不満を招いた。この背景からヒットラー率いるナチスが生まれ、ナチス・ドイツが瞬く間に軍事力を増強させ、一九三九年九月一日にポーランド侵攻によって第二次世界大戦が始まった。破竹の勢いでナチス・ドイツは一気にヨーロッパのほとんどを席巻し、イギリスに対する空襲も開始した。
イギリス首相のチャーチルは、このままではドイツにイギリス上陸を許してしまうと、アメリカの参戦を強く要求した。しかし時のアメリカ大統領・ルーズベルトは、ヨーロッパの戦争への不参加を三選時の公約にしていたために、これに応じることができなかった。このジレンマを打開する絶好のチャンスになったのが、一九四〇年の日独伊三国同盟だ。この同盟によって、日本との戦争は同時に「ドイツ、イタリアとの戦争となる。」とヨーロッパ参戦の口実を得たルーズベルトは、対日交渉を引き伸ばして艦船や航空機を増産し戦争の準備をする一方、日本の在米資産の凍結、古鉄や石油の全面禁輸を打ち出し、イギリス、中国、オランダと共に「ABCD包囲網」によって日本に圧力を掛け、日本の暴発を促した。そして、中国からの全面撤退など、日本が到底受け入れられない条項を含む宣戦布告書と言っても良いハル・ノートを突きつけた。このハル・ノートの原案は財務次官補だったハリー・ホワイトによって書かれたものだ。戦後スパイ容疑を掛けられたホワイトは自殺したが、その後になってコミンテルンとアメリカ国内のスパイとの暗号の交信録が解読されたベノナファイルによって、彼が確かにコミンテルンのスパイだったことが確認されている。
永野修身軍令部総長の「戦わざれば亡国、戦ってもまた亡国、しかし戦わずして国滅びた場合は魂まで失った真の亡国である」という言葉のように、正に追いつめられての開戦となった。
日本は海軍と外交の暗号をアメリカに解読されていて、真珠湾攻撃の全貌をルーズベルトは事前に把握していた。また、真珠湾攻撃の五か月前である一九四一年七月に、大阪や東京などを爆撃する対日爆撃計画(JB三五五)にルーズベルトは承認のサインをしている。この計画では中国軍に供与する五百機の航空機で計画を実行することになっていたが、中国軍の航空隊の中枢には、アメリカの軍籍から離脱した、偽装したアメリカ空軍の「偽義勇軍」のパイロット集団「フライングタイガー」がいたことが知られている。たまたま航空機を優先的にヨーロッパに供与したために、この作戦は実行されなかったが、実質的な開戦は一九四一年七月二三日ルーズベルト大統領がフライングタイガーによる日本本土爆撃計画(JB三五五)に署名したことにより、宣戦布告なしにアメリカから行われていて、真珠湾攻撃の前に中国で日本軍に空爆を加えていた。
アメリカ政府は日本海軍と日本の外交暗号の解読により真珠湾攻撃を把握しながら、真珠湾の守備隊に知らせるどころか、逆に休日の日曜日だというのに、戦艦アリゾナに異例の定員以上の将兵の招集を掛けていた。そして空母や新型の艦船は、真珠湾から離脱させていた。戦艦アリゾナは日本軍の攻撃により沈没、真珠湾での犠牲者の半数がこの戦艦一艦で亡くなった。しかし魚雷攻撃で沈んだのであれば海側に損傷があるはずだが、アリゾナは陸側に大きな穴を開けている。弾薬庫の誘爆が原因とされているが、軍艦は航空機からの爆弾の投下でそう簡単に誘爆が起こる構造にはなっていないはずだ。米西戦争では自ら戦艦メイン号を沈め、多く戦死者を出し、これはスペイン側の工作だとして「リメンバー・メイン号!」と国民の戦意を煽った前科を持つアメリカのこと、真珠湾でも「リメンバー・パールハーバー!」と煽る目的で自国兵を敢えて犠牲にしたのではないだろうか?
日本にとってのアメリカとの戦いは、それ以前に始まった中国との戦いも含め、西洋列強からアジアの植民地解放と人種平等を目指した大東亜戦争の一環だった。しかしアメリカにとっては、日本との戦いよりも、盟邦イギリスを守りヒットラーのヨーロッパ支配を阻止するための戦いだった。その目的のためには敵の敵は味方ということで、アメリカは共産国家ソ連に対して兵器や補給物資を送り、武器生産拠点を造るなど、可能な限りの支援を行った。その結果、西部戦線と東部戦線の両面作戦をとらされたドイツは敗北したのだが、同時にソ連を軍事的なモンスターにしてしまった。
大戦末期には、その力を背景にソ連が世界赤化を挑んでくる脅威が高まったため、アメリカは議会機密費で日本に投下するための原爆開発を密かに進め、日ソ中立条約を結ぶソ連や国民党政府の蒋介石、バチカンなどと数々のチャンネルを使って終戦の意思を伝えていた日本を無視。終戦には天皇制の存続が唯一の条件である日本にその回答を曖昧にして時間稼ぎを行った。原爆実験が成功したところでポツダム宣言を出し、事前に一切通常爆弾での空襲を行っていなかった広島と長崎に、ウラン原爆、プルトニウム原爆と異なったタイプの原爆を投下、その効果を確認した。また原爆だけが非道な兵器ではないことを示すために、アリゾナ砂漠に日本家屋を建て燃焼実験まで行って焼夷弾の投下方法を研究、一九四五年三月十日の東京大空襲で一晩で十万人もの民間人を虐殺した。これは原爆投下で想定される死者数が十万人程度になるであろうとの予測値に合わせた可能性もある。
原爆投下の理由付けのために、アメリカは敢えて制海権も制空権もない硫黄島に海兵隊による上陸作戦を敢行した。ここで二万八,六八六人もの戦死傷者を出し、日本との戦いで唯一日本兵を上回る戦死傷者となったが、これは、もし日本本土決戦となった場合は百万人のアメリカ軍将兵が戦死傷することが予想され、これを防ぐための原爆投下が必要であったと主張するためであった。しかし真の目的は戦後の世界赤化闘争によって引き起こされる第三次世界大戦に備え、ソ連を威嚇するためだった。また長崎では原爆は日本最大級のカトリック教会・浦上天主堂の至近距離で多数の信者が集まって行事を行っている最中に爆発した。アメリカは、ネイティブアメリカンを駆逐して作ったプロテスタントの国だからこそ、平気でカトリックの浦上天主堂を目標とすることができたのだろう。今行われているイスラム教のシーア派、スンニ派の対立と同じ構図だ。
無抵抗な民間人を原爆で虐殺した以上、アメリカが民主主義を日本に与えた正義の国であるためには、投下された日本が悪の国でなければならない。そのために国府軍が主張する虚偽の南京三十万人大虐殺説を東京裁判に持ち出し、松井石根大将をB級戦犯として処刑した。また日本軍が朝鮮女性を二十万人強制連行して性奴隷にしたなどと主張する韓国を支持しているのだ。
日本を悪い国にするために、戦後検閲による日本人の洗脳も行われた。終戦から一カ月後の一九四五年九月十八日、鳩山一郎の「原爆使用は国際法違反」という談話を掲載した朝日新聞に対して、GHQは二日間の発行停止処分を下し、その翌日に三十項目からなるプレスコードを出す。早稲田大学の山本武利名誉教授が明らかにした名簿に寄れば、破格の高給で四千人(延べ人数一万四千人)もの日本人検閲官がこれに従い、新聞、ラジオから出版物、個人の手紙二億通もチェックし、徹底的に思想を統制した。アメリカにとって都合の悪い本の「焚書」も行った。戦時中の日本の検閲とは異なり、検閲に引っかかったものは墨塗りなどでは許さず再印刷となり経費がかかる為、出版社や新聞社は自主規制をする傾向が強くなっていった。言論統制が行われたことは秘密とされたが、冷戦が終結してソ連が崩壊し、機密情報が流出したり、アメリカが情報を開示したりすることによって、だんだん真実が明らかになってきている。にもかかわらず、日本のメディアは未だに検閲官の名簿を報ずることもなくプレスコードを自主規制として守っており、東京裁判史観に沿う報道しか行わない。日本には実は言論の自由がないのだ。これにメスを入れ、国会でプレスコードについて質問を行ったのが、次世代の党の衆議院議員杉田水脈氏だ。検閲官は敗戦利得者となり、その後を継いだのが偏差値教育の申し子である東大法学部出身の「ステルス複合体」と呼ばれる人々だ。彼らの一員である官僚がアメリカからの年次改革要望書に基づき法案にし、メディアが持ち上げ煽り、代議士が賛成して国会で可決するという、阿吽の呼吸でアメリカの要望を日本は飲まされてきた。裁判員制度や建築物の民間検査制度といった日本に合わない制度も、これで押し付けられてきたのだ。しかしこの流れも、ネットの普及で変わりつつある。
今回の電光石火の解散劇は、安倍首相の練りに練った戦略だった。二人の女性閣僚がメディア発のスキャンダルで辞任、更なる攻撃が来る前に先手を…という意味もあるが、二〇一五年九月の自民党総裁選を睨んでとも考えられる。必ずしも安倍首相の党内基盤は強くない。今回の選挙で自民党が少し減っても、連立与党が勝利すれば、次の総裁選は対抗馬がなく、無投票ということもあり得る。そしてまた二年後の参院選に合わせて衆院を解散して、衆参同時選挙に持ち込むことも可能なのだ。巧みな迂回戦術で日本を真っ当な国にしようとしている安倍首相には、ぜひ長く政権を担当して欲しいが、問題は与党内野党の公明党だ。本来単独過半数を持ちながら連立するのはおかしなことだ。
解散して選挙を重ねるごとに、総理は強くなると言われている。この稿が出る頃には、自民党の勝利が決まっているだろう。この選挙を機に、公明党との連立を解消して単独政権を作り、世論を高めて改憲派の議員を三分の二以上集めて、憲法改正への道を開くべきである。この選挙が明治維新同様、日本の新しい幕開けとなることを、私は望んでいる。
2014年12月12日(金)10時00分校了
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