2014年12月号 第172回
あれから50年

馳 浩 衆議院議員


10月10日。
昔は体育の日だった。
昭和39年10月10日。東京五輪開会式。
「世界中の青空を集めてきたような」
秋晴れの空に描かれた、平和の五輪。
ブルーインパルスがまぶしく、カラーテレビのあざやかさにため息をついた昭和の時代。
あれから50年。
半世紀を祝う今年の記念レセプションは、もう一つの喜びと希望を乗せてもいた。
二〇二〇年のオリンピックパラリンピック東京大会招致決定から一年を数えたからだ。
ロサンゼルス五輪に日本代表として出場し、五輪招致には国会議員&オリンピアンとして参加した私にとっても、感慨は深い。
ただし、センチメンタルよりも、覚悟に満ちた決意の方が大きい。
それは、スポーツの可能性にかけているからだ。
スポーツの力はいかに世界を変えるか。
ふり返ってみれば、50年前の東京五輪開催がIOC総会によって決定したのは、その七年前、つまり、昭和32年のこと。
当時の世界情勢と、日本のおかれていた国際的な立場をふり返ってみれば、どうして日本で五輪が開催されたかは一目瞭然。
大東亜戦争の敗戦から10年余り。国内はいまだ戦後復興の途上。何よりも、敗戦によって失われた国民の希望と誇りは、占領下においてズタズタにされていた。この精神的な退廃の方が、より深刻であったことは、言うまでもない。経済的にも苦しかった。
しかし、戦後のベビーブームにより、若い新たな力が育っていたことも事実。
敗戦を経験し、大きな痛手を負ったアジアの大国、日本にこそ、スポーツの力が必要である、と、IOCの多くの委員が判断したのである。開会までの七年間に期待したのである。
世界の平和を動かすのは政治ばかりではない。むしろ政治は平和を駆け引きにも使う。
一方、スポーツはルールのもとで平等に、真剣に闘う。
お互いをアスリートとして尊重し、民族や宗教や言語や人種を超えて相互理解を深める。
その世界的イベントを四年に一度、一同に介して開催することの意義。
まさしく、昭和39年は、東京で開催されるべき大きな意義のつまった五輪であったことが理解される。そして、大成功を収めた。
あれから50年を今、センチメンタルにふり返るばかりでは、意味がなかろう。
二〇二〇年の東京大会には、日本に何が求められているのかを常に意識しなければならない。世界を変える日本、でなければ。
今回、50周年記念レセプションと同時に、二〇二〇年大会の顧問会議が開催され、森喜朗組織委員会会長より、3つの理念が発表された。
①すべての人がベストをめざす
②多様性を認め合う
③レガシーを遺す
そのいずれにも異論はない。ただし、招致段階で高く評価された、日本の底力を忘れてはなるまい。安倍総理が最終プレゼンで示したそれは、「国難を直視し、それを乗り越えようとする団結力とリーダーシップ」である。
一言で言えば、フクシマ問題、だ。
招致の最終段階で一気に欧米マスコミやNGO団体に示された懸念だった。
私も有力なIOC委員より、
「東京は治安もよく財政力もあり、大会運営の確実性もホスト力も評価が高い。しかし、汚染水があふれでて飲料水や海洋汚染にたれ流して、生態系や健康や環境に悪影響が出てしまうのではないか?」
との強烈な不安を示されていた。
この問題を脇に置いておくべきか。それとも真正面から取り上げて日本政府の姿勢を世界に示すべきか。
もう終わったから言えるのだが、当時、共に招致都市を競い合っていたイスタンブールとマドリッドにも、懸念事項はあった。
宗教問題や、アンチドーピング問題や、財政不安の問題である。
そのいずれもに、「それは七年後の五輪開催までに解決できること」として、両国の首脳は最終プレゼンで具体的対策に言及せず。
ところが。
安倍総理だけは、チームJAPANが収集して来た情勢を冷静に分析した上で、
「我が国は正面から問題に取り組み、最終責任は私が持つ」
と言い切り、フクシマ問題への対応策を、技術的にも、数値的にも、財政的にも示した上で、理解を求め、大きな賛同を得た。
私たち日本人の底力を示したスピーチだった。同時に、総理が国際公約として約束した課題に、日本が一丸となって取り組まなければならない、という団結力をも示した。
リーダーとはどうあるべきか。スポーツとはどうあるべきか。あれから50年の、新たな挑戦がはじまった。‐そうとらえるべきだろう。
(了)