社会時評エッセイ

日本主導で東アジアの
核バランスを築く
Vol.317[2019年2月号]

藤 誠志

恒例の海外研修旅行で
ドイツのポツダムを訪れた

 十一月三十日からの五日間、春秋年二回の実施が恒例となっている、アパグループ社員、アパコーポレートクラブ、勝兵塾合同の海外研修旅行に行ってきた。毎回、戦跡を訪ねることを旅のテーマにしているが、今回は五日間の日程でドイツを巡った。ベルリンに入ってまず訪れたのは、ベルリンの壁の跡だ。有名なイーストサイドギャラリーでは、約一キロメートルに亘って、残ったベルリンの壁に、世界各国のアーティスト達が様々な絵画を描いている。最も有名な絵は、ソ連のブレジネフ書記長と東ドイツのホーネッカー議長がキスをしているものだろう。その他にも日本の富士山の絵などが延々と続く。そこからベルリンのシンボルとも言われるブランデンブルク門を通過して、ポツダムへと向かった。
 ポツダム会談が行われたツェツィーリエンホーフ宮殿は、今でも当時のまま保存されている。ここでポツダム宣言についての説明も受けた。以下、ウィキペディアの「ポツダム宣言」のページに記載されている内容を引用しながら、この宣言が出された時の状況を振り返ってみる。「一九四三年一月のカサブランカ会談において、連合国は枢軸国のナチス・ドイツ、イタリア王国、大日本帝国に対し、無条件降伏を求める姿勢を明確化した。この方針はアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領の意向が強く働いたものであり、一一月一七日のカイロ宣言においてもこの姿勢は確認された。ソ連の最高権力者ヨシフ・スターリンやイギリスのウィンストン・チャーチル首相は条件を明確化したほうが良いと考えていたが、結局ルーズベルトの主張が通った」「一九四五年二月のヤルタ会談においてはルーズベルトが既に病身であったために強い姿勢に出られず、南樺太、千島列島、満州における権益などの代償を提示してソ連に対して対日戦への参加を要請した。四月にルーズベルトが死去し、副大統領に就任してわずか三か月のハリー・S・トルーマンが急遽大統領となった」。トルーマンは副大統領でありながら、マンハッタン計画によって核開発が行われていることを全く知らされていなかった。また「トルーマンは外交分野の経験は皆無であり、また外交は主にルーズベルトが取り仕切っていたため、アメリカの外交政策は事実上白紙に戻った上で開始されることとなった」「ドイツ降伏後、トルーマンは日本に対して無条件降伏を求める声明を発表した」が日本はこれを受け入れなかった。
 「アメリカ合衆国政府内では、日本を降伏に追い込む手段として、原子爆弾の開発、日本本土侵攻作戦(ダウンフォール作戦、コロネット作戦等を包括する総合計画)、ソ連の対日参戦の三つの手段を検討していた。原子爆弾はその威力によって日本にショックを与えることができると考えられ、開発計画が進展していた。一方で陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルを中心とする軍は、日本降伏には日本本土侵攻作戦が必要であるが」、硫黄島での激戦や沖縄上陸作戦などの例を見ても「膨大な犠牲を伴うことが予想され、それを軽減するためにはソ連の参戦が必要であると考えていた。ソ連の参戦は日本軍を大陸に釘付けにするとともに」、当時は日ソ中立条約が有効だったため、「ソ連を仲介として和平を試みていた日本に大きなショックを与えるとみられていた」。

何度も検討されながら
提示されなかった国体護持

 「一方で国務次官ジョセフ・グルーをはじめとする国務省内のグループは、政治的解決策を模索していた。グルーは日本が受け入れ可能な降伏可能案を提示して降伏に応じさせる、『条件付き降伏』を提案していた。五月二八日には天皇制を保障した降伏勧告案をトルーマン大統領に提示した。一方、陸軍長官ヘンリー・スティムソンは無条件降伏原則を破ることに否定的であったが、日本本土侵攻作戦の犠牲者数想定が膨大なものとなると、グルーやジョン・マックロイ(英語版)陸軍次官補、ハーバート・フーヴァー元大統領らの意見に従い、降伏条件提示に傾くようになった」「一九四五年六月一八日のホワイトハウスにおける会議で、日本本土侵攻作戦が討議された。スティムソンは日本本土侵攻作戦に賛成の意を示しつつも、政治的解決策が存在することをほのめかした。マックロイはこの会議の最中発言せず、会議終了直前にトルーマンがマックロイの意見を問いただした。マックロイは『閣下は別の方策をお持ちだと思います。それは徹底的に検討されるべき方法で、もし我々が通常の攻撃および上陸以外の方法を検討しないのであれば、どうかしていると言われても仕方の無い事だと思いますよ。』『我々が良しとする条件を日本政府に対して説明してやる事です。』と答え、政治的解決策の重要性を主張した。トルーマンが具体的にどういう条件かと聞いたところ、マックロイは『私は、日本が国家として生存する事を許し、また立憲君主制という条件でミカド(天皇)の保持を認めるという事です』と答えた。トルーマンは『それはまさに私が考えていたことだ』と答え、スティムソンも『(この案が表明されたことは)たいへん喜ばしい』と同意した。マックロイは原爆の投下についても事前に日本に警告を行うべきであるとしたが、もし原爆が失敗した場合にアメリカの威信に傷が付くという反発を受けた。トルーマンはマックロイに日本に対するメッセージについて検討するべきであると命じたが、原爆については言及しないようにと付け加えた。これはトルーマンも対日降伏勧告の意志を持っていたが、マーシャルらの手前自ら主張することは好ましくないと考え、マックロイらに口火を切らせたとも見られている。これ以降、スティムソン、マックロイらを中心とした陸軍が日本への降伏勧告案について検討を本格化するようになった」という。

原爆投下に向けて
入念に準備したアメリカ

 早期の日本の降伏は、ソ連にとっても都合が悪かった。先の大戦に続いて世界赤化のための第三次世界大戦になだれ込み、それによって世界覇権を握ろうと考えていたソ連にとっては、自分達が十分に態勢を整えてからの日本の降伏が望ましかった。一方、ルーズヴェルト大統領の後を継いだアメリカのトルーマン大統領とバーンズ国務長官は、アメリカの多大な援助によって軍事的モンスターと化したソ連が、自らの世界覇権のために第三次世界大戦を引き起こすことを阻止するためには、議会機密費を使って開発、完成間近な原子爆弾を使用し、ソ連を牽制するべきだと考えた。日本は当時、蒋介石の重慶政府やソ連、スウェーデンなど、あらゆるチャンネルを通じて講和の意志を示していたし、アメリカ政府内にも原爆投下の意義を疑う人がいた。そんな状況にも拘わらず原爆投下を決断したのは、使用しなかった場合、開発費として投じた議会機密費を「無駄遣いだ」と批判されることを恐れたことももちろんあったが、むしろ新たな戦争を阻止するためというのが一番の理由だった。また日本本土上陸作戦の際のアメリカ将兵の犠牲者は、それまでの硫黄島での戦いなどから類推して百万人と予測されており、これを避けたかったという説もある。様々な理由から、原爆投下に向けて、アメリカは入念な準備を開始した。
 ウィキペディアにもある通り、アメリカ政府内でも天皇制という国体を護持したままの降伏を認める流れだったが、日本に対してはこれを明らかにせず戦争を長引かせ、その間に原爆の完成を急いだ。そしてとうとう、一九四五年七月十六日にアメリカは核実験に成功する。その翌日の七月十七日からポツダムでのアメリカのトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン書記長による会談が始まった。この戦争の末期から米ソの対立は明らかになってきており、一九四五年四月のベルリンを巡る戦いでは米ソが先陣争いを展開し、それが後の東西ドイツ分断に繋がる。ソ連との外交経験のないトルーマン大統領、途中総選挙によって政権交代が起こり、チャーチルに代わって急遽参加したアトリー首相が相手ということもあって、会談はスターリンの主導で進められ、二月のヤルタ会談に引き続いてソ連に都合の良い結論が導き出された。そんなポツダム会談最中の七月二十六日に、米英中の三カ国の共同声明としてポツダム宣言が出されたが、議論の結果、ここでも日本の国体護持の保証を明記することは見送られた。結果、この宣言に対して日本政府内では激しい議論が行われ、その間に原爆が投下されることになる。
 それに先立つ一九四五年三月十日に行われた東京大空襲も、原爆投下の布石だという説がある。この爆撃の前に、アメリカは砂漠に障子や畳などを持ち込んだ日本家屋が並ぶ実験施設での延焼実験を行うことで、三十八発の子焼夷弾をまとめた収束焼夷弾を造り上げた。実際の爆撃時も、まず東京周辺に焼夷弾を投下、逃げ場を無くしてから中央に焼夷弾を投下するという方法で、一晩で十万人もの焼死者を出した。原爆では広島で十四万人、長崎で七万人が亡くなったとされている。アメリカ政府は戦争は悲惨なものであり、原爆でも焼夷弾でもいずれも同じほど大量の死者が出るという実態を示すことで、東京大空襲を、原爆投下は非人道的であるという批判に対する免罪符にしようとしたのではないかと言われている。
 原爆投下とその後の対応も、アメリカは極めて冷静だった。投下目標の都市の選定後は、原爆投下後の効果測定のために、それらの都市への通常爆弾での爆撃は禁止された。そして、まず八月六日にウラニウム型原爆の「リトルボーイ」を広島に投下した。その余りにも凄まじい破壊力に、時間を置けば世界各国から人道に対する罪だと糾弾され、二発目を投下できなくなると判断、最初のものとは異なり爆縮によって核反応が起こるプルトニウム型原爆の「ファットマン」を、三日後の八月九日、長崎に投下した。日本の降伏後には即座にアメリカの科学者や医師が広島、長崎を訪れ、原爆の威力について日本人医師や旧軍人を使って大々的な調査を開始した。被爆者の治療は後回しにし、爆心地からの距離と被爆者の致死率や症状の関係、コンクリートや木造の建物での影響の違いなどあらゆるケースが調査の対象となった。これらの調査過程で被爆者や被爆した家屋など、様々な惨禍が記録映像に収められたが、公表は控えられた。

日本が再び被爆国に
その可能性が高まっている

 一九四五年八月八日にソ連は日本に宣戦布告、八月十五日以降も侵攻を止めずに樺太全域、北方領土を次々と占領するなど、ソ連軍による一方的な戦闘行為は九月五日まで続いた。そのまま放置されていれば、ソ連は北海道全域を占領しようとしただろう。またヨーロッパでも、フランスなど陸続きの国々や疲弊したイギリスまで、全て共産化するべくソ連は戦闘を継続したはずだ。しかしアメリカが原爆を投下して、その威力をスターリンに見せつけた効果は大きく、第三次世界大戦という「熱戦」は、その後四十五年間に亘って続いた「冷戦」へと変わった。しかしこれも悲惨だった。東西に分断されたドイツでは、西側と東側の経済の格差が露わとなり、東から西への逃亡が相次いだ結果、西ベルリンの周囲にはまず鉄条網、次いでコンクリートによって「ベルリンの壁」が築かれた。それでも逃亡を望む人々は後を絶たず、射殺される者など悲惨な事件は枚挙に暇がなかった。
 人類史上初の原爆二発は日本に投下された。次に原爆の被爆国となるのはどの国かと考えると、また日本に投下される可能性が最も高いと私は考えている。中国からの侵攻を防ぎ自らを守るために核開発を継続した北朝鮮の金正日は、二〇〇四年四月に北京に呼び出され、核開発の断念を迫られるが拒否、その帰り道に龍川駅で爆殺されそうになる。出迎えの小学生など数千人が死傷したが、事前に情報を得た金正日は別の列車に乗っていて無事だった。北朝鮮はその後も核開発を継続して二〇〇六年十月に核実験に成功、核保有国となった。北朝鮮の核兵器は既に核大国になっているロシアにもアメリカにも使えない。中国に対しても、使えば核による反撃を受け、国が無くなる危機に陥る。同胞の韓国は将来の民族統一の相手であり、その韓国相手に決して核は使わないだろう。そう考えれば、周辺国で唯一核による威嚇が効き、併合時代の賠償金と称して多額の金を獲得できる可能性もあるのは日本だけだ。日本が北による核攻撃を受けた場合、アメリカが北に対して、グアムやハワイ、場合によっては本土を核ミサイル攻撃されるリスクを取ってまで核で反撃する可能性はない。現実的には核の傘などはなく、実は日本に核抑止力はないのだ。
 自国を守るためには、日本は独自に核バランスを維持する手段を確保しなければならない。まず憲法を改正し、非核三原則という国会決議を廃して、アメリカと、今もNATO四カ国ベルギー・イタリア・ドイツ・オランダ(過去にはカナダ・ギリシャ・トルコも参加していた)が結んでいるニュークリア・シェアリング協定を結ぶのが、最も現実的だろう。米ソ冷戦時代にはNATO四カ国がこの協定をアメリカと結ぶことで、ヨーロッパにおけるソ連との核バランスを保つことが出来た。今、米中新冷戦が勃発した中、東アジアの核バランスを保つためには、日本が憲法を改正して真っ当な国となり、ニュークリア・シェアリング協定を結ぶ必要がある。憲法改正に必要な両院の三分の二の議員の賛成による発議は、来年の参院選で不可能になる可能性がある。今の内に改憲議論を進め、来年早々には発議を実現、国民投票と参院選のダブル投票にするか、場合によっては衆議院を解散してトリプル投票にして、何としてでも改憲を実現するべきである。その際には、「日本の将来を決める岐路は今」という意気込みで一大キャンペーンを展開、大きな国民運動にするべきだ。今独立自衛の国家にならないと、日本は早晩、中国の一自治区になってしまう可能性が高い。

2018年12月10日(月) 18時00分校了