Big Talk

税制と教育によらなければ真に平等な国家は生まれない

アパルトヘイト撤廃、そして初の民主的な選挙施行から二十年。アフリカ唯一のG20およびBRICSのメンバー国として近年著しい経済発展を遂げている南アフリカ共和国。二〇一二年に来日、ビジネスから外交の世界へと転身した駐日南アフリカ共和国大使館の特命全権大使モハウ・ペコ氏に、昨年十二月五日に亡くなったネルソン・マンデラ氏の偉業やこの二十年間の南アフリカの苦悩と歩み、今後目指しているものなどをお聞きしました。

アパルトヘイト撤廃はひとつの社会実験 手本なしで考えながら進んできた
和解と赦しによって過去の対立を解消する

元谷 本日はビッグトークにご登場いただき、ありがとうございます。私は二〇一一年九月に当時の駐日大使だったグロブラーさんの計らいで、南アフリカを訪問しました。空港にはグロブラーさんの友人が自家用飛行機で迎えに来てくれて、彼が所有する飛行場からヘリコプターに乗り継ぎ彼の邸宅へと向かい、日本とのスケールの違いを実感しました。アフリカ有数の都市であるケープタウンを見下ろすように台地状の山・テーブルマウンテンがあったりなど、自然と都市の調和が素晴らしかった。ぜひまた訪れてみたいと思っています。今日はペコさんに、南アフリカのことをいろいろと語っていただきたいですね。
ペコ ありがとうございます。この二十年で南アフリカは大きく変わりました。代表もご存知の通り、アパルトヘイトが無くなったということが最大の変化で、つまりは人種に関係する分離発展という人種差別政策が撤廃されたのです。
元谷 二十世紀の最後になってついに達成できた、世界的にも意義のある成果だったと思います。
ペコ はい。しかしこれはひとつの社会実験でした。人種、階級、性別で分けられた国、不平等が深く根ざした国をまとめようとした国は他にはないので、追従すべき前例のないまま進めたのです。ロードマップや手本もありません。自分達で考えて、非分断社会をどのように形作るか、経済をどのように構築していくのか、不公平の是正、すべての人への雇用創出、性別や人種を問わず富を享受する保障などを、一つひとつ解決する必要がありました。
元谷 非常に難しいステップだったでしょう。
ペコ その通りです。しかしラッキーだったのは、ネルソン・マンデラが大統領として、人々を導いてくれたことです。彼は本当に人々の声を聞く人でしたから。しかし、マンデラが大統領になったことで、やっかいなこともありました。黒人政権の誕生におののき、またこれまで国を統治したことのない人々が政府の中枢に入ることに恐怖を感じ、多くの白人が国を出ていきました。また鉱山や不動産、産業、発電所など、国の資産を勝手に民間人の友人に譲渡してしまうアパルトヘイト体制下で仕えていた政府関係者も出てきました。この問題の処理は、現在でもまだ決着が付いていません。
元谷 そうですか。私の印象としては、アパルトヘイトの撤廃時にもっと大きな混乱があっても仕方がなかったのではと感じています。非常に上手く政権移行が行われたのではないでしょうか。もちろんマンデラ大統領誕生後に、過去の遺恨を追求することも可能だったでしょう。しかしそれを行わなかった。そこにマンデラさんの意志を感じました。インド建国の父であるマハトマ・ガンジーの影響も大きかったのではないでしょうか。二〇一一年の南アフリカ訪問時に、ネルソン・マンデラ財団の責任者であるダンゴールさんにこの点を指摘したところ、その通りで、マンデラさんの自伝にもガンジーの生き様を心の支えにしていたことが書いてあるというお話でした。ガンジーは、若い頃に南アフリカ共和国で弁護士として、また人種差別政策に反対する活動家として活躍していた時期がありますよね。
ペコ はい、その通りです。しかしネルソン・マンデラの正義感は相当なもので、人種差別体制側とは話し合いをすべきなのだと投獄中に悟っています。人種差別主義者を攻撃するよりも、優しさについて教え、正義感に訴えるほうがはるかに効果的であると考えたのです。
元谷 マンデラ政権下でも、黒人を優先して登用するなど人種で決めるのではなく、能力によって役職への起用を決定していたことが、今日まで混乱を引き起こすことがなかった要因ではないでしょうか。
ペコ その通りです。また確かに過去には、黒人である私達に対する数多くの残虐な仕打ちが行われました。ご主人が捕まったり奥さんや子供が消えたり、多くの人が命を落としたりと、様々な人権侵害が起こったのです。しかし私達は報復をする代わりに、一九九六年に修復的司法を行う裁判所に似た真実和解委員会を作りました。この委員会は、人権侵害の加害者に対する証言や記録、場合によっては恩赦の付与や賠償金、更生の請求を行う権限を持ちました。被害者やその遺族から受けた申請を元に調査を行い、人権侵害の加害者を特定します。加害者は真実を全て告白することによって、恩赦を受けることができます。真実を追求することで、報復ではない形で過去を清算したのです。しかしこの委員会の範疇には経済問題は入っていませんでした。国家資産の不当な流出を追求できなかったことを、今私達は非常に悔やんでいます。また、アパルトヘイトは人道に対する罪であると国連で採択されたにも関わらず、国内外の多くの企業がアパルトヘイト的状況を目指し続けていることも非常に残念です。
元谷 そのような形で人種間の対立をソフトランディングさせていったのですね。ルワンダでは一九九四年のフツ族とツチ族の対立による虐殺で、五十万~百万人の犠牲者がでました。そもそもフツ族とツチ族は、植民地時代に植民地統治を進めたベルギーが統治を容易にするために、一つの民族を二つに分けたものです。それが人々が殺し合う遠因になってしまいました。今ルワンダでも和解のプログラムが進行していると聞いています。
ペコ 憎しみの連鎖を続けるのではなく、和解と赦しによって未来を向いて歩み始めるというのは、世界共通の流れになっています。しかし、和解のためには真実を包み隠さず語らなければならないと教えることが重要です。偽りの和解になってはいけません。
 

土着の哲学「ウブントゥ」が南アをカオスから救った

元谷 私は二十一年前に、まだアパルトヘイトが行われていた南アフリカに行ったことがあります。裏庭にゴルフコースまである大金持ちの家を訪問した時に、軍隊のような自動小銃を持った自警団がいるのを見て、武力衝突が深刻化したら、大変なことになると感じたものです。国や国民にとって一番悲惨な状況は内戦です。アメリカが過去最大の戦死者を出したのは、正に内戦である南北戦争です。南アフリカで内戦が発生しなかったのは、本当に良かったと思います。
ペコ 確かにおっしゃる通りなのですが、そうはいっても、多くの国民が犠牲になりました。一九八〇年代後半に約三万人が虐殺されたとされています。
元谷 一九九〇年に釈放された後の数年間、マンデラさんは、当時のデクラーク大統領と共に様々な施策の実行や協議を行っていて、二人揃って一九九三年にノーベル平和賞を受賞しています。一夜にして変化したのではなく、じっくりと準備していったのが良かったのでしょう。私が最も英断だと感じているのは、核兵器の廃棄です。世界中の国がこの部分に非常に注目していたと思うのですが。
ペコ 白人政権は核兵器を保持し続けたかったと思います。しかし黒人政権の手に委ねることには抵抗があった。黒人の人々も核兵器には嫌悪感があり、その点でコンセンサスが得られて、核廃棄へと繋がったのだと思います。
元谷 しかし世界に対して安心感を与えることになりました。
ペコ それは確かですね。また南アフリカは、核保有を放棄し、他国における更なる核拡散を抑止した唯一の国としての道徳的権威も得ました。
元谷 内戦も起こらず、隣国との戦闘も起こらず、理想的な融和だったと思います。特に恨みつらみを引きずらない部分が。翻って韓国の態度はどうか。そういった言葉すらなかった所謂「従軍慰安婦」の件で日本を非難し続けています。未だに日本軍が十万人の韓国女性を拉致して性奴隷に仕立てたという、事実と反する主張を、大統領自らが他国にまで行って吹聴しているのです。事実に基づく恨みならまだしも、元々が虚偽なのですから、日本はいい迷惑です。中国が主張する南京大虐殺も同様に、一人も民間人である女性や子供を殺していないのに、三十万人も虐殺したと言い募っているのです。
ペコ 歴史や歴史上の出来事は、それを伝える人を通じて解釈されます。だからこそ、和解のプロセスを重視することが大切なのです。和解によって歴史のすべての側面が表面化し、理解へと繋がるからです。南アフリカの場合、結果的には上手くいきましたが、途中には大変なことがいっぱいありました。しかし和解の要因また和解への鍵となったのは、マンデラやガンジー以上のものだったのです。それは「ウブントゥ」という土着の哲学です。この言葉には、人間味、つまり、「他者との協調」「他者との違いの尊重」「皆があっての自分」という意味が込められています。マンデラはこの古くからの思想を皆に思い出させてくれました。この言葉がなければ、国は混乱状態になっていたでしょう。アパルトヘイト撤廃後の南アフリカの中心的な結束力そして規範として、ウブントゥは重要な役割を果たしてきたのです。
元谷 そういう古くからの哲学もプラスに働いたのですね。よくわかりました。また南アフリカの今日の状態には、日本も一役買っていると思うのです。日露戦争や第一次世界大戦で勝利し世界の主要国へと成長した日本は、一九一九年、国際連盟の規約に人種差別撤廃を盛り込もうとしたのです。アメリカのウィルソン大統領の姑息な議事進行によって、多数決を得ながら全員一致ではないと不採択とされてしまいましたが…。また大東亜共栄圏の基本は民族の平等です。インドネシアでもインドでも、民族が立ち上がることができるよう、日本軍は地元民による軍隊を作って訓練を施しました。これらのことがあったから、先の大戦後多くの有色人種の国が次々と独立を果たすことができたのです。日露戦争で日本が負けていれば、三百~四百年続いてきた白人支配が、もう百年は伸びても不思議ではないでしょう。南アフリカも日本が日露戦争・先の大戦などの戦争を戦ってきた結果として、今日のような白人と黒人が同じ権利を持つ国となることができたのではないでしょうか。
ペコ それは大いに関連があると思います。しかし、植民地主義というのは抑圧的なもので、他国への統治を強要しているのですから決して称賛されるべきものではありません。私は入植者の侵略的なやり方に反旗を翻すのは、すべての植民地国の権利であると考えています。植民地支配を受けた国で暮らす人は、植民地の記憶は失ってはいけないと考えています。植民地の抑圧の下で暮らした教訓は忘れてはいけません。記憶にとどめることで、世界で二度と同じことが繰り返されないようにしなければならないのです。この記憶の上に新しい社会を作るべきだと。確かに植民地になることで教育を受けることができ、インフラの恩恵も受けられます。しかし植民地やアパルトヘイト統治の支配を受けていた側から考えるとそのインフラも、またアパルトヘイト時代に発展した産業も、私達の父、母、祖父母たちを無報酬・低報酬で強制労働させることで完成させたものであることを認めなければなりません。それを忘れてはいけないのです。
 

結果の平等ではなく機会の平等が必要 これを担保するのは教育のみ
朝鮮王家に嫁いた皇族も朝鮮半島は植民地ではない

元谷 わかります。ただ先の大戦時の日本の場合は、ちゃんと労働対価は支払って、なおかつ完成したインフラはその国に残してきました。西欧列強は植民地を収奪し土地や資源、無料の労働力を得る場所と考えていましたが、日本は台湾や朝鮮半島を北海道と同じく、開拓して日本化する事を考えていたのです。だから大阪や名古屋よりも早くソウルや台北に帝国大学を作りましたし、朝鮮王家に日本の皇族を嫁がせることも行いました。西欧諸国で、植民地の王家に自国の王族を嫁がせた国があったでしょうか?
ペコ 確かにかなり異なりますね。
元谷 先週、台湾で元総統の李登輝さんと二時間半、対談をしてきました。その時聞いたのですが、一八九五年の下関条約によって台湾が日本領になった直後、教育が重要と考えた日本政府は、日本から教育官僚と七人の教師を台湾に派遣して、小学校を作りました。最初は八人の生徒しかいなかったそうです。しかし生徒の親は、勉強するより仕事をしろという考え。親達の不満と反日運動の高まりが一気に爆発し、六人の教師が殺されてしまったそうです。通常であればそんな台湾に行きたいとは思わないはずですが、替わりの教師を募集したところ、三百人以上の応募があった。多くの日本人が台湾の教育のために命を賭けようと申し出たのです。亡くなった六人の教師は「六氏先生」と呼ばれ、再建された墓や碑が今でも台湾にあります。
ペコ そのお話は知りませんでした。
元谷 日本化が目標でしたから、日本の台湾総督府は疫病撲滅にもかなりのお金と労力を使いました。烏山頭ダムなどのインフラ事業も、全て日本からのお金を使って、労働者にも賃金を払って行われたものです。そしてこれらのインフラを活用して、戦後台湾も韓国も経済発展を遂げることができたのです。台湾の人々からは日本は高く評価されていて、感謝もされているのですが、先程お話したように、韓国の人々は違います。ペコさんは従軍慰安婦の問題について、どう思われますか?
ペコ 非常に複雑な問題だと思います。歴史観は常に当事者側の視点で語られるものなので、どちら側に立つかで意見が異なってくるでしょう。外部の人の理解にあたっては、常にすべての人への正義を促進することです。南アフリカでも、歴史を伝える人やその当事者によって見解が分かれる事案は数多くあります。黒人の人々は白人による支配の経験から物事を語るでしょうが、白人の人々が必ずしもそれを理解したり、自らを搾取者だとは思わないでしょう。歴史を語る上で大切なのは、真実や尊厳、正義を示す方法で伝えることです。
元谷 いずれ真実が明らかになると、私は考えています。先ほどからペコさんがおっしゃっている「国の資産で経済的に太った人々がいる」という問題ですが、解決にはやはり「税」による施策が必要ではないでしょうか。例えば相続税です。日本が世界の中でも格差が少ないと思われているのは、相続税が世界一過酷なためでしょう。不当に利益を得た人々からも、この相続税をしっかり取って、時間をかけて徐々に人々に還元していくのです。逆に一気に取り上げるようなことをしては、混乱を招くだけでしょう。
ペコ 確かに流出した資産を元手に大きな利益を上げている企業は存在します。強権的な資金回収は、企業を国外に逃亡させてしまうだけなのも、理解しています。ですからソフトランディングのために今、所得の累進課税の導入を行おうとしています。
元谷 やろうとしているのですね。累進課税も大丈夫です。相続税は、日本では高すぎるので税率を低くしろという声が大きいですが、南アフリカではもっと税率を上げてもいいかもしれません。
ペコ 確かにそうです。他にも問題はあります。南アフリカ国民全てから提示されたウブントゥの考えを、政府のバックアップによって白人も受け入れ始めています。しかし南アフリカを一国家として発展させようという愛国心を持たず団結しない人々が経営する一部の企業には、まだ抵抗や反発が残っています。
元谷 「金持ちを貧乏にしたところで、貧乏人が金持ちになるわけではない」と言ったのは、イギリスのサッチャー元首相でした。必要なのは結果の平等ではなく、機会の平等でしょう。機会の平等を担保するのは、教育しかありません。貧しい国を豊かにするにも、教育しかないのです。そして能力によって、人種に関係なく要職に就けるようにするのです。まずは教育を受けられない人を減らすべきでしょう。日本が明治維新後に急速に近代化を進めることができたのも、江戸時代から寺子屋や藩校制度があって、日本人の教育水準が高かったからです。
ペコ おっしゃる通りで、私達も同じように考え、今国家予算の一九%を教育に充てています。これは世界の中でも高い水準です。また就職機会の平等も実現しようとしています。やはりまだ白人の方が就職率は高いのです。そこで法律を作り、黒人権利拡大政策(BEE政策)を打ち出して企業に黒人の登用を促し、活躍の場や企業保有の機会を与えています。また雇用を均等に行っているかなどの項目で企業を評価、BEEの平等性コンプライアンスの高い企業が優先的に国の事業を落札することができる仕組みを、十年前から導入しています。
元谷 それは素晴らしいことです。私は中学生の時に父親を病気で亡くし、奨学金を得て高校に通い就職、働きながら慶應義塾大学の通信教育課程で学びました。今ではインターネットの普及で、eラーニングが発達、さらに働きながら勉強ができる環境が整ってきました。南アフリカでも、このeラーニングを活用していますか?
ペコ はい。南アフリカは世界最大規模のeラーニングシステムを開発し、国民の教育に活用しています。創立100年の南アフリカ大学は、世界で最大級の通信制大学です。
 

南アの学生はまだ日本の学生に敵わない 教育のレベルアップが次の目標だ
海外に出て視野を広げチャンスを掴むべき

元谷 勉強する機会がなくて貧乏な人が金持ちになれない社会は駄目です。税と教育による平等化は、時間はかかりますが、必ず豊かな果実が実る施策です。もうすでに南アフリカではかなりのレベルで実行されていると聞いて、非常に安心しました。
ペコ 不平等をなくせば経済システムが確立されて、国が発展していく…というのが、私達の基本的な考え方です。これからの課題は、教育を一歩進めて、イノベーションを起こすことができる人材を育成することでしょう。大学で学んでも、南アフリカの卒業生はまだ日本の卒業生には、全く敵いません。教育のレベルアップが求められています。
元谷 ペコさん自身はどんな教育を受けていらっしゃるのですか?
ペコ 私はアメリカのインディアナ州とニューヨークの大学で学び、経済学の博士号を取得しました。
元谷 素晴らしい学歴です。お父様はどんなお仕事をしていたのですか?
ペコ 実は、私は政治家の家庭の出身なのです。父は名が知られたジャーナリストであり、人権問題専門の弁護士でもあり、野党のリーダーの一人でもありました。マンデラの次に大統領になったムベキは、父のいとこです。父とは政治的には対立していましたが(笑)。私は三人姉妹の長女です。父は自分の知名度や影響力は一切当てにせず、自分の力で努力して成功を掴めといつも私達子供に言い聞かせていました。しかし教育は全ての人間を平等にするというのがポリシーで、私達にも十分な教育の機会を与えてくれたのです。
元谷 それでアメリカに留学したのですね。いつ南アフリカに戻ったのですか?
ペコ マンデラ大統領が誕生した翌年の一九九五年に戻りました。投資会社などで六年間経験を積んだ後独立、自分でビジネスを始めました。
元谷 ペコさんも元は実業家だったのですね。
ペコ はい、そうです。三回ビジネスで失敗して、父にも向いていないのでは? と言われたのですが、四回目の貿易のコンサルティング業で成功、次に始めた消防署や警察などの制服専門の衣料メーカー事業も上手く軌道に乗せることができました。
元谷 そんなビジネス畑のペコさんが、どうして外交の世界に飛び込むことになったのでしょう?
ペコ 会社経営を行うのと同時に、私は毎週新聞にコラムを書き、テレビやラジオにレギュラー番組を持っていたのです。主に政治について話したり、書いたりしていたのですが、政府に対してかなり批判的で、政治家にも厳しいインタビューを行うことで知られていました。ある日、知り合いの大臣から、大統領官邸でナイジェリアなど四カ国の首脳を招いて行う晩餐会があるから、ぜひ出席して欲しいという電話があったのです。気乗りせずに行くと、途中で別室に呼び出され、いきなり駐カナダ大使をやって欲しいと言われ、びっくりしました。即座に断ったのですが、経済に強い人に大使になって欲しいと熱心に説得されて、父にも相談した上で承諾したのです。
元谷 それは厳しい政府批判をするペコさんを国外に出すためかもしれませんね、ところで会社経営の方はどうされたのですか?
ペコ 妹に託しました。カナダで忙しい仕事を楽しんでいたのですが、「次は駐日大使に」とズマ大統領から直接依頼されて、二〇一二年四月に日本にやってきました。
元谷 よくわかりました。私と同じ実業家ということで、親近感が高まりました(笑)。最後にいつも「若い人に一言」をお聞きしているのですが。
ペコ 自分が生まれた国の中に留まって、小さな世界で外から目を逸らして生きるのは心地よいかもしれませんが、たくさんのチャンスを失っています。世界中のいろいろな国を訪れることで、考えが変わります。チャンスも生まれてきます。大事なのは、自分の努力でチャンスを掴みとるということ。そして国や世界に貢献する「何か」を行うのが、人生の意義だと思います。
元谷 国や世界のためになることが、人としての在り方というのは大賛成です。今日は本当にありがとうございました。
 

モハウ・ペコ氏
20年以上、事業家としてそして国連機関のコンサルタントとして活躍。2010年に外務省に入り、2010~2011年カナダ駐在の南アフリカ共和国高等弁務官、2012年より駐日特命全権大使。

対談日:2013年12月5日