誇れる国「日本」の再興を目指す運動を進めている私は五月に『誰も言えない国家論』という新しい著作を上梓するために、ここ数カ月準備を進めてきた。私は日本が誇りと自信を取り戻すためには、日本が泥沼の日中戦争に引きずりこまれ、望んでもいない対米・英戦に突入し、止めたくても原爆が投下されるまで止められなかったことの真の理由を、近現代における日本を取り巻く情勢を正しく理解することで知ることが重要だと考える。前作『報道されない近現代史』では、二◯◯四年に北朝鮮の龍川駅付近で起こった列車爆発は、核開発を断念しない金正日暗殺を狙った中国軍事委主席の江沢民が北朝鮮軍の一部を唆して起こした列車爆破テロだったという大胆な推測をはじめ、日本を取り巻く諸外国の近現代史の動向を、「核兵器」というキーワードの下に「戦後歴史は核を廻る鬩ぎ合い」であると書いた。そんな赤裸々な衝撃的論点で書いたにもかかわらず、ほとんどのメディアはこの本を黙殺した。ならばと私が次に行ったのが、「真の近現代史観」懸賞論文の募集だった。これに当時航空幕僚長だった田母神俊雄氏が『日本は侵略国家であったのか』という論文で応募し最優秀賞を獲得。これが彼の更迭へと発展し、国論を二分する大論争を巻き起こすという、私の予想以上の大反響を呼ぶことになった。昨年の第二回「真の近現代史観」懸賞論文では、明治天皇の玄孫にあたる慶応義塾大学講師の竹田恒泰氏の『天皇は本当に主権者から象徴に転落したのか?』という素晴らしい論文に最優秀賞を贈ることができた。日本の今の状況を打開すべく、今年も懸賞論文は引き続き募集するが、さらにその後押しをするために、新しい著作を私は世に問うことにした。その内容の一部をここで紹介したい。
この本の最初に書いたのは、「張作霖列車爆破事件の真相」である。一九二八年に起こった張作霖の爆殺は、従来は関東軍の河本大佐によるものとされ、このときから日本は日中戦争の泥沼へと嵌り込んでいったとされていたが、真犯人はソ連特務機関だったという説が、ロシアの歴史作家ドミトリー・プロホロフ氏が出版した「GRU帝国」に出されており、これは田母神氏が最優秀賞を獲得した論文にも引用されている。私はロシアのサンクトペテルブルクまで出かけてプロホロフ氏と対談し、さらに氏を日本に招いて、記者会見も行った。私の推測では彼は元特務機関員であり、彼の上司であった、全ての情報に接することのできたドミトリー・ヴォルコゴノフ氏からリークされた情報とソ連の崩壊に伴なって流出した機密情報並びに一度公開された機密文書からソ連の特務機関に関する著作を多数出版している。また、プロホロフ氏の説を裏づけるものとして、イギリス陸軍諜報部の極東課が、本国に対して二回にわたって「使われた爆薬はソ連製であり爆殺はソ連の特務機関の仕業」と伝えている報告書が残っていて、二◯◯七年に公開されている。では、ロシアやイギリスが最近になって相次いで張作霖爆殺の真相を明らかにし始めた理由は何か。それは捏造と歪曲によって作られた歴史問題で絶えず中・韓に非難されて、謝罪を繰り返す日本の「引け目」を解消することで、経済的にも軍事的にも肥大化してきた中国を牽制するためだ。それほど世界各国は中国に警戒心を抱き始めている。
新しい本の最後は、今の鳩山政権への危惧と先の大戦の真相究明に充てられている。中国の台頭に世界が緊張感を高める中、日本を振り返ってみると、鳩山政権の「危うさ」は目を覆うばかりだ。はっきり言えば、鳩山氏は総理になるべきではなかった。一国のリーダーに必要な哲学と国家観が徹底的に欠けているのだ。「友愛」が結ぶ東アジア共同体構想も幻想の産物。共産党一党独裁の中国や反日を繰り返し叫ぶ韓国とどう共同体を築くのか。また鳩山政権から日米中は正三角形の関係、日本は米中の仲立ちを行うというニュアンスの発言が聞かれる。同盟国のアメリカと核ミサイルの照準を日本の大都市に合わせ続ける中国と同じ距離で付き合うというのは、ナンセンス極まりない話だろう。人がいいだけでは、国を治めることはできない。鳩山首相は、今の日本の体たらくの原因もよく理解していないだろうが、その発端は、先の大戦にまで遡ることになる。
先の大戦では、開戦からして日本は米・英の謀略にはまった形だった。一九三九年の大戦開始から一気にヨーロッパ大陸を席捲したナチス・ドイツに対して単独で戦わざるを得なくなったイギリスは、アメリカのヨーロッパ戦線への参戦を熱望していた。しかし時のアメリカ大統領・ルーズベルトは、欧州不参戦を公約に大統領選挙に当選していたため、通常の形での参戦は不可能だった。そこで一九四◯年に結ばれた日独伊三国同盟を利用することを思いつく。経済封鎖で日本に圧力をかけることで暴発を誘発し日米戦が始まれば、三国同盟を根拠に「アメリカは直ちにドイツに宣戦布告ができる」のだと。当時の日本は米英と戦うというイメージは薄く、仮想敵国は常にソ連だった。しかしABCD(米・英・中・蘭)包囲網と呼ばれた経済封鎖などの圧力と最後通牒とも言えるハルノートを突き付けられ、結局ルーズベルトの期待通り日本は一九四一年十二月に、刻々と伝わる情報で真珠湾攻撃を探知していながら何の警戒態勢もとらずにおいて、「これを騙し討ちだ」と大々的に「パールハーバーを忘れるな」と戦意を煽るアメリカとの望まぬ戦いの泥沼に足を踏み入れることになったのだ。
共産主義国と民主主義国ということで、もともとは敵対関係にあったソ連とアメリカだが、一九四一年の独ソ戦開始後は、敵の敵は味方ということで手を結ぶことになり、援助としてアメリカの兵器や軍事技術などが大量にソ連に運び込まれるようになった。これにより、ソ連は次第に軍事力を増した強国へと発展していく。一九四四年六月にノルマンディー上陸作戦が行われ、対ソ連の東部だけではなく西部戦線も戦わなくてはならなくなったドイツの敗色は、日に日に濃厚になっていった。しかし起死回生策としての新兵器である原爆が先にドイツで完成すれば一気に形勢逆転されるとの不安からアメリカはかねてより開発を進めていた原爆の製造を急いだ。そこでアメリカは早くも戦後のことを考え始める。このままでは、ドイツを破った強大なソ連が戦後の世界を席捲しかねない。なんとしてもソ連を牽制したい。そのために、アメリカはドイツと同じく敗色濃厚だった日本との戦争を長引かせ、四五年五月にドイツが敗北したのちも戦争を続け、原爆を完成させ、広島・長崎に投下した。
日本にとって、天皇制最大の危機は先の大戦末期から敗戦後の占領軍支配だった。東条内閣が一九四四年七月に倒れてすぐ、日本の戦争終結への模索が始まる。一九四五年二月には戦争の長期化がソ連による日本占領(日本赤化)を招くと主張して、近衛文麿元首相は戦争の終結を主張する「近衛上奏文」を天皇に進言した。のちにこの工作を察知した憲兵隊によって吉田茂、岩淵辰雄、殖田俊吉ら、いわゆる「ヨハンセングループ」が逮捕されている。そして軍部は「国体護持」を主張して戦争を継続した。三月には南京国民政府高官に蒋介石政権との和平の仲介を依頼、四月には日ソ中立条約が有効であったソ連を仲介とした和平工作を行おうとした。六月にはソ連大使ヤコフ・マリクを通じ、近衛文麿らを昭和天皇の特使としてソ連に派遣、和平協議を行うことを申し出た。このように一九四四年段階から日本が戦争を止めたがっていたことと、そのための条件が天皇制維持(国体護持)しかないことを、連合軍はあらゆるチャンネルから情報を得て知り尽くしていた。天皇制が消滅することは、日本国が消滅するのと等しいこと、日本がなかなか降伏に踏み切れなかったのは、敗戦後に天皇制が維持できるかどうか、はっきりしなかったからだ。しかし「はっきりしなかった」のは、アメリカの謀略だった。
現在に換算すると二百億ドルの巨費を機密費で賄い、三年もかけて原子爆弾を完成直前にまで漕ぎ着けてきたトルーマンだったが、これだけの金額を機密費で使えばいずれ議会の承認が必要となる。さらに先に述べたようにソ連との間ですでにドイツの敗北が濃厚になってきた時から始まってきた米ソ冷戦で大戦後世界でソ連より優位に立つためにも、原爆の威力を実戦で示す必要があった。だからこそ、原爆が圧倒的な破壊力で惨劇を引き起こすと十分承知していながら、その投下を決意していた。しかし日本は降伏目前。降伏されれば原爆の実戦使用はできず、議会の承認は困難となり、対ソ戦略も窮地に追い込まれる。そこで日本が受諾をためらう最大の問題である天皇制存廃を曖昧にして時間を稼ぎながら、制空権も制海権も握っていて攻略の必要性の薄い硫黄島での戦い(一九四五年二月~三月)、沖縄戦(同三月~六月)と都市の非戦闘員を対象とする無差別爆撃(主として四五年三月の東京大空襲~終戦)などで、アメリカ、日本双方の犠牲を積み上げていった。激戦だった硫黄島では、日本軍は約二万人の戦死者を出したが、アメリカ軍も二万九千人近くの死傷者を出し、沖縄戦では日本の軍民合わせて死者・行方不明者十八万八千人とアメリカの死者・行方不明者は一万二千五百人で負傷者も合わせれば八万五千人も出し、東京大空襲では約十万人、全国では二十万~三十万人もの非戦闘員を虐殺したのだ。これによって日本と本土決戦を行えば、それ以上の膨大な犠牲が生ずるはず。これを回避するための手段は一つ…と、原爆使用の必然性を演出したのだ。七月十六日にようやくプルトニウム型原爆実験に成功したアメリカは、八月六日に広島でより高度な技術が必要なウラニウム型の原爆を、八月九日には長崎にプルトニウム型の原爆を投下した。二種類の原爆を投下したのは、これがアメリカにとっては「実験」であったことを物語る。この時投下された広島、長崎をはじめ、京都・小倉・新潟などの都市が原爆投下候補地となっており、効果を測定するためにそれらの都市には通常爆弾による空襲は行われなかった。なにもアメリカ人が文化的だという理由で、京都が空襲にあわなかったわけではないのだ。
そもそもナチス・ドイツの迫害から逃れるためにアメリカに亡命したドイツのユダヤ系科学者などを督励して原爆開発を進めるためにも一九四二年八月から始まったマンハッタン計画の初期段階の四三年五月時点ですでにアメリカの原爆投下対象はドイツではなく日本だった。一九四四年九月十八日ハイドパーク協定によりアメリカとイギリスの首脳は日本への原爆使用に合意した。このように原爆は日本に使用することを前提に造られたもので、アメリカはどうしても戦後世界覇権を得るために日本に使用したかったのだ。こうしてアメリカは天皇を利用して、人道に対する過去最大の罪ともいえる「原爆投下」を日本に対して行ったのである。
良い国に原爆を落とした国は悪い国になってしまう。アメリカの原爆投下を正当化するためには、日本は悪い国になる必要があった。そのために行われたのが東京裁判で、戦争責任の全てを日本に押し付けたことと、GHQによる日本の新聞、出版物の検閲による日本人の洗脳だった。彼らが巧妙だったのは、戦前、戦中の日本の検閲のように修正部分を黒く塗りつぶすのではなく、問題のある文章を一から書き直しさせたことだ。これで検閲の事実は表には出なくなった。「日本が悪い国だった」と国民に刷り込むためのこの書き直しには五~六千人の日本人のエリートが従事。彼らの良心の呵責を抑えるために、莫大な報酬が支払われた。そんなGHQの日本人洗脳の片棒を担いた人々が一切その事実を明らかにせず、その後新聞などのメディア人、官僚、学者など俗に言う「進歩的文化人」となり、日本の左翼思想をリードしていった。またGHQは戦前・戦中の日本を評価した本約七七○○部(種類)を集め全て焚書にしてしまった。そうして、しだいに「アメリカは善い国」「日本は悪い国」という意識が日本に定着してきた。今の私たちが自国に誇りも持てない体たらくな状況になったのも、すべてここに原因があるのだ。
もしアメリカが日本の降伏をすぐに受け入れるつもりがあれば、ドイツ降伏より前の一九四四年段階で太平洋での戦争はほとんど終わっており、硫黄島や沖縄の戦いでアメリカ軍の多数の将兵が犠牲になることもなかった。しかし莫大な人的犠牲を払ってでも大戦後のイニシアティブをとろうとしたアメリカの行動は、自国の国益を優先する国際社会の常識からすればある意味当然のことである。先の大戦の終結後、一九五〇年から始まった朝鮮戦争では、当初圧倒的な勢いだった北朝鮮軍に対して、アメリカ軍を中心とした国連軍は仁川上陸作戦で反撃、北朝鮮軍を中朝国境近くまで押し返した。このタイミングで、建国から一年しか経っていなかった中華人民共和国は、国共内戦の敗北者である国民党軍の投降兵を殲滅覚悟の最前線にたてて、朝鮮戦争に参戦。人海戦術によって意図的に建国間もない中国の不穏分子となる兵を一掃しながら、国連軍を三十八度線にまで押し戻すことに成功した。一説にはこの戦いで、約百万人の中国軍兵士が戦死したといわれている。これを聞くと多くの人が「人道的」という名の下に中国を批難するが、それはちっぽけな平和論に過ぎない。歴史を俯瞰すると、どの国も国益のためには、嘘をつき、人を殺し、戦争を始めては他のせいにしているのだ。世界は常に情報謀略戦を戦い続けている。この現実の前には、鳩山首相がいう「友愛」や「正三角形」など、歴史や外交戦術がわかっていないものの世迷い言に過ぎない。こんな宰相を仰いでいるようでは、日本が中華人民共和国日本自治区になる日も遠くないだろう。来るべきその悲劇を阻止するために、私は実業家という立場でありながら、今回『誰も言えない国家論』を出版することにしたのだ。ぜひ多くの方々に読んでいただき、私と思いを同じくして欲しいと願っている。