負けているという意識もなかった。
元谷 今回のビッグトークは、昨年の第四回「真の近現代史観」懸賞論文で優秀賞を受賞されたことを御縁に、実現いたしました。改めまして、受賞おめでとうございます。
中松 こちらこそ素晴らしい賞をいただき、ありがとうございました。
元谷 中松さんといえば誰もが知っている超有名人ですが、私とも考えの一致することが非常に多いと感じています。勝兵塾の二月の例会では、先の大戦末期に日本軍が多数の新兵器を開発していたという、これまであまり語られたことがないお話を豊富な兵器の写真とともに語っていただき、出席者一同が非常に驚いていました。これら旧日本軍の秘密兵器に関しては、戦後ほとんど明らかにされてきませんでした。もっと日本人は本当のことを知ってもよいのではないかと思うのですが。これらの真実は旧日本軍が自ら焼却したのでしょうか?それともGHQが隠蔽工作を行ったのでしょうか?
中松 自ら焼却したものが多かったですね。一九四五(昭和二十)年八月十五日の日本の終戦に先立つ五月二日にイタリアが降伏したのですが、私達帝国海軍将校生徒の間でも、イタリア軍の海軍兵学校将校生徒が睾丸を抜かれたり、ランチで運ばれて沈められたなどという話が伝わって来ました。終戦に際しても私達は、みな短剣を捨て、階級章や軍服など軍に関わるものをすべて焼いてしまったのです。兵器の研究データなどの軍事機密が全て八月十五日を境に、日本国中から姿を消したのです。
元谷 イタリアの話はデマだと思いますが(笑)、そうやって大半のものが焼却されたはずなのに、どうやって中松さんは秘密兵器の写真などを手に入れたのですか?
中松 心血を注いだ成果の証を焼いてしまうことができなかった人々が、個人的に持っていたのです。
元谷 先日見せていただいた写真から当時の技術力の高さがうかがえました。ただ、あの写真はカラーでしたが……。これらのことは、中松さんが応募された論文で主張されていた「日本は負けていない」ということの、しっかりとした根拠になっています。天皇陛下が御聖断を下したから戦いを止めたのであって、確かに負けてはいない。これについては、私も全く同感です。しかし悲惨な戦争を続けないようにしようとお考えになっていた天皇陛下にとっては、あの選択肢しかなかったと思います。
中松 日本の将兵はまだまだ戦う気満々でした。負けているという意識もなかった。ただ天皇陛下のご命令があったから鉾を収めただけというのは、間違いのないことです。その辺りもさらに進めて、今私は昨年の論文の続編を執筆しています。
元谷 そうですか。今度は最優秀賞を狙って、今年もぜひ「真の近現代史観」懸賞論文に応募していただければ……。先の大戦の終わり方に関しては、私は少し異なる視点で考えています。戦争末期において、日本は早期の終戦を望んでおり、実際にソ連やバチカン・スウェーデン・中国国民党軍など様々なチャンネルを使って、その道を探っていました。連合国側、特にアメリカは日本側がこだわっていた天皇を中心とした国体の維持についての返答をあえて明確には行わないことで時間稼ぎをし、その間に原子爆弾を完成させたのです。ポスト第二次大戦での世界覇権の確立や開発に使用した機密費の承認を議会で得るためにも、アメリカは実戦で原爆を使う必要がありました。しかし市民を無差別に殺戮する兵器を無警告で使用した場合には、戦後国際的に相当な非難を浴びることが必至です。それを避けるために、アメリカは原爆を投下する「正当な理由」を考える必要がありました。それが「日本本土決戦になると百万人ものアメリカ将兵が犠牲になる。それを避けるために原爆を使用した」という話です。アメリカはあえて上陸する必要性が乏しかった硫黄島や沖縄での戦いを行い、ここで出た多大な犠牲者の数を本土決戦での損害の根拠にしたのです。
中松 そういう見方も成立すると思います。
元谷 また戦後は「日本は悪い国だったから、正義の国・アメリカが原爆を投下して、良い国へと導いた」というシナリオの下、東京裁判において中国国民党軍が主張する「日本軍が南京で三十万人もの人々を虐殺した」とする謀略戦を指示するなど、日本を貶める情報戦略を推し進めたのです。
中松 アメリカ占領軍の洗脳政策が大成功を収めたのは確かですね。
元谷 先日の勝兵塾の講演では、秘密兵器のほかに終戦翌日の八月十六日に、帝国海軍航空隊によるニューヨーク攻撃が計画されていたというお話をされていましたね。日本が制空権・制海権を失っていた中、そんなことが本当に可能だったのでしょうか?
中松 私の家のそばに実際にこの作戦に参加したという方がいらっしゃって、直接お話を聞いたのです。
元谷 攻撃機を搭載できる伊四百型潜水艦が、三隻建造されていたという話は聞いたことがありますが…。
中松 ニューヨーク爆撃では潜水艦は使用しません。「深山」「連山」というエンジンを左右二つずつ持つ四発の攻撃機が使用される予定でした。戦前、三井物産がアメリカのダグラス社の代理店だったのですが、海軍の命令で最新鋭の輸送機DC‐四を輸入しました。これが中島飛行機に持ち込まれ、国産化されたのが「深山」と「連山」なのです。
元谷 三十年前に実際に私は戦前に造られたこのDC‐三に南アフリカで乗ったことがあります。
中松 傑作機のDC‐三はエンジン二機の双発で、日本でも三井物産がライセンスを取得して、国産化され日本軍で使用されていました。しかし「深山」「連山」は四発です。非常に航続距離が長い機体でした。
元谷 ニューヨークまで日本のどこから出発するのですか?
中松 北海道の千歳空港です。そもそも千歳空港は、アメリカを空襲するために海軍が造った空港でした。長い距離を飛ぶためには大量の燃料が必要となるため、機体は非常に重くなり、離陸には相当な距離を滑走する必要があります。そのための長い滑走路が千歳空港には作られていたのです。
元谷 「行くだけ」の片道飛行でしょうか?
中松 そうです。
元谷 それでは一九四二(昭和十七)年のドゥーリトルの日本空襲と同じですね。あれも片道で、中国まで行くという作戦でした。
中松 乗員の訓練も実際に行われていました。目的はいかに長距離を飛行するか。偏西風が頼りでしたから、いかにこの風を捉えるかを繰り返し試していたようです。又、与圧室や酸素補給の実験訓練もしました。
元谷 しかし大量の燃料を積みますから、爆弾の搭載は難しいでしょう?
中松 その通りです。まあ九・一一同様、ニューヨークの一番有名なビルに機が突入するという効果を狙ったものでしょう。
元谷 九・一一の場合は燃料満載の航空機でしたが、この場合燃料はほとんど底を突いていますし…。
中松 「エンパイヤステートビルが日本軍に空襲をされた」という心理的効果を狙った作戦だったのです。もし御聖断がなくこの作戦が実行されていれば、恐怖に駆られたアメリカは十月予定の本土決戦を、九月に変えたかもしれない。そうなれば、天候などの関係から、日本が勝利する可能性がぐんと高まったでしょう。
元谷 日本人の気概も示すことができますし。しかし大変な特攻計画だったと思います。私は先日ハワイに行っていたのですが、その際、戦艦ミズーリを見学してきました。ミズーリは終戦間際に日本近海で特攻機の攻撃を受けたのですが、搭載した爆弾は爆発せず、機体は真っ二つになり、操縦士の遺体の半分が艦に残ったそうです。艦長は任務を真っ当した軍人だとして、その名前も知らない日本軍兵士の遺体を水葬に付しました。その後、攻撃時間などから操縦士の名前が判明し、遺族がミズーリを訪れて慰霊を行ったそうです。こういう話を聞くと、戦前、戦中の教育を受けた日本人は、中松さんをはじめとして、すごいと感じます。
中松 最後の頑張りが違うと思いますね。スポーツでも今の日本チームは、最後に逆転されて負けることが多い。戦前、戦中の若者は心身ともに鍛えられましたから、最後まで諦めません。企業の競争でも同じです。ソニーがサムソンに負け、半導体事業でも衰退するというのは、最後の頑張りが足りないのです。
元谷 私は意図的にアメリカによって、そういう国にさせられてしまったという感を持っています。強い日本人が、広島・長崎の原爆投下の復讐をしないように、アメリカが思想的な弱体化政策を行って日本の国柄を変えてしまった。草食系など今の日本男子は情けない限りです。
中松 鍛え直す必要がありますよ。
元谷 ここも意見が一致するところですね。
わずかな費用で自殺者は半分になる。
元谷 特に今の日本で私が問題だと感じているのは、不安を煽るメディアの存在です。誰一人死んでいない鳥インフルエンザや新型インフルエンザ、狂牛病などで大騒ぎをして、実被害以上の風評被害を巻き起こしてきました。その結果、原発事故のあった福島での除染基準が年間一ミリシーベルトに。イランのラムサールのように、自然からの放射線が年間十ミリシーベルトなどという地域でも、人体に特に影響はなく、健康に暮らしているのです。せめて基準を年間五ミリシーベルトにすれば、何百分の一かに除染エリアが減り、処理の経費も激減します。
中松 基準値を高くしているのは、政治家の逃げです。「緩い」と言われるのが怖くて、とにかく厳しくしていればいいだろうという判断なのでしょう。
元谷 チェルノブイリ並みのレベル7としたのもそうなのでしょうが、影響が大きすぎます。食品に含まれる放射能の基準が、この四月に五百ベクレル/キログラムから百ベクレル/キログラムに変わりました。それによって出荷停止される作物が出てきています。昨日まで「美味しい」と食べていたものが、今日になって毒ですと出荷停止になるなんて、そんな馬鹿な話はありません。どうして今、そんなことをする必要があるのか。人体へのリスクはかなり低いのですから、事故から間もない今は、むしろ基準を緩めるべきなのです。そしてメディアは少し基準を越えただけで大騒ぎをします。メディアは不安を煽れば煽るほど売れるので、歴史に限らず全てのことに関して自虐的なのです。そして人々はどんどん萎縮して、草食系になっていく…。
中松 政治家の責任が大きいですね。判断が非常に非科学的なのです。
元谷 私も全く同感です。メディアの報道でも科学的な根拠がなく、ほとんどデマに近いものがあります。しかしそのデマに政治家が動かされ、法律まで変えてしまうのです。原発事故など誰も亡くなっていないことばかりを報道するのではなく、もっと現実に起こっている悲劇に目を向けるべきです。例えば自殺者は十四年連続で年間三万人を超えています。最大で年間約一万六千人にも及んでいた交通事故での死者は、今では三分の一以下に減少しています。本格的な対策を行えば、わずかな費用で自殺者も半分以下にできるはずです。また自殺やホームレス化の原因として大きいのは、失業でしょう。昨年チュニジアで起こったジャスミン革命も、その大元の原因は若年層の失業率の高さと貧富の格差の大きさでした。
中松 その通りだと思います。
元谷 しかし「アラブの春」のその後は国によってかなり違いが出てきています。チュニジアは新しい国作りに向けて上手く進んでいますが、リビアは国が分裂して混乱していますし、エジプトもムスリム同胞団が力を増しつつあり、さらに軍と結べば安定政権が誕生するでしょうが、どうなるかまだわかりません。シリアは内戦状態が継続中です。どの国もアメリカ流の民主主義が機能するわけではありません。しかし、日本の政治家はアメリカに肩入れするアメリカ派が多く、残りは中国派で日本派という人はいません。日本派の政治家を育てていく必要がありますよ。その際、選挙区の過半数以上の人々の支持が必要な今の小選挙区制では駄目です。昔は大物と呼べる政治家がいましたが、今は小粒な政治家ばかりです。人気投票のような世論調査政治家ばかりで…。
中松 本当にそう思います。
九十歳で元気なことに価値がある。
元谷 ところで、中松さんは原子力発電所にも詳しいと聞いていますが。
中松 私は海軍から東京大学に、当時はまだ東京帝国大学と称していましたが、工学部と法学部で学び、卒業後は三井物産に入社しました。親戚が戦前の三井財閥の総元締めだったのです。日本軍の海外での展開を支えた兵站部門はほとんど三井物産が担っていましたから、戦後三井はアメリカ占領軍に睨まれていて、三菱よりも細かく分割されました。あれだけの大財閥が、資本金十九万五千円以下、従業員三十人以下の会社群に分けられてしまったのです。私はばらばらになった三井を再編成することを目的に、三井物産に入社しました。いろいろな仕事をする中で、三井再編成に最適だと考えたのが原子力だったのです。
元谷 具体的にはどのようなことをしたのですか?
中松 日本原子力事業株式会社という日本初の原子力発電会社を設立し、私の東大での恩師だった電気工学者の瀬藤象二教授に社長をお願いしました。一九五六(昭和三十一)年のことです。この会社には東芝、石川島播磨重工(IHI)、三井造船、東洋レーヨンなどの三井のグループ企業の他に、まだ非常に小さい会社だったソニーも参加しました。三井は東京電力と近しい関係にあったので、この会社が最初に手がけたのが、福島第一原発だったのです。
元谷 東海村での研究はもうスタートしていたのでしょうか?
中松 はい、始まっていました。しかし本格的な原発の完成にはまだまだという時代でした。東芝やIHIに原子炉を作れといっても何の知識もない。結局ゼネラルエレクトリック(GE)の代理店をやっていた三井物産が、GEの原子炉を輸入して発電所を建設したのです。ですから福島第一原発の事故でも、東芝やIHIは作っていないからわかっていない、東電は運転をしていただけだからわかっていない。脳梗塞は三十分以内に処置できれば助かる可能性が高いといわれていますが、原発事故もそれと同じで四時間以内に対処できれば、大事に至らない可能性が高いのです。事故直後に私に一本電話をもらえていれば、適切な対処法をアドバイスできたのですが。
元谷 若干の放射能を排出することになるために、ベントを躊躇ったことも大きかったですね。そのために水素爆発を招き、もっと大量の放射能を放出することになってしまいました。非常時に平常時の常識に縛られてしまった人災というのが、今回の事故の評価に値すると思います。
中松 確かにそれもあります。もう一つ盲点があります。私が取引をしたGEの担当者がまだアメリカで存命で、事故の直後に私に電話をくれました。そして「なぜGEを訴えないのか?」と言うのです。
元谷 製造物責任ということですね。しかし日本の政治家はアメリカ派が多いので、訴えることはあり得ません。本当に日本は独立国家なのかと思うことがあまりにも多い。外務省も弱腰です。だから国連憲章の旧敵国条項もいつまでたっても削除されないのです。
中松 外務省の弱腰は戦前からです。過去もそうですが、今の政治家も酷いものです。明らかに民主党政権は日本を悪くしました。早く交代して欲しいのですが、自民党に戻すというのもちょっと問題です。
元谷 自民党政権は末期には、航空幕僚長だった田母神俊雄氏を降格・解任するような左翼政権になっていましたからね。
中松 改憲を党是とする自民党はどこへ行ったのか。民主党でも自民党でもない、本物の政党に登場してきて欲しい。
元谷 私は真正保守の党が誕生して、それを中心に保守が結束するしかないのでは…と考えています。
中松 橋下大阪市長と石原東京都知事が会談をしたそうですが、もうひとつ話は進んでいませんね。
元谷 橋下氏と石原氏は、TPP賛成では一致していますが、原発や増税については意見が異なります。橋下氏の破壊力は非常に魅力的なのですが、大衆の支持を得るために主張しているのか、本気で思っているのかわからない部分がある。今後どう取り組んでいくかを見ていきたいとは思うのですが…。橋下氏を批判する気はありませんが、全てに賛同できるわけでもありません。こういう保守は多いのではないでしょうか。
中松 保守は今分裂しています。まともな人が登場して、これをまとめる必要があります。
元谷 大局を俯瞰できるカリスマのあるリーダーが今不在ですね。
中松 そろそろ元谷代表にこの「まとめる」という大仕事に取り組んでもらわないと。
元谷 (笑)私のできる範囲でやっていきます。しかし中松さんはいつまでもお元気で。若い人が元気なのは当たり前、九十歳、百歳となっても元気なのが私の人生の目標なのです。中松さんには百二十歳になっても頑張っていただきたいです。
中松 私もそのつもりです(笑)。
元谷 いつも最後に「若い人に一言」をお聞きしているのですが。
中松 私達の若い時には徴兵制度があり、十代の若者が心身ともに自らを鍛えることができました。今は残念ながらそういう国からの機会はありませんから、自分で自分を鍛えて欲しい。そして我が国の将来のために備えて欲しいですね。草食なんて恥ですよ(笑)。
元谷 そのためにも真っ当な教育と真っ当なメディアが必要ですね。中松さんの今後のご活躍を期待しています。今日はありがとうございました。
中松義郎氏 Yoshiro Nakamatsu
1928(昭和3)年東京生まれ。帝国海軍機関学校の最後の帝国海軍将校生徒。終戦で東京帝国大学に入学、工学と法学を学ぶ。卒業後は三井物産に入社、日本初の原子力会社を設立。この会社は福島第一原子力発電所の建設にも関わる。5歳で最初の発明をし、その後灯油ポンプ、フロッピーディスク、カラオケなど発明件数は3372件以上で、エジソンを抜いて世界一。2005(平成17)年にはIgノーベル賞を受賞するなど、世界各地での受賞多数。
対談日:2012年4月5日