月刊誌Apple Town 30周年記念
代表特別 インタビュー
[2020年8月号]

APAグループ代表 元谷外志雄

一九九〇年八月に創刊し、今や毎月発行部数が十万部にもなった月刊誌Apple Townは、今号でまる三十年となり、創刊にあたっての思いや各企画誕生のストーリー、そしてこのApple Townを中心に広がった言論活動とその今後を、元谷外志雄代表に聞きました。

バブル崩壊の中
連帯感を築くために創刊

 月刊誌Apple Townを創刊したのは一九九〇年八月でした。この前年の一九八九年十二月二十九日に、日経平均株価は三万八千九百五十七円の史上最高値を記録、バブル景気は最高潮を迎えましたが、翌一九九〇年には株価は暴落、バブル崩壊が始まりました。私は一九八七年十月十九日の世界同時株安(ブラックマンデー)からバブル崩壊を予測して、まだ高値のうちに遊休資産の売却を進めていましたから、そこから得られた利益もあり、高額所得番付に掲載される以上の利益を計上することができました。このバブル崩壊による不動産価格の下落はいつまで続くのかといった不安に駆られました。そんな中で、社員はもちろん取引業者、お客様に至るまでの「連帯感」が大切である、これを獲得するためには私の事業に対する理念を積極的に発信することが必要だと考え、月刊情報誌を発刊することを決めました。誌名はニューヨークの愛称であるBig Appleから、大きい街という意味でApple Townと名付けたのです。
 私は一九七一年に勤めていた信用金庫を脱サラして、民間で商う最も客単価が高い住宅の建築を請け負う事業で起業しました。それは人口がどんどん増加する中、住宅産業には無限の市場規模がありますし、人の幸せに手を貸すことで収益を得る産業だからです。人は一生懸命に勉強し、良い学校に入りそこでも一生懸命に勉強して、良い会社に入って一生懸命に頑張って良い収入を得て、良い住まいに住みたいと願って、努力するのです。この事業は人の努力の成果物を供給する事業で、人の幸せのお手伝いをして、収益を得られるところに魅力を感じ、私は住宅事業を手掛けることを決意しました。それまでこの業界では、大工の見習いでの修行から身を起こし、経験を積んでから独立して、工務店を立ち上げるという起業が大半でした。しかし私は過当競争に陥らないために、圧倒的に強い武器を持って業界に参入しようと画策しました。そこで目をつけたのは、資金の問題でした。その当時はまだなかった長期住宅ローン制度です。当時、大蔵省の意向で、北陸の三つの信用金庫の合併話が進められていたのですが、私はその一つの小松信用金庫の労働組合の執行委員長としてキャスティング・ボードを握っており、他の二つの信用金庫には組合はありませんでした。そこで大蔵省から合併の密命を帯びて赴任してきた信金の副理事長に対して、中小金融機関が合併して、規模の利益の追求によって収益を増やすことで、働く職員の幸せに寄与できるし、全国に先駆けた元利均等償還の長期住宅ローン制度の創設は長期の健全な融資先になる、合併に伴うリストラをしないのなら合併を認めたい、合併が決まれば私は独立して注文住宅会社を創り、その名称を信金開発としたい、と提案しました。そして一九七一年五月十日に盛大な創業記念パーティーを開催して、事業を開始しました。
 「十万円で家が建つ」をキャッチコピーに事業を開始すると、予想通り多くのお客様を獲得することができました。しかし、注文住宅事業は個々のお客様の敷地に建築をするので効率が悪く、さらに効率の良い事業をと、建売住宅への進出のために四千坪の土地を購入し造成して、「信開荒屋ホームプラザ」として建売住宅と宅地の販売を行ったところ、即座に完売となりました。これで大きな利益を得て以来、今日まで高額所得番付に掲載される以上の利益を上げ、起業した事業を軌道に乗せることができたのです。
 しかし当時の法人税率は高く、分譲住宅事業の譲渡益の六五%が税金となっていました。そこで、償却資産の所有による事業も行い、その減価償却費と分譲住宅の譲渡益を損益通算し、節税を行うことを考えました。低利で長期返済が可能な住宅金融公庫の融資を活用し、賃貸マンション事業も始めたのです。さらに居住性を追求し、事業効率を上げるために、一九七七年には、分譲マンション事業に進出しました。今度はこの分譲マンション事業からの譲渡益の相殺が必要となり、一九八四年十二月に第一号ホテルとなるアパホテル〈金沢片町〉をオープンさせ、新たに償却赤字を取るホテル事業を開始しました。ホテル事業は償却赤字を取る節税のために始めた、とも言えます。しかし、事業がそのように順調に広がってきた時に起きたのがバブル崩壊でした。とにかく生き抜くためには連帯感が必要であり、そのために始めたのが月刊誌Apple Townの創刊だったのです。

「社会時評エッセイ」は
月に一回の頭の整理

 創刊から二年後の一九九一年六月に始めたのが、今もこの雑誌の目玉企画となっている対談企画「ビッグトーク」でした。最初の対談相手として私が選んだのは、北陸四県でトップ官僚と言っても良い、大蔵省の北陸財務局長です。その後地元テレビ局北陸放送の社長、航空自衛隊小松基地司令等、北陸や金沢市で有名な人々を次から次へと登場させていきました。月刊誌Apple Townはアパホテルの客室に置く他、アパグループのマンションを購入した人にも送っていましたから、このページに登場したいという人も多かったのです。もちろん私には当時から東京での人脈もありましたが、制作チームの取材費が掛かるということで、最初は地元の人々との対談がメインでした。
 ビッグトークの開始から一年ほどで始めたのが、「社会時評エッセイ」です。昔私が読んだ、ユダヤ人との比較という切り口で日本人論を書いた「日本人とユダヤ人」というベストセラーの著者が、ペンネーム「イザヤ・ベンダサン」という国籍不明、年齢不詳の人でした。社会時評エッセイもこれと同じように、国籍不明、年齢不詳の憂国の士=パトリオティック・エッセイストが書く、日本への提言という形にしたのです。日本一の山は富士山ですが「富士」では収まりが悪いので、名字は「藤」に。名前は「誠志」としました。全体では日本一の誠の侍の心という意味で、「藤誠志」を社会時評エッセイでのペンネームにしたのです。
 月刊誌Apple Townのもう一つの目玉企画、「麻布放談 日本を語るワインの会」は、私が二〇〇一年に東京の自宅を西麻布に構え、二〇〇二年五月十日にアパグループの本社を赤坂見附に移した後の、二〇〇三年八月号からスタートしました。自宅を金沢から東京に移したことで、私の人脈は政治・経済・文化・スポーツの全ての分野で、大きく広がりました。パーティーや様々な会合で知り合った方に、まず西麻布の自宅で開催する「ワインの会」に参加していただき、次にビッグトークをお願いすることも増えていきました。さらにビッグトークの対談相手は、各国駐日大使や国会議員、海外へ行ってその国の著名な人との対談などにも広がっていきました。日本人に対して非常に公正な見解を持つ「親日派のための弁明」という本を著した韓国人作家の金完燮氏は、その本を執筆したために投獄される恐れもあり、出国もできなくなっていたので、私が韓国にまで行って対談しました。二〇〇九年にはロシアのサンクトペテルブルクを訪れ、張作霖爆殺事件は通説である関東軍の河本大佐の犯行ではなく、ソ連の特務機関による犯行だと著書に著した歴史作家、ドミトリー・プロホロフ氏と対談を行いました。ソ連と張作霖が当時徹底的な対立関係にあり、張が暗殺される二年前にも奉天でソ連の工作員による暗殺未遂事件があったことから、プロホロフ氏はこのソ連特務機関犯行説を導き出したのです。また二〇〇七年にロンドンの公文書館が公開した文書によると、イギリスの陸軍諜報部の極東課が張作霖爆殺はソ連の犯行だという報告を本国に送っています。ロシアやイギリスから次々ともたらされるソ連犯行説の裏には、日本が中国に屈服することで、アジアのパワーバランスが狂うことを恐れる勢力の存在が感じられました。
 ビッグトークは医者なら医学、政治家なら政治学と相手の分野の話を引き出して、それに合わせて話を進めていけば良いのですが、社会時評エッセイは構想を一から練らなければなりません。私はエッセイの中で、二〇〇五年の小泉郵政選挙での自民党の勝利や、二〇一六年のアメリカ大統領選挙におけるトランプ氏の勝利を予想、大方のメディアに反する形で的中させています。これを高く評価してくれる方も多いのですが、数多い情報を分析、あり得ることかあり得ないことかを判断した結果であって、自分からすれば大胆な予想でもなんでもなく、単なる「必然」なのです。エッセイの構想を考えることは私にとっては月一回の頭の整理となっているのですが、長時間掛かる月もあったりと、私にとって一番辛い時間だったりします…(笑)。ただ自分のやりたい事をやって今日この地位を築けたのは、運がいいから。この運の良さは健康に由来すると考えています。よく「健康法は何ですか?」と聞かれるのですが、私は「人を食うことだ」と話すとびっくりされますが、人が考えないことを考え、人が書かないことを書くことで、爽快な気持ちで生きることになります。思ったことは口に出し、書きたいと思ったことはきちんと書いて表現する。月刊誌Apple Townを発行することは、私にとっての健康法なのです。

間違った歴史を正し
誇れる国・日本の再興を

 月刊誌Apple Townはまた、「誇れる国、日本」の再興を目指す私の言論活動の中心に位置するものです。「継続は力なり」と言いますが、三十年間発信を続けることで、世の中が大きく変化してきました。私は高校生の時から将来世の中が今以上に学歴社会となることを予見しており、信用金庫に就職するとともに慶應義塾大学経済学部の通信教育課程に入学しました。卒業には至りませんでしたが、送られてきた教材を勉強しました。また私は小学五年生の頃から新聞好きの父親の影響で新聞を読むことが趣味となっていました。読んでいてわからないことは「現代用語の基礎知識」で調べていたのですが、そのうち調べていることが面白くなり、ジャンル別に「現代用語の基礎知識」を通読するようになっていきました。そのようにして得た幅広い知識を、経験と見聞で検証することによって身についた私の雑学が知恵となったのです。学歴社会を勝ち抜くには、圧倒的な知識量とそれを基に得た知恵だと考え、私は研鑽を積んで十五歳で自らの世界観を確立しました。そしてその後も世界八十二カ国を探訪して各国の要人とディベートを繰り返すことで、更に世界観、歴史観、国家観を磨いてきました。そこで得た一つの結論は、今、日本の教育現場やメディアの報道で教えられたり、伝えられている世界観、歴史観、国家観は全て間違っているということです。
 先の大戦で勝利したアメリカが恐れたのは、二つもの原爆を無警告で投下した人道に対する責任を日本が追求してくることでした。ですからアメリカは徹底的な日本弱体化計画(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)を占領政策として実行し、日本が再び強国とならないようにしたのです。しかもアメリカの原爆投下には対日戦を終結させる以外に明確な理由がありました。アメリカの軍事援助によって巨大な軍事的モンスターとなったソ連は大戦末期にベルリンを占領、そのままヨーロッパ全域からユーラシア大陸全体を赤化する勢いでした。そうなるとアメリカとソ連との第三次世界大戦は免れない。この「熱戦」を「冷戦」に変えるため、アメリカはどうしても大戦終結までに原爆を完成させ実戦に使用して、ソ連の勢いを削ぐ必要があったのです。戦争末期、日本はバチカンやスイス等、あらゆるルートを使って戦争終結を図ろうとしていましたから、アメリカも当然日本に終戦の意思があることは知っていました。しかし、対ドイツ戦に勝利したソ連が、戦後、世界覇権を握ろうとすることを恐れたアメリカは、日本との戦争が終結すれば完成間近な原爆を実戦に使用する機会がなくなってしまうため、国体護持(共産革命を避け、天皇制を擁護する)を明確にしないことで戦争を長引かせ、日本との戦いが終結する前に原爆を完成させて投下しました。結果、ソ連による世界赤化は勢いを失い、ドイツを東西に折半することに留まり、第三次世界大戦は勃発しませんでした。
 一九四五年三月十日(日露戦争最大で最後の会戦である奉天会戦に勝利した日)の陸軍記念日に行われた東京大空襲は、原爆投下のための伏線だと言えるもので、都心を取り囲む周囲からの焼夷弾による収束爆弾の爆撃で人々の退路を絶った上で中心部に焼夷弾を投下することで、十万人もの人々を焼殺しました。これは原爆投下での死者の予想値の十万人に合わせたともいえるものです。つまり通常兵器でもそれだけ多くの死者を出すことが可能であり、原爆だけが非道な兵器ではないと思わせるためのものだったと考えられます。歴史には意図的に隠され、教えられていない真実が多数存在します。例えば中国が主張する南京大虐殺三十万人犠牲者説ですが、これをアメリカは否定しません。なぜなら三十万人という数字は、人道に反する罪とも言える東京大空襲と広島、長崎での二発の原爆によって犠牲になった人々の数と符号します。アメリカは自分達と同じような非人道的な行為を、日本もしたではないかと主張するために、中国の主張を放置しているのです。しかし東京大空襲でも、原爆を落とされた広島、長崎でも、犠牲者の写真や名簿はしっかり残っていますが、上海大学の朱学勤教授も発表している通り、南京大虐殺に関しては犠牲者の写真はおろか、一名分の被害者名簿もありません。南京大虐殺はなかったのです。

三十年間の継続により
世論が大きく変わってきた

 アメリカの歴史は戦争の歴史です。先住民のいる土地を「新大陸」と呼んで入植し、「フロンティアスピリット」の名の下にネイティブ・アメリカンを虐殺して開拓を断行したのです。正義とは勝った者が語り、歴史は勝者が作るものです。日本が悪かったのは戦争を始めたからではなく、戦争に負けたからです。もし戦争に勝っていれば、国際軍事裁判所で裁かれたのは、マッカーサーだったでしょう。明治維新の後、日清、日露、第一次世界大戦、そして先の大戦と日本は戦いを続けてきたのですが、批判されているのはなぜか負けた先の戦争のみです。それは先の戦争での戦勝国が国連の常任理事国であることにも繋がっています。国連は決して公平中立な組織ではありません。もう先の戦争から七十五年も経過したのですから、まずはあの戦争を総括して、反省すべきことは反省しつつも、反論するべきところは反論するのです。そうしてこなかったから、日本人はどんどん誇りを失ってきてしまいました。このままでは日本の行き着く先は、中国の「日本自治区」でしょう。だから私は誇れる祖国の再興を目指す言論活動を始めたのです。
 大きな転機となったのが、二〇〇八年、第一回「真の近現代史観」懸賞論文において、田母神俊雄氏の論文が最優秀藤誠志賞を獲得したことで巻き起こった更迭騒動でしょう。メディアによる報道だけで、論文自体を読まずに批判している人が多いと感じた私は、産経新聞の一ページ広告で論文全文を掲載、これを読んだ多くの方から共感の声をいただきました。この事件をきっかけに多くの人々が保守に目覚め、それまで公では「右翼」と断じられてタブーとされていた、原爆保有や憲法改正等の保守的な主張を議論することができるようになったのです。それから十二年、月刊誌Apple Townを中心とした言論活動には「真の近現代史観」懸賞論文の他にも勝兵塾、アパ日本再興大賞も加わり、大きなうねりを作り出そうとしています。
 私は「仕事を遊びに、遊びを仕事に」をモットーとして生きてきました。今や築き上げた総資産は一兆円を超えています。戦後、事業によって一兆円超えの資産を作った実業家は、少ないと思います。それでもさらに事業を続けるのは、事業をエンジョイしているからです。言論活動も同じで、私が楽しいと思っている間は継続しようと考えています。私が楽しめる間、誇れる祖国・日本の再興のため、まだまだこの月刊誌Apple Townで多くの人に私が真実と考えることを伝えていきたいと思います。これからも月刊誌Apple Townに、ぜひご期待ください。