馳浩の永田町通信

2011年7月号 第131回「石巻市民憲章」

 「泣くんじゃないよ。泣いてるヒマがあったら、自分に何ができるか考えなよ!!」
 一喝された私の秘書は、それでも鼻をぐすぐす鳴らしながら、言葉を失い、ただただこっくりとうなずき続けるしかなかった。
 宮城県女川町のガレキを前にしてのこと。
 このGW連休中、私は自分で運転し、宮城県でボランティア活動をしている山岸さんを頼りに、被災地視察をして来た。
 二〇年来の友人である山岸さんは、
「とにかく助けてほしい。まだガレキも手付かずだし、行方不明者も見つかっていない。まず、現地を見て、避難所を見て、話しを聞いてほしい。国会議員なんだから!!」
 国会議員なんだから、何ができる?!
 復旧復興予算を編成し、財源のメドを立てて、迅速に執行すること。
 県や市町村の自治体の権限を代執行し、国の責任で行政実務を処理するための特別立法。
「……そんなあたりまえのことだけじゃない。被災者でしかわかりえない心の苦しみに寄り添ってほしい。現地でしか見えないモノを見てほしい。一人でも多くの国民に、ここで何が起こっているかを伝えてほしい。民主党でも自民党でも、どうだっていい。ふるさとを元に戻してほしい。国会議員なんでしょ!!」
 山岸さんが、とにかく早く来て手伝ってほしいと伝える声にようやく応えることができたのは、衆議院で第一次補正予算が成立したあと。依頼を受けた物資(土のう袋、炊き出し用プラスチック食器、おもちゃ、ティッシュペーパー、お菓子、子ども用付録つき雑誌)を二台の車に積み、金沢市から仙台、石巻、女川へと向かった。
 私は文部科学委員会に所属しているので、山岸さんにお願いし、被災した小中学校と、女川町の教育委員会にアポ取りをして話をうかがうことにした。
 まず、石巻の蛇田(へびた)中学校。斉藤校長の声。
「今後の教育活動で最大の問題は、グランドに建設予定の仮設住宅です。中学生の学校生活と避難住民の生活がとなり合わせでは、どんなトラブルが起こるか心配です。それと、被災した教員の負担を考えると、加配教員を手厚く配置していただきたい。」
 次に訪問したのは、貞山(ていざん)小学校。こちらも、後片付け中の斉藤校長が対応して下さった。
「小学校は地域の避難場所なのに、水没してしまいました。まだ泥上げの最中です!!」
 と、震災から五〇日が過ぎたというのに、教職員は全員ジャージ上下にマスク姿。
「学校はいつから開始ですか?」
「四月二十一日から始まってますが、午前授業だけです。給食が間に合わないのと、被災した教職員の負担軽減です。人事も兼務発令。」
「今後に向けての要望は?」
「学校が水没しないような整備と、備蓄倉庫の充実をお願いします。少なくとも、缶詰、水、ティッシュ、燃糧、緊急時発電機、赤ちゃん用ミルク。衛生用品は必要です。」
続いて訪問した石巻中学校。境校長。
「四月二十一日に始業式をした後、臨時休校です。」
「え、どうして?」
「校舎も体育も避難所になっているからです。GW明けには授業再開予定です。ここは高台にありますが、海岸沿いの市街地は火災で壊滅したので、ここに皆逃げて来ているのです。ここのグランドも仮設住宅になる予定です。土地がないので仕方ありませんが、体育も部活動もできません。子どもたちは自主的にボランティアしていますし、全員加入している部活動に参加するため、午前中は学校に来ています。」
 やはり、教育活動と避難所運営のダブル業務で、職員室はごった返していた。
 石巻中そばの日和山公園からは、市街地一望でき、津波被害と火災のダブルパンチの惨状に、息を呑むばかり。
 公園展望台の鉄柵に、一枚の段ボール紙。
 そこには手書きの「石巻市民憲章」が。

 まもりたいものがある
それは 生命(いのち)のいとなみ 豊かな自然
つたえたいものがある
それは 先人の知恵 郷土の誇り
たいせつにしたいものがある
それは 人の絆(きずな) 感謝のこころ
わたしたちは 石巻で生きてゆく
共につくろう 輝く未来

 五月の風に吹きつけられながらも、段ボールの自筆の市民憲章は、訪れる市民やボランティアの皆さんに、確実に何かを訴えていた。
この惨状を、国会議員全てが目に灼きつけるべきだろう。与野党の生産性のない議論を永田町でやっている暇があれば、この現場に来て、この町の皆さんの声に耳を傾け、ふるさとを取り戻してあげるべき政策を早急に実行しなければならない。
泣いている場合じゃ、ない。
実践ある、のみ。

(了)