2011年5月号 第129回
「東日本大震災からの復活」

馳 浩 衆議院議員

 東日本大地震。
 平成二十三年三月十一日(金)午後二時四十六分。
 マグニチュード九・〇。
 戦後最大の地震が、宮城県を中心とする太平洋側の日本列島を襲った。
 地震直後、第二次災害が海岸沿いの町に。
 津波だ。
 三~七メートルの高波。
 入り組んだリアス式海岸の地形であり、行き場を失った波はぶつかり合ってさらにパワーが増し、最大十四メートルの高波が濁流となって日本列島を呑み込んだ。
 テレビには、くり返し、映画の特殊効果のような映像が流された。
 船も、自動車も、家も、病院も、役場も、あっという間に圧し流された。
 死亡、行方不明者は、一万六千人を超えている(三月十八日現在の数字、まだ増加中)。
 そして、想定外の福島第一原発の事故。
 国難。株価は九千円を割り、円為替も七十円台突入。
 即日動いてくれたのが、自衛隊、警察、消防、海上保安庁、そして海外からの救援部隊。
 自衛隊は、地震四分後に災害対策本部設置。
 そして「大規模震災災害派遣命令」と、「原子力災害派遣命令」が発出され、すぐさま現地派遣された。
 私が監督をつとめる大学レスリング部の学生に、宮城県や岩手県出身者が五名いる。
 それぞれの実家に安否を確認する電話を入れてみたが、数日間はつながらず、あきらめと緊張が走った。
 三日目、ようやく連絡が取れた。
 「どうでしたか?」
 「家は流されましたが、妻も娘も生きています。ただ、母が流されたようで行方不明なんです。避難所を探し回っているのですが。」
 「そうですか…。息子さんは大学の体育寮でちゃんと生活していますから安心して下さい。家計急変の特別奨学金も、被災者見舞金という制度も大学に用意されていますから、心配なさらないで下さい。何かありましたらいつでも連絡して下さい!」
 と、お見舞いを申し上げるとともに、息子さんのことについて確認をとった。
 「それにしても、自衛隊や消防の皆さんのおかげです。危険もかえりみず、救命と被災者支援に不眠不休であたってもらっています。」
 「総理の指示で、異例の十万人態勢を組んでいます。政府の責任で、あらゆる活動を行っています!」
 「テレビでご覧のようなガレキの山です。数千とも数百とも遺体が海岸に流れ着いています。津波にもまれてご遺体も損傷が激しくて、身元どころか性別もわかりません…。」
 「そうですか…。」
 「でも、自衛隊の皆さんはていねいに収容してくださって、体育館に安置してくださっています。でも、無数のご遺体の収容も捜索もまだまだで、腐乱も始まっているし…。この世の地獄です。子どもに見せたくないのですが、街のいたるところにご遺体の一部が転がっておりまして…。私たちもボランティアで手伝っているのですが…。」
 と、被災した自分のことや、まだ行方不明の母のことを案じながらも、いてもたってもいられなくてボランティアに参加しているとのこと。
 国会も非常事態に突入した。
 大地震対策と、福島第一号原発事故対策が最優先。与野党の対立はたな上げとした。
 被災者として避難所にのがれている人は三十~四十万人の規模。
 生活物資や食料などを調達するために、全国から輸送ルートを確保しなければならない。
 しかし、物資もトラックも船もあるけれどガソリンや重油や軽油が行きわたらない。
 情報不足からの混乱であり、首都圏でのパニック型買い占めが原因。
 さっそく国家備蓄を取り崩して放出を決定するも、想定外の事態に政府は後手後手。
 しかし、ここで怒鳴り合っていても何も前には進まない。
 与野党で論点をつめ合いながら、燃糧を確保し、物流の拠点(道路・港・空港)を確保し、支援を待っている病院や福祉施設、そして避難所に届けなければならない。人命最優先。
 人もモノも情報も足りない。どうしようもない。
 けれど、あきらめてはならない。
 必ず誰かが助けてくれるし、誰かが手を差し伸べている。
 何よりも、超法規的措置を政治が決断しなければならない。
 戦後最大の国難を乗り越えられるかどうか日本人が試されているときでもある。
 国民の生命・財産を守り抜く決意を、国会議員を先頭に、国民全員が一致団結して持たなければならない。その決意の結集と、行動こそが健全な民主主義。
 国民なくして国家なし、国家なくして国民なし。
 東日本大地震からの復活は政治も日本人も試されている。

(了)