元谷一志CEOと多彩なゲストが、その月々のテーマで語り合う「知のアフタヌーンティー・ラウンジ」。
今回はマンション大規模修繕工事やビル改修工事などを最新技術で担う株式会社KBM会長の諸橋茂一氏、ナブコ自動ドアや立体駐車場などを提案、施工・メンテナンスも手掛けるフジパスク株式会社代表取締役社長の小林秀行氏、システム開発から厨房機器・家具家電販売までを幅広く担当する株式会社ジェットシステム法人営業部長の溝辺諭氏をお迎えし、「スポーツ」をテーマに深く語り合いました。
株式会社ジェットシステム 法人営業部長
溝辺 諭氏
フジパスク株式会社 代表取締役社長
小林 秀行氏
株式会社KBM 会長
諸橋 茂一氏
可愛がられることの大切さ
小林秀行氏は高校、大学、社会人と三十歳になるまで野球をしていた。ポジションはサード。社会人野球では阿部企業に所属、都市対抗野球大会や社会人野球日本選手権にも出場した。社会人野球日本選手権では、小林氏は内野手として大会優秀選手に選ばれている。当時の阿部企業の監督は、今甲子園の常連となっている明徳義塾高校の監督を務める馬淵史郎氏だった。馬淵氏がよく言っていたのは、「野球は強い方が勝つのではない。勝った方が強いのだ」という言葉。元々弱小チームだった阿部企業は、馬淵監督に率いられたことで都市対抗のベストエイトに、そして日本選手権では準優勝という実績を残した。馬淵監督といえばその後、甲子園で松井秀喜選手を五打席連続敬遠したことでも知られているように、ルールの中でいかに勝つかを追求した人だ。馬淵監督曰く、社会人レベルの松井選手を高校生が抑えられるわけがないとのこと。勝ちにこだわり、さらに冷静な分析と判断ができるところが、名将の名将たる所以なのだろう。
小林氏にとって野球を続けたことが人生に生かされたのは、新しい組織に入る時には、まずその組織の人々に可愛がられなければならないという教訓を得たことだ。野球は個人成績だけを競う競技ではなく、チームスポーツだ。プロ野球に入った選手も引退後にチームに残れるかどうかは、現役時代に活躍しただけではなく、人間性も重要になる。プロ球団も企業であり、企業の目線でその人が必要かどうかを決めているのだ。
努力の積み重ねの大切さ
諸橋茂一氏は、子供の頃から自己流で空手を始めた。家の近くの海岸に行き、流れ着く板の切れ端を薄いものから割り始めた。二枚三枚と重ねた板も割れるようになり、中学一年生の時には家にあった厚さ三センチほどのまな板も割れるようになった。人間何事においても、小さな努力の積み重ねが大きな成果に繋がるということを、諸橋氏はこのことで学んだ。
諸橋氏は、高校に入ってからはバレーボール部に所属した。高校三年生になった時、「何十年か後に高校を訪問した時に、『これは俺が残したものだ』と言えるものが無くて、社会に出て何ができるんだ」と考えるようになった。そこでクラブを作ろうと思い立ち、当時高校になかった水泳部創立に乗り出した。水泳部が無かった理由は、高校にプールが無かったからだ。しかし諸橋氏は交渉で、地元の小学校のプールや山代温泉ヘルスセンターの温水プールが利用できるようにして、見事水泳部を作ることに成功した。高校を卒業してから諸橋氏は、パワーリフティングに熱中した。この競技は、スクワット、ベンチプレス、デッドリフトの三つの種目の合計で、どれだけ高重量を持ち上げられたかを競うものだ。さらに諸橋氏は、四十一歳から五十歳まで十年連続でフルマラソンを走った。勉強ができても力がない、根性がない、喧嘩が弱い、度胸がないのであれば社会では通用しないと、諸橋氏は子供の頃から、「文武両道」を目指してきた。
地域振興に繋がっている
溝辺諭氏は中学、高校、大学、社会人と、ずっとバスケットボールをやってきた。小学校五年生まで自転車を買ってもらえず、どこに行くにも走っていたことが、基礎体力の育成に役立った。諸橋氏同様、当初は文武両道を目指した溝辺氏だったが、中学校の時の部活のコーチが厳しく、日が暮れて練習が終わりかと思うと、車のライトを付けて練習を継続するなどで、家に帰ればすっかり疲れ切っていて勉強どころではなかった。また当時はウサギ跳びや練習中の飲水は禁止など、科学的ではない指導も多かった。高校時代は練習のあまりの厳しさに、溝辺氏の上の代は二人、溝辺氏の代では四人しか部員が残らなかった。試合中に捻挫しても、テーピングをして出場は続行するという環境だった。このような鍛え方で育まれた「諦めない」というメンタルの強さは、今の仕事に生かされていると溝辺氏は感じている。
バスケットボールのプロリーグ・Bリーグの盛り上がりと共に、全国でのアリーナ建設の機運が高まっており、地域振興にも繋がっている。今のバスケットボールの興隆は、Jリーグ初代チェアマンの川淵三郎氏が、二〇一五年からバスケットボールの世界に関わるようになり、国内男子のバスケットトップリーグをBリーグに統合したことに端を発している。また「SLAM DUNK(スラムダンク)」といった大ヒット漫画やアニメ映画が登場して、バスケ人口が増加したことも大きい。今や事業規模では、BリーグはアメリカのNBAに次ぐ世界第二位クラスにまで成長、選手の年俸一億円プレーヤーも増えた。これらのことが、今のアカツキジャパン(バスケットボール男子日本代表)の強さに繋がっている。広島駅前でもBリーグ・広島ドラゴンフライズの本拠地となる新アリーナの計画が進んでいるが、全国で計画されている一万人収容規模の施設は、バスケットボールだけではなく、コンサート会場としてもちょうど良いようだ。長崎ではBリーグの長崎ヴェルカが優勝、サッカーJリーグのV・ファーレン長崎が今年からJ1で戦うなど、スポーツで盛り上がっている。溝辺氏が勤める株式会社ジェットシステムも、Bリーグの島根スサノオマジックのメインスポンサーとなっているように、地域の企業もスポーツチームと一体になって、地域振興に貢献している。
企業で評価される
芙美子ホテル社長は中学時代に陸上部に所属し、持ち前の瞬発力を生かして四百メートルリレーの第一走者を務めた。高校時代は弁論部に所属していたが、弁論部のチーフがバトントワリング部を兼部していたこともあって、自身もバトントワラーとして運動部の応援に参加した。ミニスカートを身にまとい、全員の呼吸をピタリと合わせる集団競技。厳しい暑さの中の活動で、毎週日曜日の試合への同行が必須だったため、学業を優先するためにやむを得ず、十カ月ほどで退部する決断をした。
一志CEOも陸上部に所属し中距離競技をやっていた。しかし適性は実は競歩で、成人してから百キロウォークの大会に七年連続出場して、完歩した。グループで参加しても皆ペースが異なるのでばらばらになり、結局孤独の中で自身のメンタルと体力を試されることになる。一志CEOの百キロウォークへの参加はコロナ禍で中断、その後復活していないが、体重を落として再挑戦し、通算十回の完歩を達成したいと考えている。
百キロウォークも地域振興の役割も果たしている。例えば九州の行橋~別府百キロウォークには五千人が参加することができるが、毎年抽選になるほどの人気で、地元の人でもなかなか参加できない。経済効果が見込めるということで地元も歓迎しており、コースの途中に企業の協賛による食事や水分補給ができるエイドステーションが置かれるなど、「おもてなし」もしっかりと行われている。自転車競技の「ツール・ド・のと四〇〇」は、能登半島の海岸線の合計四百キロを自転車で競う大会だが、ここでも休憩所の食事や地域の町並みなどが参加者の良い思い出となっている。
経営者側から見ると、チームスポーツは会社組織に通じるものがある。今の体育会系部活動出身者は、昔のような根性論者ではなくもっと合理的な考えを持っているが、それでも上下関係の大切さは理解していることが多い。またレギュラーではなく、マネージャーなど部活の裏方をやっていた人の方が、人の心の痛みも理解していて、企業としては評価が高い場合が多い。
人間はスポーツに惹かれる
スポーツは企業にとって求心力となる。株式会社KBMには道場がある。清掃は全ての基本ということで、社員は毎朝まず拭き掃除を分担して行い、それからトレーニングを行っている。そして最後には「人生は道場であり、自分を磨くことが大事、そして社業を通して人間的成長を目指し、国家社会への貢献を果たすべし」という話を諸橋氏が行い、トレーニングを締めくくっている。
一志CEOはかつて、ヨネックスの米山勉氏から贈られた「一流に触れた分だけ人生が豊かになる」という言葉を大切にしており、多くの人が一流の体験ができる場を設けようとしている。
スポーツの世界が面白いのは、人間の能力の限界が見えないからだ。今年四月のロンドン・マラソンでは、一位のケニアの選手と二位のエチオピアの選手が、不可能だと言われていた二時間を切るタイムをマークした。同じく陸上では百メートル走での十秒切りが壁だったが、一九六〇年代に破られた後は、次々と九秒台の記録が出ている。壁を限界とは思わず、本気でそれを越えるための努力を積んだ結果なのだろう。
ホテルにおいてもスポーツは重要で、訪日外国人旅行者は宿泊先に必ずフィットネスジムがあるところを選択すると言われている。このことから、アパホテル&リゾートには、必ずジムとプールを設けるようにしている。昔は日本人はあまりフィットネスジムを使わなかったが、健康増進意識が高まり、体を動かすことが認知症予防になるという話もあって、最近傾向が変化してきている。アパグループの社員でも、フィットネスジムに寄ってから出社する人もいる。これが、時代のスタンダードが昭和から平成、令和へと変化しているということなのだろう。