GOOD TALK

積み重ねてきた不断の努力が最後の最後に自分の自信になるVol.6[2025年11月号]

公益財団法人 全日本スキー連盟 会長 原田 雅彦
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アパグループ専務 元谷 拓

あらゆる環境にアジャストして、その中で最善を尽くして飛躍することでチャンスをつかもう。

アパグループ 専務 元谷 拓

一九九八年に開催された長野オリンピックの男子スキージャンプ・ラージヒル団体競技において金メダルを獲得、その他にも選手としてスキージャンプ競技で様々な実績を残し、二〇〇六年に引退、指導者の道へと進んだ原田雅彦氏。二〇二二年の北京オリンピックでは日本選手団の総監督を務め、二〇二四年十月には全日本スキー連盟会長に就任した原田氏の、失われることのないファイティングスピリットにアパグループの元谷専務が迫ります。
原田 雅彦氏 Harada Masahiko
1968年生まれ、北海道上川町出身。スキージャンプ競技において、1990年代を中心に第一線で活躍。冬季オリンピックには5大会連続で出場し、1998年長野オリンピックでは個人で銅メダル、団体で金メダルを獲得している。引退後は指導者として活動する一方で、2015年より公益財団法人全日本スキー連盟の理事、2024年からは会長を務めている。
恐怖を凌駕する
「遠くまで飛びたい」思い

元谷 グッドトークにご登場いただき、ありがとうございます。原田さんは、北海道のご出身ですよね。

原田 はい、そうです。札幌から約二百km離れた上川町で生まれました。この町のスキー場に小さなジャンプ台があって、「飛んだら気持ちいいだろうなあ」と、小学校三年生の時に初めて飛んでみたのです。

元谷 怖くはなかったのですか。

原田 見ている時は怖くなかったのですが、実際に飛んでみると怖かったですね。たった七mほどのジャンプでしたが、体がふわっと浮いた感覚が心地良かった。この感覚は選手として現役の間、ずっと持ち続けていました。

元谷 そこから、スキージャンプ競技人生をスタートさせたのですね。

原田 はい。中学、高校と大会で優勝を重ねて、学生時代は順風満帆な競技生活でした。周囲から将来はオリンピックだねと言われたのですが、個人的にはただ飛ぶことが大好きで。

元谷 その後、高校を卒業してすぐに雪印乳業(現・雪印メグミルク)に入社、スキー部に所属することになります。

原田 社会人としてジャンプを続けることになったのですが、やはり大人の競技の世界は学生とはレベルが異なり、最初はなかなか上手くいきませんでした。オリンピック選手を明確な目標として努力を重ねることで、ようやく成果が出るようになりました。

元谷 スキージャンプは「飛ぶ」という要素のために、他の冬の競技よりも風等の自然環境の影響を強く受けます。選手は自然環境をどのように考えているのでしょうか。

原田 どんなコンディションでも歯を食いしばって耐えている…というところでしょうか。実際、上手く飛んでも自然環境に左右されて距離が伸びない場合の方が多いのです。

元谷 風が吹くにしても、追い風よりも向かい風の方がいいと聞いたことがあります。

原田 はい。ジャンプ台に向かって吹く上昇気流に乗れば、体がふわっと浮くのです。

元谷 しかし、横からの突風は怖いですよね。

原田 横風の影響を受けたりして、練習で転ぶことがあるのですが、物凄く痛いです。そもそもジャンプ台を九〇km/hで飛び出すのですが、空中では一〇〇km/hになります。そんなスピードで生身の人間が飛ぶのですから、怖いことは怖いのですが、選手は皆、それを上回る「遠くまで飛びたい」という気持ちを持っているのです。

日本中の人々の成果だった
長野五輪の金メダル

元谷 日本代表としてオリンピックはもちろん、世界選手権やワールドカップに出場して、栄光を掴んだり挫折したりした原田さんは、やはり常にスーパースターだったと思います。原田さんに関して一番日本人の記憶に残っているのは、一九九八年の長野オリンピックの団体の金メダルでしょう。自国開催ですし、実績からも、国民のジャンプ団体での金メダルの期待が非常に大きい大会でした。

原田 一九九四年のリレハンメルオリンピックではこの競技、日本代表は銀メダルでした。それもあって、長野オリンピックではなんとしても金メダルが獲りたかった。私自身、凄いプレッシャーを感じていました。会場には四万人もの観客が入っていて、テレビを含めると日本中が応援している状態でした。

元谷 当時大学生だった私も、テレビに齧りついていた憶えがあります。

原田 スキージャンプの団体競技では、一チーム四人の選手が二本ずつ飛ぶのですが、一本目が終わった段階で日本は四位でした。ところがあの日、本当に競技を行うのかというぐらい、天候が悪かったのです。ルール的には二本目を中止して、一本目の成績で順位が決まる可能性がありました。それを役員総出で除雪を行い、映画「ヒノマルソウル~舞台裏の英雄たち~」(二〇二一)でも描かれていたように、控えの選手達が勇気を持ってテストジャンプに挑み、一人も失敗しなかったことで二本目の競技が行われることになりました。四万人の観客も一人も帰ることなく、競技を待ち続けてくれました。

元谷 そこからの大逆転でしたね。

原田 二本目は最初に岡部孝信選手が一三七m飛んで、日本が一位になりました。二番目の斉藤浩哉選手が一二四m、三番目の私も一三七mの大ジャンプを飛ぶことができました。そして最後の船木和喜選手が一二五mのジャンプを決めて、日本が金メダルを獲得することができたのです。

元谷 あの時の原田さんの姿に感動した記憶のある人は、非常に多いと思います。

原田 決まった後に、私は泣きじゃくりながら「俺じゃないよ、俺じゃないよ」と言っているのです。あの時は全国の人が、金メダルを獲るためには自分が何ができるかを探して実行したと思うのです。日本中が一つになって、皆のおかげで金メダルを獲得できた。何かを成し遂げるというのは、そういうことなのかと気づくことができました。

来年の冬季五輪に向けて
順調に進む選手の育成

元谷 挫折からの復活を何度も経験してきた原田さんですが、スポーツ選手は挫折した後、どのようにモチベーションを取り戻していくのでしょうか。

原田 自分が積み重ねてきた努力を否定しないことが大事だと思います。ライバルに勝つためには目標を決め、自分の足りないところを探し、そこを強くするトレーニングを積み重ねていく必要があります。私も人がやらない辛い練習を積み重ねて、肉体的にも精神的にも選手として強くなりました。こういった努力が実るのがスポーツの世界なのです。

元谷 原田さんにとってスキージャンプという競技は、どういう存在なのでしょう。

原田 自分を人間的に成長させてくれたものです。北海道の田舎町に生まれた情けない少年が、スキージャンプによって自信を持つことができました。また競技を通じて、沢山の方に出会うことができたのも、私の大きな財産になっています。

元谷 二〇〇六年に選手を引退、今は全日本スキー連盟のお仕事もされています。連盟は今、どんな課題に取り組んでいるのでしょうか。

原田 全日本スキー連盟は大会の開催、選手の育成だけではなく、スキー・スノーボードの普及も担う団体で、指導者の認定等も連盟の仕事です。今最大の課題はスキー・スノーボード人口の減少です。雪の楽しさを伝えて、もっと多くの方にスキー場に来ていただく方策を考えています。一方、来年(二〇二六年)のミラノ・コルティナオリンピックに向けた選手の育成は、強化策の成果が出て非常に順調です。スキージャンプ競技でも、小林陵侑選手や髙梨沙羅選手らが、有望なメダル候補として挙がっています。彼ら彼女らが、日本中を感動させる活躍をしてくれると信じています。

元谷 来年二月が楽しみです。

原田 現役を引退してもこれまでずっとスキーの仕事が続けられていて、とても幸せな人生だと思っています。これからも頑張って連盟の仕事に邁進しますので、皆さん日本選手の応援をよろしくお願いします。

元谷 わかりました。今日は本当にありがとうございました。

原田 ありがとうございました。