BIGTALK

働く人が夢と誇りを
持てる会社を創る
Vol.343[2020年2月号]

株式会社SHIFT 代表取締役社長 丹下大
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APAグループ代表 元谷外志雄

ソフトウェアのテスト事業という五兆円のマーケットに進出、大手のシステム・インテグレータを相手にその高い専門性で売上年一五〇%アップの急成長を遂げている株式会社SHIFT代表取締役社長、丹下大氏。創業者である丹下氏に、大成功の秘密とベンチャー企業の心構えをお聞きしました。

丹下 大氏

1974年広島県生まれ。2000年京都大学大学院工学研究科機械物理工学修了。株式会社インクス(現SOLIZE株式会社)に入社。たった3名のコンサルティング部門を、5年で50億円、140人のコンサルティング部隊に成長させ、コンサルティング部門を牽引。2005年9月、コンサルティング部門マネージャーを経て、株式会社SHIFTを設立。代表取締役に就任。2019年10月、東証マザーズ市場から東証一部に市場を変更。「スマートな社会の実現」へ向け、社会インフラ企業を創るべく、SHIFTグループの企業フェーズ、企業価値をより高みへと導き、躍進をリード。

プロ野球選手から
社長に将来の夢をシフト

元谷 本日はビッグトークへの登場、ありがとうございます。今日お招きしたのは、株式会社SHIFTのパーティーの写真を見たからです。凄い人数で会社の勢いを感じ、是非お願いしてみようかと。

丹下 今日はお招き、ありがとうございます。社員は今、グループ全体だと四千人になります。SHIFT本体には千二百人が勤めています。

元谷 丹下さんは若くして大成功した経営者として知られています。創業したのが三十一歳の時だったと聞いていますが、それから十四年で年商二百億円突破は早いですね。

丹下 今年の売上は連結で二百八十億円になる予定です。

元谷 アパグループ以上の素晴らしい急成長ぶりです。私はホテルやマンションという建設に時間が掛かる業種なので、また丹下さんの会社とは様子が違うとは思うのですが。今日はこの成功の理由をお聞きしていきたいと考えています。そもそも今の事業を始めた理由は何だったのでしょうか。

丹下 今日は根本の部分からお話したいと思います。株式会社SHIFTを立ち上げたのは、今から十四年前の二〇〇五年です。スタートは一人で、渋谷区富ヶ谷の自宅マンションがオフィスでした。なぜ起業したかというと、小学校六年生の時から将来の夢が社長になることだったからです。私の実家は、広島県福山市の北にある神石高原町という人口九千人の小さな町にあります。両親ともに公務員だったのですが、私が小学校四年生だった時に、その両親から将来どうやってご飯を食べていくつもりなのかと聞かれたのです。小学生だったからでしょうか、私は将来母親が晩ご飯を作ってくれないのではという恐怖を感じました。その当時、広島東洋カープは古葉竹識監督の下、山本浩二選手、衣笠祥雄選手らが活躍していて、非常に強かった。山本浩二選手の年俸が八千万円というのは小学生でも知っていたので、その内三千万円ぐらい渡せば母親に晩ご飯を作ってもらえるのではないかと子供心に考え、「プロ野球選手になる!」と答えたのです。

元谷 可愛い理由ですね。

丹下 そして実際にプロ野球選手を目指して野球も続けていたのですが、小学校六年生の時に地域の大会に出場して大敗を喫したのです。その時に改めてプロ野球選手がどれだけ狭き門かということに気づいて、自分には無理だと感じたのです。小学生が知っている職業は他には芸能人か政治家、医者、そして社長ぐらいです。小学校で隣に座っていたのが社長の息子でいつも牛肉弁当等、高価なものを食べていたのですが、成績は今ひとつ。こんな子になら俺も勝てるだろうと、小学校六年生の時に将来は社長になると決めたのです。

元谷 私は父親が経営者でしたから、割と早い段階から将来は私も経営者と決めていたのですが、丹下さんの場合はご両親の職業とは関係なく決心していたのですね。

丹下 はい。大学は同志社大学の工学部に進学しました。祖母が寝たきりだったので、介護のできるロボットを作ろうと思ったからです。しかし在学中はあまり勉強せず、成績が悪かった。時は就職氷河期真っ只中でしたから、就職活動でホンダやトヨタなど十一社受けて、全部落ちたのです。

元谷 大手企業ばかりを受験したのですね。

丹下 はい。だから仕方がないのでもう一度自分を見直そうと、京都大学の大学院の修士課程に入りました。

元谷 京都大学とは凄いですね。

丹下 そして後がないので、一生懸命勉強しました。二年後に就職したのが、ものづくり系のコンサルティング・ファームのインクス(現 SOLIZE)という会社でした。他にも大手のシステム・インテグレータやコンサルティング・ファームを考えたのですが、インクスはそれらの中で唯一工場を持っていたのです。様々な商品の部品を作るために必要な金型の生産効率をアップすることがインクスのウリだったのですが、自社工場で実践したノウハウを他社に売るというビジネスをしていたのです。

元谷 単なるコンサルティングよりは、実態がある方がいいと考えたのですね。

丹下 はい、そうです。

新しい主義や価値への
「移行」をサポートする

丹下 私が二〇〇〇年に入社した時にはまだ社員数六十人程度の小さな会社だったのですが、五年勤めている間に千七百人規模の会社に急成長、日本経済新聞の元旦の一面を飾るようになっていました。急成長の鍵は、それまで完成までに二カ月掛かっていた携帯電話の精密金型を二日間で作る仕組みを開発したことです。これには職人の技術という「暗黙知」を「形式知」化して、標準化して自動化して作り込むという仕組みが必要なのですが、それを私が作ったのです。

元谷 その時間の短縮は、製造業にとってとても大きなメリットです。急成長する訳ですね。

丹下 この課程で、どうすれば熟練の職人の技術を標準化できるのかというノウハウを磨いたのですが、それをトヨタや日産等大手の自動車メーカーの生産効率を上げることに応用するというコンサルティングをしていました。コンサルの料金は一カ月で計算、マッキンゼー等一流のコンサルティング・ファームでも月八百万円/人ぐらいなのですが、私は一人で千五百万円取っていました。年間にすると私だけで売上は二億円にも上っていたのです。私は三十歳までに起業すると決めていたのですが、そこまでに三つの条件をクリアしなければと考えていました。まず一人で稼げること、次に稼げるようになったらマネジメントができること、最後にお金の計算ができることです。結局お金の計算は起業してからも学べると思い、前の二つができるようになった三十歳を期に会社を辞めて、自分の会社を作りました。

元谷 実際に起業したとしても、一年以内に倒産する会社がほとんど。丹下さんのところほど伸びる会社は一万社に一社じゃないでしょうか。社長には簡単になれるのですが、潰れることも多いです。まず何の事業から始めたのですか。

丹下 それがお恥ずかしい話なのですが、まずとにかく社長という名前が欲しかっただけなのです。最初はビジネスモデルも何もなくて。何の商売をやるかも決めていませんでした。決めていたのはSHIFTという社名だけです。

元谷 車でいうとギアシフトの「シフト」ですね。

丹下 転換や移行という意味があると思います。これを社名にしたかったのです。私は一九七四年生まれの第二次ベビーブームの世代で、同級生が二百二十万人もいます。大学に入るのも大変ですが、就職も氷河期だったこともあって、六十万人ぐらいは就職できなかったのです。ただ親の世代がある程度の収入があり、お金に困っていた世代でもありません。だから親の世代とは違い、お金儲けというだけではワクワクしないのです。社会主義には共感しないけど、資本主義にも違和感がある。世の中の「主義」や「価値観」が何らかの「第三のもの」に移行するだろう、移行させたいと考えて、この社名にこだわったのです。あと短い名前がいいというのもありました。渋谷区にはすでにカタカナで「シフト」という会社があったので、アルファベットの「SHIFT」という社名にしました。ロゴは友人のデザイナーにお願いして、ホームページと名刺を含めて十万円で(笑)。

元谷 アパのCIには数億円掛かったのですが(笑)。

丹下 今やれば、そうかもしれません。ロゴの色はとにかく赤。ホンダやトヨタ等日本の大企業のロゴは全部赤ですから。そして躍動感やスピード感を表現するように、ちょっと文字が斜めになっているのです。「新しい価値にシフトするための手助けをする会社」というのが、ロゴからもわかるようにしました。優秀な人を採用するには、目先の儲かる話ではなく、もっと上位概念の話をしないと興味を持って共感してくれないのです。

元谷 起業した時は一人だったのでしょうか。

丹下 はい、最初の一年はずっと一人でした。自宅マンションでいろいろな会社のホームページを見ては営業して、コンサルティングの仕事を取ってきていました。最初の五年間は迷走していましたね。コンサルティング以外にも、携帯電話の仕事や広告の新しいモデルを作る等様々な事業に手を出したのですが、どれも上手くいきませんでした。

元谷 最初に五カ年計画のような事業計画を作ったのでしょうか。

丹下 それが全く作っていなくて。ただ五年後に日経にいつも取り上げられる会社になり、十年後にIPO(新規上場)という漠然とした思いはありました。

元谷 実際に設立九年で東京証券取引所のマザーズ市場に上場、今年十月には東証一部上場を果たしています。

丹下 お陰様で…。

退屈なテスト業務を
やりがいのある仕事に

元谷 ソフトウェアのテストの事業はいつから始めたのでしょうか。

丹下 本格的に始めたのは、丁度十年前の二〇〇九年頃からです。その二年前の二〇〇七年に大手ECサイト運営会社から、ソフトウェアのチェック業務のコンサルの依頼があったのです。当時この会社はこのチェック業務を外部発注していて、それに七億円を費やしていたのですが、品質が悪い。畑違いでしたが私がいろいろ調べてみると、受託している三つの業者にノウハウがなく、受託金額も言い値で相見積も取っていない状態でした。まるで依頼主である企業が搾取されている感じです。そこで作業を標準化してテスト担当者を選抜するための試験を作成、ツールを作成してテストのノウハウが蓄積できるようにしました。すると一年でこのチェック業務費用が七億円から一億円になったのです。

元谷 その企業は大喜びでしょう。

丹下 はい。この仕事で私達が得意なのは前職の時のような企業対企業のB to Bの仕事であって、職人の技術のような暗黙知を、標準化して自動化していくような事業なのだと自覚したのです。私が二十代でやっていたのは製造業に対してでしたが、これをIT業界でやろうと。

元谷 最初に大手企業からの仕事ができたというのは、その後にプラスになったでしょう。

丹下 その通りです。その会社で仕事を発注してくれたのは、私のインクス時代の上司だったのです。インクスは非常に優秀な社員が多く、辞めた人が多方面で活躍しています。Googleの開発責任者や、皇太子が視察をした由紀精密という町工場の社長もインクス出身です。なんせ新卒で入社する八十人の半分が東大の博士でしたから。

元谷 それは凄いですね。今、丹下さんは、かつてのインクスのように急成長で社員を増やし、利益も出しています。

丹下 ソフトウェアのテスト事業のマーケットは約五兆円と言われています。その一%しかアウトソーシングされておらず、残りの九九%は実際に開発を行う大手システム・インテグレータが、私達の倍ぐらいの価格で請け負っています。SHIFTは半分の価格と専門性のある集団ということで、今発注を集めているのです。社員も毎年一千人採用していて、この業界では日本で一番の会社になっています。

元谷 業界で一番になることは非常に重要です。なぜならモノも情報も集まってくるから。まず一番をとって、そこから広げていくのです。日本で一番高い山は誰もが富士山と言いますが、二番目の山は誰も答えられません。

丹下 私も同感です。ただソフトウェア開発の四割の業務を占めるのがテストなのですが、基本的にはソフトウェアの開発者(以下、開発者)はやりたがりません。退屈だからです。

元谷 確かに創造的ではないように思えます。

丹下 そこでSHIFTでは、この業務に高給で報いると同時に、別に「やりがい」も提供しています。ソフトウェア開発では、十億円で開発しようとしたものが、十五億円や二十億円に開発費が膨らんだり、工期が延びたりすることがしょっちゅうです。主な原因は二つで、一つはお客様の仕様の度重なる変更、もう一つは不具合が発生するからです。お客様の仕様変更を止めるのは難しいのですが、そもそもの不具合の発生は抑えることができます。品質補償として、ノウハウを活用することで作られたプログラムの不具合を減らすことはより難しいミッションであり、ソフトウェア開発に従事する者の最終キャリアになるべきだと私は提唱しています。実際に業界の意識も変わってきて、開発者よりも高給でやりがいのある仕事として認知されてきているのです。毎年一千人の採用が可能なのも、この意識改革があったからです。

勇気ある決断が
経営者には求められる

元谷 顧客数はどれくらいでしょうか。

丹下 これまでにお客様は現在千二百社以上。三千製品を超える商品のテストを行っています。

元谷 まだまだ発展の可能性は大きいでしょう。アパホテルも二〇一九年九月に日本最大級となる全二三一一室のアパホテル&リゾート〈横浜ベイタワー〉をオープン、二〇二三年には大阪・難波に西日本最大級の全二〇二三室のホテルをオープンする予定。また都内最大級となる全一一一一室のアパホテル&リゾート〈両国駅タワー〉も二〇二〇年春にオープンの予定です。今同時に五十三棟、一万七千室を設計・建設中です。こんなホテルはアパしかないでしょう。

丹下 その通りですね。毎週オープンという感じでしょうか。

元谷 東京オリンピックに合わせてホテルを増やしてきましたが、二〇二〇年以降もどんどんホテルが増えていきます。ようやくアパホテルは日本一と認められるようになってきましたし、お客様もどんどん集まってきます。その一番の要因はアパホテルの会員システムです。ホテル参入時に作ったシステムで、第一号会員が私、第二号会員がホテル社長で、今や会員数は一七〇〇万人となり、もちろん日本最大です。アパグループも注文住宅から事業を始めたのですが、常にその分野でのナンバーワンを目指しつつ、事業分野を変化させて来ました。SHIFTも一番だから、顧客や社員が集まってきて、利益率の高い経営ができているのでしょう。以前SHIFTのテレビコマーシャルを観たことがあるのですが、あれは顧客向けではなかったですね。

丹下 目的は採用です。日本でITエンジニアは百万人いると言われているのですが、そのうち転職するのが三万人で、残りの九十七万人は転職しないのです。月に三千人が転職活動をする中、その三分の一の千人が弊社の門を叩き、年間で千人を採用しています。SHIFTはもっと人を採用したいので、応募者を増やすためにも九十七万人を動かして、転職市場を活性化しようとしているのです。

元谷 社員をどんどん増やしていくとなると、膨大な面積のオフィスが必要になりますね。

丹下 お客様の世に出る前のサービスに関するソフトウェアをテストしていることが多いですから、どうしてもセキュリティを厳しくして、社内のみで業務を行う必要があります。広いオフィスは必須ですね。現在東京では、飯倉交差点近くの森トラストのビルの六フロアを借りていて、そこで約二千人が働いています。今後、利便性の高いエリアの大きなビルに移転する必要を感じています。

元谷 オフィスは少々高くても人が集まりやすい場所にあった方がいいですね。

丹下 そうですね。バランスで考えたいと思います。

元谷 私もバブルの時に最初の東京進出を行い、東京で一番高級なオフィスビルと聞いたので、アークヒルズの八階にオフィスを構えました。しかし一九八七年のブラックマンデーをきっかけに早々に撤退を決意、金沢に一旦戻ったのです。同業他社はもう少しすればよくなるだろうとタイミングを逸し、バブル崩壊と共に潰れていきました。サラリーマン企業に撤退はできませんが、私はオーナー経営者だから早期に撤退の決断をすることができました。踏ん切りは大事です。

丹下 私も同様の経験があります。弊社のブレイクポイントの一つは先ほどの大手EC企業からの受注であったことは確かなのですが、二〇〇九年に本格的にテスト事業に参入しようとした時に、彼らは弊社の一番優秀なコンサルタントとテストエンジニアを手放してくれず、他のお客様の仕事ができない状態でした。そこでやむなく契約を終了したのです。売上は半減し、その後一年は仕事が一件も取れませんでした。しかし岩手県の会社からの発注をきっかけに実績ができ、どんどん順調に売上が伸びていったのです。

元谷 一時の売上減を、勇気を持って決断したことが、今の大成功に繋がっているのですね。今日は大変面白い話をありがとうございました。最後にいつも「若い人に一言」をお聞きしています。

丹下 起業は辛いものです。九九%は地道な仕事の積み重ねですが、世の中にないものを作ったり、世の中に貢献できたり、一緒に働く仲間が増えたりという喜びがあります。若い人は諦めずに、自分で決めたことを一生掛けて追求していって欲しいですね。

元谷 私は伸びる経営者かどうかは人間性次第だと思っています。丹下さんはまだまだ伸びます。今後の活躍を期待しています。ありがとうございました。

丹下 ありがとうございました。

対談日 2019年12月20日